人の手によって造られる神  

(詩篇115篇1-8)

                             

わたしたちは、生きてゆく上で、本能的ともいえる欲求、満たすべき基本的願望を与えられています。

心理学者は、人の欲求には呼吸、渇き、飢え、性欲が基本的願望として与えられており、これらを適度に満たすことが出来ないと生理的にも、心理的にも障害を来たすと述べています。

呼吸すること、渇きを癒すこと、飢えを満たすこと、性欲によって子孫が継続してゆくことが人の生存に不可欠だというのです。

人が人として生きてゆく上で不可欠な基本的願望、欲求は、心理学者が述べる生理的な欲求だけでなく、わたしたちが一体何者かという存在の意味を知りたいという基本的な願望が与えられています。

この願望は、わたしたちが何らかのもの、何者かを拝みたいという欲求です。

何者かを拝みたいという欲求は、人に与えられている基本的な願望です。

それは、人が人生の意味、自分の人生の目的を見出そうとする願望です。この願望によって、人は自分の拝む対象を造り上げます。

エジプト人たちは、自然の圧倒的な力を見て、創られた自然を崇拝しました。太陽の持つ圧倒的なエネルギーを見、太陽を神としました。

自然の持つ様々な様相と、自然界に見られる様々な生命を見て、それらすべてを崇拝の対象としました。

モーセによってイスラエルの民が奴隷の状態から解放されるとき、このことが詳しく述べられています。
 
古代ギリシアでも、人々の様々な感情を代表する神々が拝む対象として造られました。愛の神、憎しみの神、戦いの神、力の神、寛容の神、等々、ギリシァ神話をみるまでもなく、実に様々な神々が登場します。

生ける神の救い、福音を伝える使徒としてポーロが、ギリシァの街アテネを通ったときにも、これらの様々な神々が祀られているのを見たときのことが聖書のなかの使徒書に詳しく記録されています。(使徒書17章16-32 参照)

この詩篇が詠まれた時代の偶像は、基本的にバアル、モレク、マモン、アシュタレトの神々でした。これらの偶像は、人の手によって刻まれ、銀や金で細工されました。
バアルは、知識を象徴し、モレクは肉の快楽、マモンは富、権力や支配お金、アシュタレトはセックスを象徴する神々でした。

現代の人々は、偶像など拝まない、自分は無神論者だ、あるいは、不可知論者のように、神は、人の理性や感情の許容範囲のなかで理解することができない、神などわからない、という宣言をします。

それらの人々は、偶像を目に見えるものに刻むということをしないかも知れませんが、偶像の神々によって代表されるものを、しばしば、人生の目的、生き甲斐としています。


偶像を拝む者、バアル、モレク、マモン、アシュタレトの神々の行き着く先には何があるのでしょうか。

バアルを神とする人々、又は、知識を人生の目的とする人々にとって、終局的な知識の目的、知識によって創造の神秘、あるいはすべての被造物が起因しているものを知識によって知ろうとするとき、結局は知識によっては知り得ることは不可能であるという結論、不可知論に陥ります。

モレクやアシュタレトを神とする人々、すなわち、快楽やセックスが人生の目的だという人々は、その快楽をどんなに追い求めても満足を得られず、遅かれ早かれ、快楽のための肉の欲の虜となってゆきます。

マモン、富や権力を神とする人々も、最後は権力やお金に縛られ、最終的には惨めな滅びに至ります。

偶像は、皮肉なことにそれを得ようとする人を虜にし、人は偶像の奴隷となって滅びに至ります。


人は、何者かを拝みたいという欲求、願望を自分の想像の枠のなかで目に見えるイメージや、自分の納得できるもの、自分で理解し、感じ、自分の考えや感情にあったものに造り上げるとき、偶像を造り上げます。

偶像は、偶像を造り上げる人、あるいは人々自身が投影されています。
偶像を拝むことは、自分自身で造り上げたイメージ、結局は自分を拝んでいるということになります。

人生に起こる問題や障害に直面し、それらの問題が何故おこるのか、それらの解決のために、自分の目的をその人のイメージや感情に添って達成してくれるものが、その人の偶像となります。

それらの人々は、人の手によって造り上げられたのではない生きた創造者、目に見えない、かたちに刻むことのできない神に信頼する者に、「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と、問いかけ、自分の理性や感情の許容範囲のなかで神を理解しようとし、人の理解を超えた神の存在など、いったいどうやって見つけることができるだろうか、と嘲笑うのです。 

詩篇の作者は、人が自分たちのイメージや、感情によって偶像を造り上げるとき、どのようにすぐれた彫像によって、それらの偶像を刻んだとしても、それらは、偶像を造り上げた人々にも甚だしく劣るものとなってしまうことを宣言しています。

どのようにすぐれた細工によって自分の人生の目的を満たすものを、バアル、モレク、マモン、アシュタレトの偶像を刻み、銀や金で細工してもそれらの偶像は「口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。」のです。

このように、どのように人生の目的を満たすように思えるものを自分のイメージや感情によって造り上げ、目に見える形に刻んでも、所詮は自身の願望、または自身に似たもの、しかも偶像を造り上げる人に劣るものを造り上げることになります。

詩篇の作者がここで結論として述べているのは、偶像を造り上げる者は、その偶像と同じようになるということです。

もし人が偶像をつくりあげるなら、偶像が無感覚で感情のないものであるように、無感覚で感情のない、造られた神に似たものに変えられます。


この詩篇は、人の造った偶像ではなく、わたしたちを創られた神に栄光が帰するように、と述べています。

神は、わたしたち一人一人を愛され、わたしたちの神に対する背きの責めを御子によって赦されたばかりではなく、御子の義をも与えてくださいました。

この神の恵みを受け取り、信頼する者を、神は、御子の栄光、神の栄光に似た者へと変えられます。

このことを、使徒パウロは次のように言っています。

「 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント書3章18)

同様のことを、イエスの弟子ヨハネは、
「私たちが神の子どもと呼ばれるために、・・事実、いま私たちは神の子どもです。・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。
キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。
子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。
だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。
そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。」(第一ヨハネの手紙3章1-10) と、述べています。


わたしたちが人生で目的としているもの、わたしたちの人生を支配する神、あなたにとって神は、あなたによって造られたものでしょうか。

それとも、神はあなたを創造された方であり、恵みとまことに満ち、あなたを、神ご自身の御子の栄光の似姿に似せてくださる方でしょうか。


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