この申命記10章で、モーセは神があなたに求めておられていることをイスラエルの民に宣言しています。それは、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕えることだと述べています。
神がわたしたちに求めておられることを、わたしたちが心から聞いて、守り、行うものとなっているでしょうか。
「 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」 (マタイ福音書7章21-23)
「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。」(ルカ6:46)とも言われています。
このような、イエスの言葉は、わたしたちが、もう一度、自分自身の心を吟味するための警告の言葉となっています。
「人には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています。」(ヘブル9:27)
従って、わたしたちがこの世で与えられた人生を終え、主の御前に立つとき、主から「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ福音書25章23)と、言われるための歩み、そのために述べられている戒めに、わたしたちも耳を傾ける必要があります。
新約聖書のなかにも、ヤコブ書で、わたしたちに、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」という警告がされています。そして、ロマ書のなかでも、パウロは神の言葉である「律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められる」(ロマ2:13)と言っています。
「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができる。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」 (マタイ7:24-27)と、イエスは言われています。
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル書10章25)という御言葉を聞いても、御言葉の全体を学び、共に主を礼拝し、賛美することを止めてしまうことがないでしょうか。
インターネットで個人的な独善によって御言葉を自分だけの理解で聞いたり、御言葉を味わい、共に主の御名によって集まり、主を礼拝するという聖霊にあって心を一つにするという体験から遠ざかってしまうことがないでしょうか。もし、自分とは意見の違う人々との接触から離れてしまうなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、キリストに従うという体験や互いに霊の実を実らせるといことからも離れてしまうことにはならないでしょうか。
「 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」(ヘブル10:25-26)という御言葉を、真剣に受け取っていないことがあるのではないでしょうか。
「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。
いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。
あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。
悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。
主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。
主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。
彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」(詩篇34編11-18)
と、主を恐れることと、わたしたちの心の打ち砕かれることが結びついていることがわかります。また、
「あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。
あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。」(詩篇31編19-20)
さらに、箴言には、主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。(箴言8:13)と、
主を恐れることが、神を主として畏れ、いのちを喜びとし、欺きのない、悪を憎み、心の打ち砕かれた者、イエス様が御言葉としてわたしたちのうちに住まわれることを畏れるということがわかります。
「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。
あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」(詩篇25編4-5)
また、
「私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。」(箴言4章11)
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章5-6)
イエスも、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ福音書14章6)と、言われイエスを主とし、信頼して人生を歩むとき、
「あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」(使途2章28) ということを体験します。
使徒パウロは、「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ書4章1-3)と、自分の悟りではなく、主の道に歩むことについて述べています。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6章5)と、この申命記でモーセが述べている、主の律法の中核となる戒めが、主を愛し、主に仕えるということが明記されています。
「あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、
主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。」(申命記7章9-10)
「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」 (第一ヨハネの手紙2章6)
「 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」(第一ヨハネ2章15-16)
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(第一ヨハネの手紙3章16-18)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(第一ヨハネの手紙4章10-11)
サタンがイエス様を誘惑しようと試み、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と言ったとき、イエス様は「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(マタイ福音書4章9)と言われています。
わたしたちが、心をつくして神を探し、神を求めるとき、必ず、神はご自身をわたしたちにあらわされ、神に出会うことができます。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(第二歴代誌16章9)
神は、どのような方法でわたしたちが生きるのかという方法を示されているのではなく、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、仕えるように命令されているのです。
御言葉を愛し、神の言われることを行う者と変えられなければ、あなたは、最初の愛からはなれ、主にたいする愛は、なまぬるい心の状態になっているということになります。
主がわたしたちを取られ、わたしたちが栄光の神のみ前に立つ時の近いことを知るとき、わたしたちが、すべてに優先して、イエス様が自分の主となっているかを、心の内で吟味し、日々の歩みを確かなものとしてゆくことを求められています。
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