苦しみに会う  

(詩篇119篇67、71、75)

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」

苦しみについて、新約聖書のヤコブ書には、
「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」(ヤコブ書5章13-14)と述べられています。
このヤコブ書では、病気になることと、苦しむことが区別されています。

この詩篇でも使われている「苦しみに会う」ということは、どのような意味なのでしょうか。

この詩篇で「苦しみに会う」ということは、わたしたちが病気や災に出会うということより、むしろ、神がわたしたちの人生で、神のご計画、人生の本当の目的を教えられる訓練、超えなければならない試練、という意味で使われていることが解ります。

苦しみに会うとき、祈りなさい、と言われています。それは、苦しみをとおして、神との対話を深め、神がわたしたちにご計画されている御心を悟り、主の真実を知ることが、この箇所で「苦しみに会う」ということの意味なのだと思います。

同じ詩篇の箇所を口語訳では、「わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみことばを守ります。」「あやまちを犯した」とあるのを口語訳では「迷いました」と訳しています。これは興味象深いことです。
この詩篇の箇所は、苦しむことをしたから、迷いから救い出されたと述べています。
詩篇の作者は、今は神のみ言葉を守っていると告白していますが、それは今の状態であって、かつては、迷っていたというのです。
普通、私たちは苦しいときに迷うという風に考えます。だから、苦しみが迷いの解決にはならないと考えます。
しかし、この詩篇の作者は、苦しみに出会ったことによって人生の迷いに対する解決が与えられた、と述べているのです。そして、人生体験で、苦しみを体験する前には、迷いの道を歩んでいた、あやまちを犯していることに気付かなかった。と述べているのです。
苦しみに会うことによって、今は、迷いの道、愚かなあやまちを犯していることを気付かされ、迷いが吹っ切れた、と言っているのです。
71節でも、普通、苦しみに会うことは不幸だと思われるのに、苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。と述べています。
ここでも、苦しみに会わなければ神のおきてを学ぶことが出来なかった。だから、苦しみにあったことは、わたしに良い事です。と言うのです。

詩篇119篇全体をとおして、「主のおきて」「主のあかし」「主のさとし」「主の定め」「主の戒め」ということが述べられています。
そして、これらの、おきて、あかし、さとし、定め、戒めということをとおして、主の道と、自分の道、の二つの道が述べられています。
「神の道」と「自分の道」はしばしば一致しません。
作者は、「苦しみに会ったことによって」「主のおきて」「主のあかし」「主のさとし」「主の定め」「主の戒め」を学び、「神の道」が真実であることを悟り、「自分の道」、自分の生き方が「主の道」、主の御心にかなう生き方に導かれたと証しています。 
普通、人は「主のおきて」「主のあかし」「主のさとし」「主の定め」「主の戒め」ということを聞くと、「神の道」は、あたかも義務や強制のように聞こえます。

義務や強制された生き方は、決して自分が喜んで選び取る生き方にはなりません。

この詩篇全体で「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々」「幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」と、幸いな人について述べられています。(1節-4節参照)
ここで、「まったき道」を行く人は、「堅く守るべき戒めを仰せつけられた」という「神の道」を歩む面と、「心を尽くして主を尋ね求める」という自発的で意欲的な「自分の道」を歩む、二つの生き方が重なるような生き方をしている人だと言っています。

心を尽くすことは、強制や義務からは生まれません。従って、自ら喜んで選び取る「自分の道」と、神が喜ばれる、主のおきて、や主の戒めを守って歩む「神の道」が一致している人が、「まったき道」を歩む人であり、そのような人が「幸いな人」だと最初に宣言されています。

わたしたちは、人生を歩む上で「自分の道」を歩みます。守るべきおきて、さとし、定め、戒めといったものは、それが如何に「神の道」であっても自発的で喜んで選びとるというものではなく、むしろ自分の意志の外側から義務付けられたり、強制されるものと思われます。

わたしたちは、誘惑に出会うとき、しばしば好奇心にかられて踏み込んではならない領域に入り、守るべき おきて、さとし、定め、戒めを破ります。このようなとき、「自分の道」は、失望、悩み、つまずき、といった苦しみに出会います。
そして、苦しみに出会うときに自分にとっては義務や強制であった主のおきて、戒め、を守ることが、新しい意味を見出す体験となります。                       

主のおきて、戒め、主が言われていることが、知識や、自分の意志の外側から義務付けられたり、強制されるものととしてではなく、自分の人生の体験をとおして真実であることを悟るのです。 

詩篇の作者は75節でも「主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。」と、述べています。 

自分にとって、強制や義務のように思えていたものが、神が自分の人生をより豊かに導くために示されている真実なのだと気付くとき、神のことばを守ることは、強制や義務ではなく自発的に喜びをもって選び取ることのできるものとなります。「主の道」と「自分の道」が一致したものとなってくるのです。


苦しみに会わなければ神のおきてを学ぶことが出来なかった。だから、苦しみにあったことは、わたしに良い事です。と、この詩篇の作者が述べているように、神は、わたしたちを、ただ苦しめ悩ますためだけに苦しみに会わせることはされません。

「たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」(哀歌3章32-33)

神は、わたしたちの人生の歩みのなかで、失望や悩み、つまずき、疲れといった苦しみとおしてわたしたちをより神に近付け、神から受ける慰めをとおして同じような苦しみにある人々を慰める器と変えてくださいます。

もし苦しみに会うとき、神がわたしに主の道を教えられるためなのだ、ということを知るのは大切です。

神のことばに信頼し、それに従い、御言葉を守って生きるとき、わたしたちの人生はたとえ苦しみに会っても、豊かに祝福されます。

神の生きた御ことばであるイエス・キリスト御自身が、「 すべて、疲れた人、重荷を負ってい る人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ福音書11章28-30)と、わたしたちを招き、共に歩んで下さるのです。


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