ヤベツの祈り

( 第一歴代誌4章9-10)


歴代誌の最初の部分は、アダムからはじまり、ノアからアブラハム、アブラハムからヤコブの12部族の人々の系図と名前が列挙されています。ユダの子孫の系図と、それらの子孫の名前が一人一人羅列されてゆくなかで単に名前だけでなく、特に人物の描写がされているヤベツという人が、突然登場します。

聖書全体のなかで、この歴代誌の二つの節に記録されていること以外に一切言及はなく、このヤベツがどのような人物であったのか、わたしたちには詳しいことはわかりません。

この限られた二つの節のヤベツという人物の描写から、ヤベツはコツの子あるいは子孫の一人であり、その兄弟のうちで最も尊ばれ、ヤベツの母は、彼に悲嘆にくれる、悲しんでいる、という意味のヤベツという名前をつけました。
ヤベツの母は、彼が産まれるとき、「わたしは、悲しみのうちに彼を産んだ」と言っています。ヤベツの母の悲しみは、彼が産まれるときの母親の状況に直接関係していたのかもしれません。
何故、母が彼をヤベツと名を付けたのか、はっきりとはわかりませんが、わたしたちには、ヤベツが祈りの人であったことがわかります。ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって祈りました。


神は、わたしたちが祈ることを求めておられます。神は必ず祈りに答えられるかたです。
祈りは、神のもっておられる目的をこの地上で達成するためにわたしたちが心を神の思いと 一つにすることができるための神が定められた手段です。
祈りの目的は、わたしたちの思いや意図を神に押し付けようとすることではなく、神のわたしたちへのご計画、意図を知ることです。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださいます。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(第一ヨハネの手紙5章14-15)

ヤコブが、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ書4章3-4)と言っているように、わたしたちが自分自身の喜びより神の喜びのため、神の意図に従う御心にかなう祈りをするとき、神は必ず祈りにこたえられます。


祈るときに大切なのは、祈る相手がどなたかということを知ることです。 
イエスは、「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」と言われ、だから、こう祈りなさい。

『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕(マタイ福音書6章7-13)
と祈りの模範を教えられています。

祈りは、御子イエス・キリストによって父なる神に、向かって語りかけるものです。
天地とそのなかにあるすべてを創造された神にはすべてのことがお出来になります。神にとって不可能は存在しません。

全能の主なる神は、わたしたちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かにかなえて下さることのできる方です。

キリストが復活され、天に昇られた後で、使徒たちが、生まれつき足のきかない男を癒した奇跡について大祭司、そのほか大祭司の一族、民の指導者、長老、学者たちから取り調べられ釈放されたときに、仲間の一同が心を一つにして、神に祈った祈りが記録されています。
このときの祈りも、「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。」(使徒書4章参照、24節)と、祈りが天地を創造された父なる神に対してのものであり、祈りに神が答えられ、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされました。


ヤベツの祈りの内容がどのようなものであったかをみてゆきましょう。

1)祝福を祈る

最初にヤベツが祈っているのは、わたしを大いに祝福してください。という祈りです。
祈りは、神に対する個人的で率直な思いからはじめられます。
先にみた、「主の祈り」でも、祈る相手がどのようなお方なのかが述べられた後で、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」という個人の祝福を願うものとなっています。
神はあなたが祝福されることを願っておられます。
神の祝福はわたしたちが、神に聞き従い、神の道に歩んでいるかどうかにかかっています。神の律法に従い、神の側にあなたがいるのかどうかが大切なのです。 
神の祝福を求めることは、とりもなおさず神に従うことができるように、神の道を歩むことができるように、神の側に立つことを求めることに他なりません。

「ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」主を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。
しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」(詩篇81編13-16) 

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。
あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。
あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。
あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」(申命記28章1-6)

2)領域を広げる

次にヤベツは「私の地境を広げてくださいますように」と祈っています。 
ヤベツの祈りは、自分の個人的な祝福の願いから、自分だけのものではない他への領域に広がる祈りとなっています。
主よ、より広く、高く、大きい幻(目標)を与えてください。という祈りです。

わたしたちの祈りも、自分自身、自分の家族、自分の領域だけではなく、もっと広い領域へと広がってゆくものでなければなりません。
わたしたちは、ともすると、自分が現在巻き込まれている事柄、自分の領域だけに目を奪われますが、より広い領域、自分の教会だけではなくすべてのキリストの体である教会、自分の現在いる地域だけでなくより広い地域で神の豊かな愛と祝福が満たされることを聖霊に満たされて祈るのです。

3)主の臨在を祈る

その次にヤベツが祈っているのは、「御手が私とともにありますように。」という祈りです。

モーセが神から律法を授けられ山から下ってきたとき、イスラエルの民は金の子牛を造り、この子牛にむかってそれを伏し拝み、踊り、乱れ、それを見たモーセの怒りが燃え上がり、手から神の律法の書かれた板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった、という事件がありました。このあとで、神は、モーセにうなじのこわい民と共には行かれないと告げられました。
このとき、モーセは、「もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」と言って、主の御手、主が共におられることを請い願いました。(出エジプト33章参照)        

モーセは神が共におられなければ、主の臨在がなければ、イスラエルの民を約束の地へ導くことはできないことを主に祈り、願いました。

主の御手がわたしの生涯、常にわたしの人生の歩みのうちにあり、わたしたちが主の御手から漏れることなく主の導きの御手によって保たれ、支え、守られることは、わたしたちの祈りであり、願いです。

4)災いを遠ざけ、苦しむことのないように

ヤベツが、「わざわいから遠ざけてて私が苦しむことのないようにしてください。」という祈りです。  
主が弟子たちに教えられた「主の祈り」にも「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」ということが祈られています。

わたしたちが、悪に満ちたこの世にあって災いから守られることを祈ることは大切です。   

わたしたちの内の自然の肉の思いは、肉の誘惑と悪に引き寄せられやすい性質を持っています。
誘惑に負け、肉の欲に負け、悪のもたらす結果は、悲しみと苦しみです。わたしたちは、悪のもたらす悲しみと苦しみをいやというほど見ることができます。

イスラエルの王となったダビデも誘惑に負け、姦淫と計画的殺人の罪を犯し、このことのゆえに、心の苦しみを詩篇のなかで詠んでいます。(詩篇32編、51編、119編 他 参照)
わたしたちは、悪や不義、ねたみや憎しみ、暴力や策略のない平和な世界、素晴らしく、喜びに満ちた世界が出現することを、待ち望んでいます。
神は御子イエスキリストの十字架の贖いと復活によって、この世を贖われました。しかし、わたしたちはいまだに万物がイエスに服従し、すべての被造物が神の支配に服しているのを見ていません。
イエスがその肢体、花嫁としての教会をとられた後にこの世に再臨されるときには、この世が罪、不義、悪、暴力、欲望のない素晴らしい世界、神の国が到来します。この神の約束は確実で、今や、人類にはその時が迫っています。
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ロマ書12章21)

災いから遠ざけられ苦しむことのないようにしてください。という祈りは、わたしたちの切なる祈りでもあります。
 


悲嘆にくれる、悲しんでいる、という意味のヤベツは、わたしを大いに祝福してください、私の地境を広げてくださいますように、御手が私とともにありますように、わざわいから遠ざけてて私が苦しむことのないようにしてください、という祈りに答えられ、ヤベツは彼の兄弟たちよりも神によって重んじられ、神は彼の願ったことをかなえられました。



 
第一歴代誌へ戻る


a:2233 t:1 y:0

powered by HAIK 7.0.5
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK