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魅せられて拝む 

(申命記4章15,19、23)


人の持っている根本的な欲求について、心理学者のアレクサンダー・マズローは、基本的な生理的欲求、空気、水、食欲、性欲などの欲求を挙げ、そのほかに、自分が認められ、他との交わりをもちたいということが人の持っている基本的な欲求であると述べています。
確かにこれらの欲求は、わたしたちが生存してゆく上での必要を満たすために神が与えられたものです。
心理学者のマズローがこのなかで述べていないのは、わたしたちが一体何者かという存在の意味を知りたいことと、わたしたちが何か、何者かを拝みたいという欲求です。


パウロも、アテネのアレオパゴスの丘で人々が、あらゆる偶像をつくり、それを拝んでいるのを見て、「 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。 「 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。 (使徒17:23-27)と、言っています。

また、「すべての被造物が虚無に服し、創造者の神を待ち望んでいる。(ロマ8:20)」とも言っているように、わたしたち人間の根本的欲求は、わたしたちの魂を本当の意味で満たす何者か、何かを拝みたいという欲求です。


モーセは、申命記のこの箇所で、「 あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。
気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。
あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」(申命記4章15、23、-24)と言って、イスラエルの民が魂を満たす神を拝みたいという欲求、思いに駆られるときに、人が陥る誘惑、偶像礼拝についての警告を与えています。

申命記4章19節では「また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。」とも述べています。
 

パウロは、ロマ書で、「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。」(ロマ1:20-25)と述べています。

さらに、人が被造物の素晴らしさをみて、それを創造された方を拝むのではなく、被造物自体を拝むとき、人が神の怒りを貯めていることについて警告をしています。
「 御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」(ロマ2:5)


モーセは、神が語られた時、御声を聞きました。しかしその姿をみることはできなかった、と言っています。神は霊であり、ことばによって関係を持たれる方だからです。

「 主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行なうように命じられた。」(申命記4章12-13)

人は目には見えない神を、人のかたちや、鳥、獣、はうもののかたちに似た物に代えてなんらかの目に見える形であらわそうとし、それを祀り上げて拝もうとします。

イエスがはじめてご自身を救い主として現された時、神を礼拝することは、生きてこの世に来られた御子を主とし、父なる神を霊とまことによって礼拝することなのだといわれました。

サマリヤの女がイエスに「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」(ヨハネ福音書4章20)と言ったとき、この女にイエスは、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ福音書4章23-24)と、言っておられます。

神は目に見えるものや、形ではなく、神ご自身のことばによって人が神との関係を持つことを望まれています。それは神が契約を結ばれ、ことばによって語られる方だからです。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ福音書1章1-2、14)

神と人との関係は、神の語られる言葉をとおして結ばれる契約関係です。わたしたち人間同士の関係も言葉によってお互いの意志を確認し、人格と人格の触れ合いがあり、同意した言葉を行うことで信頼関係が築かれます。
「ふたりの者がもし約束しなかったなら、一緒に歩くだろうか。」(アモツ書3章3口語訳)


神の語られた御言葉に信頼するよりも、目に見える自分のイメージや、自分の納得できるもの、自分で理解し、感じ、自分の考えにあったものに依り頼もうとするのは、創られた人間中心の罪の性質です。
わたしたちが、自分の感情に捉われ、自分の作り出したイメージや目に見えるものに頼るときに、イスラエルの民もわたしたちクリスチャンも偶像礼拝の危険にさらされます。 
人はなんらかのかたちで神を礼拝せずにはいられません。誰かに、何者かを対象にそれを神とせずにはいられません。しかし、わたしたちが、神の言葉に従うことよりも自分の感情や理解を優先させるとき、偶像を作り出すのです。


わたしたちが、自分自身の理解や、自己中心の喜びより、人となられた御言葉であるイエスにより頼み、神の喜ばれることを優先して人生を歩む時、神の素晴らしさをより深く体験し、
偶像礼拝に陥ることなく霊とまことによって創造者を礼拝することができるのです。



 
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