主の恵みを数える  

(詩篇103篇1)

この詩篇は、冒頭にダビデの詩と記されています。ダビデは、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」と、自分の魂、あるいは自分自身に向かって呼びかけています。

なぜ、自分のたましい、あるいは自分自身に向かって呼びかける必要があるのでしょうか。

わたしたちは、主なる神が善い方、すべての恵みが神からのものであることを忘れ、自分を中心にした状況や、周りに起こる問題に捉われます。

神からの祝福なしには、すべての存在が、悲惨で絶望と滅びに向かっています。

わたしたちは、神が善い方であり、神がわたしたちを祝福されたいと願われておられることを忘れ、神のすでにしてくださったよいことを当たり前のこととして、それに狎れてしまう危険があります。

ルカ17章11~19節にも、イエスによって癒された10人のらい病人のうち、主に感謝するために戻っ てきたのは、なんとたった1人だったことが記されています。 

わたしたちは、自分が傷ついたこと、裏切られたこと、苦境に陥れられたことについては忘れずに覚えていても、感謝すべきこと、喜んでよいことについては、それに狎れてしまうと、それらの祝福はもはや祝福ではなく、当たり前のこととして神からの恵みであることを忘れてしまうのです。

ですから、この詩篇でダビデは「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と自分自身に向かって言っているのです。ここで「主の良くしてくださったこと」として、1節から5節まで具体的に挙げられていることをみてみましょう。

神の良くしてくださる最も大切なことは、神がわたしたちのすべての咎(罪)を赦される方だということです。

わたしたちの人生で最も必要なことは、わたしたちの神に対する咎(罪)が赦されることです。

わたしたちのすべての問題は、創造者である神に背き、神との交わりから断たれてしまったこと、罪の虜となっていることに起因しています。
わたしたちは自分の努力や決心だけで神との交わりを回復することはできません。
神は、神ご自身の御子をとおし、罪のない方をわたしたちの罪の身代わりとして十字架に架けられ、わたしたちが負うべき罪の責めを負ってくださいました。
神は御子イエスをとおして、わたしたちの罪、咎、神に対する背きのすべてを赦してくださいました。

神は、すべての咎(罪)を赦してくださったのです。

ダビデが続いて述べている神の良くしてくださることは、「神がすべての病をいやしてくださった」ことです。

神が創造をされたとき、創られたすべてが良かったと記されています。
最初の人を創られる前に、神は人のために完全な環境を整えてくださいました。
多分最初に創られた人(アダム)は、わたしたちの想像を遥かに超えた能力と完全な身体機能を備えていたに違いありません。
神が人を創造されたのは、神に似せて創られた人が神との交わり、愛と信頼の交わりのなかで永遠に生きるものとされるためでした。

人は罪によって、肉体の死と滅びに至るものとなってしまいましたが、神は、わたしたちのすべての病をいやすことがお出来になります。

どんなに医学が進歩し、医療技術や薬による治療が可能になったとしても、神のみが終局的に病を癒すことのお出来になる方であることに、わたしたちは気付く必要があります。

イエスがこの世に来られたときの奇跡の多くは病の癒しでした。

3節でダビデは、神の良くしてくださることとして、「いのちを穴からあがなってくださった」と言っています。

神は、滅びに至るわたしたちを贖ってくださいました。

神は、絶望に変えて、希望を与えてくださり、生ける望みを与えて下さいました。

イエスの十字架の死と復活によって、わたしたちには肉体の病の癒しばかりでなく魂の癒しと、御子を信じる信仰によって永遠の命の確実な希望が与えられています。
神は、「恵みとあわれみの冠りをかぶらせ、」さらに「一生涯、良いもので満たしてくださり。」「鷲のような若返りを与えてくださる。」方だと、宣言されています。

「冠をかぶらせ」という表現は、あたかも神の目にはまるで私たちを王であるかのごとく見てくださっているということです。神は、いつでも、どこでも、誰に対してでも、良きものをもって満たしてくださることを願っておられます。
神との交わり、神との関係を持っているとき、わたしたちも、神の恵みの素晴らしさをより一層実感することができるのです。

神は、測り知れない力によって、わたしたちが四方八方から苦しめられ、途方にくれるようなときにも、窮することなく、行き詰まることのない道を開いてくださり、(第二コリント4章8-9、 参照)わたしたちに、鷲のような若返りを与えてくださる方です。

「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章31)


ダビデは、1~5節までは個人的な感謝を述べていますが、6節以降では、イスラエルの民全体に対する主のめぐみとあわれみについて記しています。
主のめぐみとあわれみについて、
「主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行なわれ」
「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」
「主は、あわれみ深く、情け深い。」 
方なのだと述べられています。

神は、罪と不義に対して正しい裁きをされます。神との交わりを拒否し、神の寛容を超えて罪と不義にとどまる者を永遠の滅びに引き渡されます。

神が義であり、裁きをされ、神の律法が変わらないということだけをみるならば、不完全で過ちを犯すわたしたちにとって、神は実に恐ろしい存在となってしまいます。

ところが、この箇所でもダビデが吐露しているように、主は、常に責めることをせず、また、とこしえに怒りをいだかれない。
わたしたちをわたしたちの罪にしたがって扱うことをせず、あわれみ深く、情け深い方であるという、全く質の異なる内容が記されています。

それでは、なぜ、主が私たちに対してこんなに良くしてくださるのでしょうか。
なぜ、主は私たちに対してあわれみ深く、情け深いのでしょうか。
なぜ、主は私たちの罪に従って扱うことをせず、咎に従って報いることがないのでしょうか。

その答えは、13節、14節にあります。

「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。 」
「主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。」

神は、わたしたちとの関係を回復されたいと真剣に願われ、神とわたしたちの関係を裁判官と被告人の関係ではなく、父と子の関係を築こうとされているのです。
主は、「私たちの成り立ちを知り、私たちがちりに過ぎないことを心に留めておられ」ます。 私たちの存在のはかなさ、弱さを知っておられ、あわれみを示しておられます。
人は、地の塵から神の息によって生きるものとされましたが、(創世記2章7 参照)神の息、いのち を失ってしまったならば、無に等しいのです。 
神は、そのような無に等しい私たちを愛し、その ために御自身の最も大切な御子を惜しまずに手渡され、わたしたちが、再び神の息を得、いのちを得るものとしてくださいました。(ヨハネの福音書20章22 参照)
そのような、圧倒的な神の愛とあわれみ、慈しみを知るとき、わたしたちは、ダビデと共に神にたいする畏敬の念、主を恐れる者となります。

主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治められる方です。  


神の恵み、あわれみ、いつくしみというのは、人間の思いを超えています。それはちょうど、天が地を遥かに超えているように超えています。
創造主である神の圧倒的な恵み、あわれみ、いつくしみを実感し、主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治められる方だということに気付くとき、わたしたちの魂も主への賛美に満ち溢れます。

丁度オーケストラの指揮者が楽想者たちに向かってそれぞれの賛美の音色を奏で、楽章のクライマックスに向かって指揮棒を振るうように、ダビデはこの詩篇の最後の箇所で、御使いたち、主のすべての軍勢、主に仕える者たち、すべて造られたものたち、主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。 という賛美のクライマックスでこの詩篇を締めくくっています。

「 主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。 主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。 主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。」(20節-23節)  


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