心を尽くして主に拠り頼め  

(箴言3章5-6)


誰でもが、わたしたちの本当の人生の目的は何なのだろうか、という問いかけをします。

誰も無駄に人生を浪費したり、徒労に終わるような人生を送りたいとは思いません。

しかし、どんなに緻密な計算をし自分で計画を立てたように思っても、わたしたちは人生の歩みのなかで何度も失敗と過ちを犯します。
それだけでなく人生の歩みのなかでは、信頼する人からも、裏切られるということが起こります。
どんなに計画をしても、将来に何が起こるかは解りません。

人には限界があり、自分だけの力で本当に後悔のない完全な生涯を送ることはできません。

例え、人から見て成功したように思える人生でも時が経つと、やがて忘れられてゆきます。

わたしたちは、自分で計画し、成功したように思い、それをより確かにしようと自分で積み上げても、それを一瞬のうちに失ったり、突然死が訪れるということをしばしば見ます。

本当に価値のある、いつまでも残る目的を持って人生を送ることが可能なのでしょうか。

イエスは、ある金持ちの農夫の譬えを話され、「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ12章17-21)と言われました。

多くの場合、人は自分の努力や真摯に人生に向き合うことによって、いつまでも残る目的に向かうことが出来ると錯覚します。

あらゆる宗教的な誤りは、人が自分たちの努力や知識、悟りによって、自分の人生の終局的な目的を見出すことが出来ると考えることに起因しています。
本当は、わたしたちが自分の側から神に届くと思うこと自体が誤りです。

有限な被造物である人が、時を超えた永遠の目的に、自分の力や努力によって届くことは所詮不可能です。

人が自分たちの努力や知識、悟りによって到達しようとする目的、人の思いや人生哲学は、必ず有限で、欠陥を持っています。

聖書の御言葉は、すべてが神の霊感によって書かれ、初めから存在し、天地とそのなかにあるすべてを創造され、永遠で全知全能のお方が、被造物をとおしてご自身を示しておられるだけでなく、有限な被造物であるわたしたち一人一人の人生に直接関わりを持っておられ、神と人を隔てている罪の贖いとなられたことが述べられています。

聖書の神は、わたしたちをはるかに超えた側から、わたしたちに触れてくださいます。

時の制限を超え、永遠の方が、イエス・キリストをとおして、わたしたちに直接触れ、わたしたちを贖い、人生を導かれることに信頼し、歩むことが、自分の人生を無駄にしない唯一の道です。

イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ福音書14章6)と、言われています。

救い主であるイエスを人生の主として信頼し、歩むときに、人生の岐路にあっても永遠に生きる希望を与えられ、神の愛と恵みを私達が体験し、知ることができる、と聖書は述べています。

御言葉は、人の賢さに優って賢く、神を恐れる者は御言葉を理解する知恵を与えられ、永遠の豊かないのちへと人を導きます。


ご自身を示されている神がどのような方であるかについて、本当の神のご性質を知ることは、わたしたちの人生の歩む道を選ぶ上で最も大切な指針です。

聖書の神は、常に愛の動機によってわたしたち一人一人を扱っておられ、一人一人の最善を願っておられます。

全知全能である神は、間違いを犯したり、徒労に終わるようなことはされません。
神が、わたしたち一人一人を愛され、時間の制約を超えてはじめから終わりまでを知っておられるとすれば、神の意図されている道を歩み、人生を歩むことが最善です。 


神がわたしの人生に意図されていることを、すんなり受け入れ難いと思う人々は、イエスの救い、神の贖いを受け入れる人々のなかにも多く居ます。

神の意図されている人生を送り、自分の人生の意図を完全に神の意図に委ねることは、その人が、望まないことをしなければなければならないように錯覚していることが往々にしてありますが、神は決してわたしたちの意志を強制されません。

しかし、限られた狭い自分中心の在り方から、神の意図されていることに自分の意図を委ね、神がわたしたちのために用意されている、より溢れるほどの拡がりのある人生を送ることは、報いのある素晴らしい悔いのない人生です。

従って、神がわたしたちの人生に意図されているご計画が、わたしたちを最善に導くものであることに信頼し、人生を歩むことが、わたしたちの人生を満ち足りたものとすることのできる最も重要な鍵なのです。

わたしたちは、神の意図されている人生を送るために存在している、といっても過言ではありません。

神はわたしたちが、この世に生を受ける前、永遠の時点からわたしたち一人一人の人生にご計画を持っておられ、わたしたち一人一人の人生をとおしてご自身が計画されている目的を達成されます。
 


神は、常に神の器を選び、準備をされ、神の器をとおして、神ご自身がわたしたちにされようと意図されておられることを成就されます。

モーセの生涯を見るときにも、神がどのようにモーセという器を準備され選ばれているかをみることが出来ます。  
モーセは最初の生涯の四十年をエジプトで王女の子として育てられ、その後四十年間を砂漠のミデヤンの地で羊飼いとして過ごし、そこで砂漠で生き残り、羊の群れを牧しました。そして、生涯の最後の四十年間は、エジプトで束縛されていたイスラエルの民を約束の地に導き入れるという、神が始めからご計画されていた目的を達成する器としての生涯を送りました。

神の意図に従って歩む人生が、例えば、モーセや使徒ポウロ、そしてビリー・グラハムのように他の多くのクリスチャンにとって目立つ器として歩む人生でないとしても、神は神の生きた御言葉、救い主イエスを主として人生を歩む人たちをとおして、わたしたち一人一人を、ご自身の持っておられる永遠の計画と目的を達成する器として選ばれています。
従って、イエスを主として歩む人生は、神の選びに応え神の器とし人生を歩む歩みであり、それは決して徒労や無駄に終わる人生ではありません。
わたしたちの人生でイエスを主として行ったことだけが永遠に残るものであり、人生をとおして無駄なものとはならない唯一の行いです。
わたしたちの人生が天に宝を積むものでなければ、この地上で行ったことは何れ忘れられ、朽ちてゆきます。


わたしたちは、どのようにして本当に神が意図される人生を歩むことができるのでしょうか。

第一に言われているのは「心から全面的に神に信頼し拠り頼む」と、いうことです。

わたしたちは、自分がおかれている状況のなかで、主への絶対で完全な信頼がなければなりません。
神がわたしたちの一歩一歩の人生の歩みを導かれるとき、それは、わたしたちの思惑とは異なっています。
わたしたちが、主なる神への絶対の信頼をもって人生を歩むとき、どんなに理屈に合わない、わたしたちの思惑を超えたものに思えることにも、偶然と思われるような自然なやりかたで超自然な道を開いてくださいます。

新約聖書の使徒書には、エルサレムの教会が激しい迫害に会い、イエスを救い主と受け入れる多くのエルサレムの信者たちがユダヤ、サマリヤ地方に散らされたことが記されています。
エルサレムの地からサマリヤの地に散らされた多くの信者の一人ピリポは、サマリヤ地方でキリストを宣べ伝え、ピリポの話しとピリポをとおしておこなわれた数々の癒しの業を見て、多くのサマリヤの人々がイエスを信じたことが記録されています。
しかし、人々がイエスがキリストであることを受け入れ、町中が沸き返るような興奮のなかで聖霊はピリポにガザへ下ることを命じられました。
ガザ地区は、現在でもパレスチナ紛争の地としてエジプトと国境を接する地域として知られていますが、当時は砂漠地帯の続く辺境であり何もない場所でした。
ピリポにとって、サマリヤの地域における伝道の成功は、サマリヤこそ伝道の地という思いを持ったことでしょう。何もない荒れたガザの地へ下ってゆくことは、理屈に合わないことに思えたにちがいありません。
ピリポが神の意図に従ってガザの地へ下って行くと、そこで女王の財産を管理するエチオピア人の高官がエルサレムへ礼拝するために上り、自国エチオピアへ戻る途中の馬車に出会いました。
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われ、そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と問いかけました。
すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言い、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼みました。
馬車に一緒に乗ったピリポは、イザヤ書53章を読んでいたこのエチオピア人の高官に、その意味を解き明かし、十字架のイエスの苦難と復活、贖いについての福音を伝えました。このエチオピア人の高官は、キリストにある新しい命を受け入れ、ピリポによって水のバプテスマを体験したことが記されています。(使徒書8章1-38 参照)

ピリポにとって、彼の思惑を超えた聖霊の導きは、イスラエルの地域だけでなく、エチオピアの高官、王室、ひいてはエチオピア全土にまで福音が伝わる結果となりました。

第二に「自分の悟りに頼らない」ということが言われています。
神は、わたしたちが自分で立てた計画や知識により頼むことよりも、何が本当に主の意図であり、神の御心なのかを主の霊によって祈り求め続け、それによって人生を歩むことを求めておられます。

自分自身の思いに捉われ、自分の思惑や計画に固執することより、はじめから終わりまでを知っておられる、神の意図、聖霊の導きに従順で、同じ目的と計画に携わる人々と共に祈りながら歩むことは、より現実的な解決をもたらします。

第三には、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」と、言われています。
主があなたの感情に拘わらず共におられることを常に覚え、主の霊があなたの心に、あることを導いておられると思えるときでも、自分の感情に捉われて祈らずに行うのではなく、その一歩一歩のすべてに、どの道が神の本当に喜ばれる道なのかを見極めた選びとりをすることが、大切だというのです。

生ける神が主である以上、わたしの人生はわたしのものであってもわたしのものではなく、主のものなのです。わたしたちの人生は、私自身を満足させることより主が喜ばれるものでなければ虚しいものに終わってしまいます。

わたしたちは、神がわたしに持っておられる人生の計画のすべてを先に知らせてくれればよいと思います。
しかし、神のわたしたち一人一人に持っておられるご計画は、そのようには働きません。

神は、すべての細かい方法やどのようなことが起こるかについてのご計画の全貌を、前もって知らされません。
神は、わたしたちを一歩づつ導かれます。
神の導きに従順な第一歩を踏み出すまでは次の第二歩は、普通示されません。
神の意図されている道を歩むためには、神が導かれている一歩を従順に踏み出すことによってのみ知ることができるのです。

神が、聖霊によってわたしたち一人一人の心に強く示され、多くの場合わたしたちがそのことを行いたいという願望を与えられるとき、「心から全面的に主に信頼し」、自分の計画や思惑に固執するのではなく、「自分の悟りに頼らず」、神の導きなのか、自分の思い込みなのかを見極め、「あなたの行く所どこにおいても、主を認め」ながら人生を歩むとき、「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされ」ます。


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