濃い酒  

(箴言20章1)


箴言のこの箇所で、濃い酒が人の通常の判断を鈍らせ、酒に惑わされる者が愚行に陥ることが述べられています。

旧約聖書にも、神との交わり、関係を持っている筈の人々が濃い酒に惑わされて愚行に陥ったことについての記録があります。

人が地上にふえ始め、地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていたので、神はこれをご覧になって、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こされました。
大洪水の後にノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫でしたが、ある日ぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていました。
カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げました。それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおい、彼らは顔をそむけて、父の裸を見ませんでした。
ノアは酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」と言い、他の息子セムとヤペテに、「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。
神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」と言ったことが記録されています。(創世記9章18-27参照)

ソドムの町が悪に満ち、神がソドムゴモラの低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えられ、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせられました。その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住み、ほら穴の中に住んでいました。
そうこうするうちに、姉は妹に「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。
さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」と、言って、その夜、彼女たちは父親に酒を飲ませ、姉がはいって行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。(創世記19章30-32 参照)と、ロトが娘たちに酒を飲まされ、近親相姦によって子孫を設けたことが記録されています。

箴言の他の箇所でも強い酒を飲み通常の判断を鈍らせてしまうことが述べられています。

「わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。
ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。
ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。
あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。
あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、
海の真中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。
『私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。』」(箴言23章29-35)

「レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。『強い酒はどこだ。』とは、君子の言うことではない。
酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。
強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。彼はそれを飲んで自分の貧しさを忘れ、自分の苦しみをもう思い出さないだろう。」(箴言31章4-7)

モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民が、神がモーセに示された神の御座を模した幕屋をその指示のとおりに完成したとき、主の栄光がイスラエルの民全体に現れ、主の前から火が出て、祭壇の上のいけにえが焼き尽くされるという圧倒的な光景がレビ記には描かれています。そして、全会衆が感動の叫びをあげ、ひれ伏すなかで、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らが主の前で死んだ。と、いう事件が述べられています。
このとき、主はアロンに告げて「会見の天幕にはいって行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。
それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、また、主がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。」と、仰せられました。
このとき、アロンの子ナダブとアビフが焼き尽くされて死んだのは、ぶどう酒や強い酒を飲んでいたことがその一因であることは間違いありません。(レビ記9章22-24,10章9-11参照)

この事件をとおしても、旧約聖書のなかで祭司が主の御前に濃い酒を飲んで仕えることが忌むべき行いとされています。

イザヤ書には主の怒りの日に、裁きが行われる様子について、神に敵対する者が、「ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろける。アリエルに戦いをいどむすべての民の群れ、これを攻めて、これを取り囲み、これをしいたげる者たちはみな、夢のようになり、夜の幻のようになる。」(イザヤ書28章7)ことが描写されています。

エゼキエル書では、「祭司はだれも、内庭にはいるときには、ぶどう酒を飲んではならない。」(エゼキエル書44章21)ことが宣言されています。

民数記には、主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てることが述べられており、主のものとして身を聖別するため特別な誓願を立てる者は、ぶどう酒や強い酒を断たなければならないことが述べられています。(民数記6章1-5)

イスラエルの民が神の約束された地に入り士師たちによって治められた時代、ペリシテ人から圧迫されていた民を救うためサムソンが母の胎に宿ったとき、主の使いがサムソンの母にあらわれて、「見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。
今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」(士師記13章3-5)と、述べています。

イエス・キリストがこの世に来られる直前、主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにする者としてユダヤの荒野で教えを宣べたバプテスマのヨハネは、父である祭司ザカリヤが、主の神殿にはいって香をたき、祭司の務めをしているときに、主の御使いによってその誕生を告げられました。この時も御使いは、ザカリヤに「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされそしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。」と、告げています。(ルカ福音書1章5-16参照) 

新約聖書でも濃い酒を飲むことについて、使徒パウロは、神の家の監督、管理者となる人が非難されるところのない者であり、酒飲みでないということが条件であることをテモテとテトスに述べています。(第一テモテ3章2-9、テトス書1章7-9参照)

「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。
・・自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。・・
また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。
執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。」(第一テモテ書3章2-9)

「監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、
かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。」(テトス書1章7-9)

旧約の時代には、民と神との取次ぎの役割を担う祭司に対して、特に主の御前に立つとき、ぶどう酒や濃い酒を飲んではならず、新約の時代にはキリストの教会の監督となる者が酒飲みであってはならないことが警告されています。

濃い酒が人の通常の判断を鈍らせるだけではなく、酒が欺きの刺激、欺きの興奮を与えるものであることがわかります。
聖なる神は、わたしたちが欺きの刺激や肉の励みによって近づくことのできない方です。   
神は、特に民のために神を取り次ぐ人々が、欺きの刺激や動機によって主に仕えることを嫌われます。


酒によって人が肉の欲望に引きずられることについて、イザヤ書やホセア書のなかにも次のように警告がされています。

「ああ。朝早くから強い酒を追い求め、夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。」(イザヤ書5章11)

「ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。 彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。 」(イザヤ書5章22-23) 

「エフライムは偶像に、くみしている。そのなすにまかせよ。 彼らは飲酒にふけり、淫行を重ね、彼らのみだらなふるまいで恥を愛した。 風はその翼で彼らを吹き飛ばす。彼らは自分たちの祭壇のために恥を見る。」(ホセア書4章17-19)


使徒パウロは、イエス・キリストの十字架の贖いと復活を信じる信仰によって、いのちの御霊の原理がわたしたちを死と罪の原理から解放し、わたしたちのうちに住んでくださる御霊によって、死ぬべきからだが生かされることを宣言しています。

そして、神の圧倒的な尊厳とご計画について述べた後で、わたしたちが神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてわたしたちの肉の身体をささげ、霊的な礼拝によって生きること、心の一新によって自分を変えてゆくことを勧めています。

さらに、新しく救われた者の歩みについて、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求め、食べ物のことで神のみわざを破壊することのないように、ということを警告しています。

このなかで、「すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。(偶像に捧げられた*)肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。」*著者注(ロマ書14章20-21)と、述べています。  

使徒パウロは、エペソの人々へ宛てた手紙の中でも「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(エペソ書5章9-10)とも述べています。

この世の欺きによる刺激や興奮ではなく、聖霊に満たされることによる本当の喜びと興奮に包まれて、わたしたちが、神に心からの賛美をすることが勧められています。


それでは、酒を飲むことが救いを失うような罪なのでしょうか。
聖書は、酒を飲むことについて、むしろ、それを、勧めているように思えるいくつかの箇所があります。

「強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。」(箴言31書6)

使徒パウロは、愛弟子のテモテに「 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」(第一テモテ5章23)と、少量の酒の薬用効果について述べています。

このように、酒を飲むことについて、それが適度であり、薬用効果をもたらし、他の人の救いの躓きとならない場合、酒を飲むこと自体が罪であるということは述べられていません。 


酒を飲むことだけでなく、食欲、性欲がわたしたちに与えられていることは、それ自体が悪いものであり罪であると聖書は述べていません。
しかし、イエス・キリストの十字架の贖いと復活を信じるわたしたちには、生きたイエスキリストの霊、聖霊が住んでくださいます。
わたしたちが肉の欲を捨ててイエスキリストを着るとき、わたしたちの身体は、主の栄光をあらわす器として使われ、キリストにある自由を最も素晴らしいかたちで使うことができます。    
神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです。

「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。」(第一コリント10章23)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。
わたしたちは、より素晴らしい自由に生きるために、どんなことにも支配されず、すべてを益としてくださる主に信頼し、一瞬一瞬を主の霊に委ねて、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝してこの世での務めを全うすることが求められています。


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