真の知恵  

(箴言11章30)


箴言の1章から9章までは、ソロモンが自分の子供たちに箴言が書かれた目的とそこにある教訓について教え、知恵と理解を深めることが、いかに大切なのかということについて訓戒をしています。   

ソロモンは、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(箴言9章7)
「知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。 」(箴言4章7)
「知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。」(箴言9章9)

知恵を求め、知恵の大切さ、知識を深め、訓戒を学び、特に主を恐れ、知恵と分別を守り、悪を憎むことについて述べています。

ソロモンは神に民を治めるための知識と知恵を求め、物事を理解し、知る知識と、その情報、知識をもとに先に起こる結果を判断し、実際の行動に適応させる知恵が与えられました。

わたしたちにとっても、知識を増し加え、その知識を使い、主なる神を恐れ、人生の歩みを主に信頼して歩む知恵が求められています。

10章からは、最初の箇所で付記されているように、ソロモンの箴言が実際に述べられています。
10章から12章にかけて、ソロモンは、多くの箴言、格言を述べていますが、多くの箴言が正しい者、正しい道、正しい行い、正しいことについて述べられ、それが自分自身だけでなく自分の周辺にも及ぼす影響、あるいは、これと反対に悪い者、悪い道、悪い行い、悪いことがどのような結果をもたらすのかについて述べています。

正しい、ということは一体どういう意味なのでしょうか。「あの人は正しい」という言葉を使いますが、どのような人のことを、正しい者といっているのでしょうか。


正しい、正しい者という言葉自体、明らかに人を創造された神に対して正しく、他の人に対しても正しい、ということを意味しています。

神は、モーセをとおして、人が神と正しく、他の人と正しく関係を持つための律法を与えられました。
旧約聖書のモーセの十戒と呼ばれる神の律法が、神と人との正しい関係を持つためのものであるにも拘わらず異論を唱える人々がいます。
しかし、もし、十戒に述べられていることを自分の都合に合わせて変えてしまえば、正しい基準そのものが変わってしまい、正しい神と人との基準は歪められたものとなります。

神が与えられた規準、十戒が正しいものであることを認めることは難しいことではありません。


使徒ポウロは、律法について、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ロマ書7章12)と延べています。

イエスも「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」と言われました。

イエスは、律法の一点一画も廃ることなく、これを成就することが、正しい基準だと言っておられます。そして、律法を行うということは、外側に現れる行為だけでなく、心の動機についても 正しいものでなければならないことを強調されました。

律法が霊的なものであることについて、イエスは次のように言われています。
「『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ福音書5章18-22)
そして、「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。」(マタイ福音書5章27-29)とも言われています。 

このように、律法が単に外に現れる行い、他の人に見えるものよりも、わたしたちの心の深い動機、態度までも正しいものでなければならないものだとすれば、神は、正しい、正しい者とされるために、より高い基準を要求されていることがわかります。

実際、イエスは、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」と、言われています。
 


神が言われている正しい、正しい者の基準がそのような完全を要求するものだとすれば、誰も自分の努力や、行いによって神から正しいとされることはあり得ないことがわかります。

神の律法を完全に行うだけでなく、行いの動機となっている心のあり方、態度までが完全でなければ、正しい、正しい者とされることはあり得ないからです。

律法を行うことによって神の前に正しい、義とされる者は、この世に誰一人存在しません。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」(ロマ書3章23)のです。
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(第一ヨハネの手紙1章8)

神は、わたしたちを正しい者とするために律法を与えられたのではありません。


使徒パウロは、律法が良いものであるにも拘わらず、律法を行おうとすればするほどそれに逆らっている自分を見出し、律法によって自分に罪があることを知らされると言っています。

「 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない。』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。 」(ロマ書7章7)
そして、「 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」(ロマ書7章14)と、言っています。

神が律法を与えられたのは、わたしたちを正しい者とするためではなく、誰一人として神の前に正しいとされる者がないことを示されるためでした。

律法が成し得る唯一のことは、神が正しいとされる基準をわたしたちに示すことです。
しかし、律法は、わたしたちがそれを守ろうとするとき、その基準を守ることすら出来ないということに気付かされ、律法を示されても、それを守るための何の力も与えられておらず、律法を意識して行おうとするとき罪の意識だけが生じるということに気付かされます。

それでは、ここでソロモンが箴言で述べている正しい者は存在し得ないのでしょうか。


もし、わたしたちが、律法を守ることによって正しい者とされるというならば、キリストがこの世に来られ、わたしたちの罪の身代わりとして死なれる必要はありませんでした。

律法を守ることによってもたらされる正しさは、自分が律法を守った、というイエスが来られたときのパリサイ人が持っていた偽善と、律法を守らない、あるいは知らない人々を見下す、自分を他と比較して正しいと看做す高慢さでしかありません。

人は誰でも律法を完全に守ることはできません。わたしたちは、律法のみでは他の人が律法を守らないことに不寛容で、自分自身も神の基準には達し得ない、全く希望のない惨めな状態にある存在なのです。

このようなわたしたちに、神は正しさに対する別の基準を、わたしたちに与えられています。

それは、わたしたちが単純に神に信頼する、神の言葉に信頼することによって与えられる正しさです。

神は、わたしたちが神に信頼するとき、その信仰を見られてわたしたちを正しい者と看做してくださいます。
旧約聖書の創世記に、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章6)と、記されています。
アブラハムは神の律法を完全に守ったのでもなく、全く無知だったのでもありません。アブラハムは偽り、欺きの罪を犯しています。
しかし、神はアブラハムを正しい者と看做しておられます。それは、彼が神を信じ、神の言葉に信頼したからでした。
天地を創造された永遠の神が、わたしたち一人一人を愛され、神の御子キリストイエスをこの世に送られ、わたしたち一人一人の罪の贖い、わたしたちの罪の身代わりとして十字架の上で死なれ、わたしたちの不義を覆ってくださったことを信じ、その神を信頼する信仰を見られてわたしたちを正しい者と看做して下さるということ以外に、わたしたちが、正しい者とされることはありません。


わたしたちには、誇りにできると思うような自分の律法の行い、地位、富、名誉、知識、この世の権威のどのようなものよりも、神の御子イエスを信じることによって与えられる神から正しい者とされる素晴らしさに優る栄誉はありません。

使徒パウロも、このことを、「私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ人への手紙3章7-9)と、述べています。


ソロモンはこの箴言で、「正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。」と、言っています。

信仰によって歩む歩みは、命の木であり実を結び、主なる神を恐れ、人生の歩みを主に信頼して歩む知恵は多くの人を福音に導き、救いにいたらせます。

この世は、生きている間、飲み、食い、楽しめと、呼びかけますが、本当の知恵は若い時に主を覚え、主に信頼して歩む人生です。

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ福音書16章26)


夜空を彩る花火を見ていると、人々はその美しさ、華麗さに感嘆します。しかし、一瞬の興奮と歓声、感嘆の後で花火が消え、その夜空に静けさが戻ってくると花火は忘れられますが、大空にいつまでも輝く星のきらめきは、いつまでも消えることなく輝きつづけます。

わたしたちが、イエス・キリストによって、神の言葉に信頼し歩むことが、本当の人生の知恵であり、一瞬の花火のような生涯ではなく、いつまでも大空に輝く星のように人生をおくる秘訣です。

「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」(ダニエル書12章3)  


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