父なる神を知る 

( 第一歴代誌28章29)


ダビデは老年を迎え、長寿を全うして、その子ソロモンをイスラエルの王としました。
神殿奉仕のレビ人の役割分担を決め、賛美をする楽人の役割を決め、門衛を組み分け、宝物庫を管理する者を任命し、王に仕える人々を組み分け、イスラエルの主だった者をすべてエルサレムに集め、この世を去るときの近いことを悟って、その子ソロモンに王位を譲ることを皆に告げ、神が言われたことをソロモンに告げました。

そのときの言葉がこの箇所の「わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。」という言葉でした。このなかでダビデは、祝福に満ちた人生を送るための重要なことを述べています。

父なる神を知りなさい。神に仕えなさい。神を求めなさい。ということを、ダビデはソロモンに伝えようとしました。

わたしたちは何者なのか? 
わたしたちの魂を心から満たすのは何なのか?
わたしたちの本当の喜びとは何なのか?
これらの人生の基本的な疑問は、父なる神を知ることによってすべての答えが与えられます。


神を知るとは、神がおられる(存在する)ということを知ることではありません。
多くの人々が神を知らずに神のことを知っていると思っています。
たとえば、米国初代大統領がジョ-ジ・ワシントンであるということを知っていても、それは個人的な関係を持って交わりを持ち知っていることにはなりません。
もし、あなたがジョージ・ワシントンの子孫の一人と婚姻関係を持ってより詳しくジョ-ジ・ワシントンについて詳しい内輪の状況と、日々の生活に影響を受ける立場になったとしたら、少しあなたはジョージ・ワシントンを知っているということが出来るかも知れません。

神が存在されることを知識の上で知っていても、神とあなたとの個人的な関係がなければ、あなたは神を知っていることにはなりません。

わたしたち人間の根本的欲求は、わたしたちの魂を本当の意味で満たす何者か、何かを拝みたいという欲求です。聖書は、このことを、「すべての被造物が虚無に服し、創造者の神を待ち望んでいる。(ロマ8:20)」と、言っています。人が宗教的になるのは、わたしたちのうちに何者か、何かを拝まずにはいられない根本的な欲求があるからです。
すべてを遥かに超え、すべての存在を創造され、完全に聖であり、全知、全能の神に人が自分の努力や自分の抱くイメージや、自分の思いによって到達しようとしても、それは所詮、たとえば、地球の上に人が立って手を伸ばし天に届こうとするような努力に似ています。

イエスキリストを信じるクリスチヤンの信仰は、自分達の努力、自分達の抱くイメージ、自分達の思いではなく、神がわたしの罪を個人的に贖い、関係を持ち神の家族としてくださる、神の御子を信じる信仰によって、わたしたちも神を父と呼ぶことの出来る素晴らしい特権にあずかることが出来るという信仰です。神との個人的な関係は御子イエス・キリストにある信仰以外に成り立ちません。
それは、唯一の全能の神が天から下って来られ、わたしたちがそれを受け入れることによって成り立つ関係です。
「 それでイエスは彼らに言われた。『あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。 』」(ヨハネ福音書8章23)

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。・・
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(第一ヨハネ1章1-3)

個人的な関係のなかで神を知るということは、相手を知り、関係のなかで相手を体験し、仲介者を介さないで直接の結びつきを持つことに他なりません。

神を知ることは、すべての科学的な知識に優っています。
聖なる完全な神を父と呼ぶことが出来、その方との交わりを御子をとおして知ることができることは、どんな素晴らしさにも優っています。
聖なる完全な方を知るとき、わたしたち人が持つ誇りがいかにみすぼらしく、小さなものなのかを思い知らされます。

ダビデは詩篇のなかで、神を知ることの素晴らしさ、神との関係を持つことが何にもまさっていることを詠っています。
「私が主を求めると、主は答えてくださった。
私をすべての恐怖から救い出してくださった。
彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。
『彼らの顔をはずかしめないでください。』
この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。
こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。
主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。
主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。」(詩篇34編4-9)

神との関係を持つことによって、生きた神は求めるときに答えられ、悩むときに呼ばわるとそれを聞かれ、生ける唯一の栄光の神を見るとき、わたしたちもその栄光に照らされ、主の輝きを照らす者とされ、主を恐れる者の周りに陣を張り、敵の攻撃から助け出され、主を恐れる者には乏しいことがない。
このような、素晴らしい神との関係を味わい知るように、神の差し伸べる御手の中に来ることをすすめています。


神は、この箇所でダビデが言っているように、「あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。」方です。

神は、わたしたちが捜し求めるならご自身をあらわされる方です。 「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミア29章13)

神は御言葉をとおしてご自身をあらわされ、神の語られる言葉をとおして結ばれる契約関係によって信頼関係を築かれます。人は、自分の努力によっては神との契約を守ろうとしてもそれを守ることができません。
神は、イエスキリストの贖いを自分のものとして信じ、信仰によって歩む者を、父なる神と御子キリストの交わりにあずかる者とみなしてくださいます。

「わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・ 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミア31章32-34)

神はわたしたちが、捜し求めるなら知ることのできるお方です。


神は捜し求める者にご自身をあらわされます。
それでは、わたしたちはどのようにして、神を捜し求めればよいのでしょうか。
神を捜し求めるとき、誤ったところから神を捜し求めても、誤った神についての理解や、誤った体験となってしまいます。
神を捜し求めることと、自分の肉の欲、目の欲、自分自身の誇りを満たすために、神からの利益を願い求めることとを、多くの人々が混同し錯覚します。
人々は癒され、神のような力を持つことを願い、自分自身だけの平安と安楽を求めます。
サタンの誘惑の常套手段は、わたしたちの目を眩まし、肉の欲、目の欲、他と比べて自分自身を誇ることを願うようにわたしたちを仕向けます。サタン自身、神について知っていても、神への従順、信頼関係からは最も離れた存在です。

このような誤ったところから神を捜し求めても、神は決してご自身をあらわされることはありません。どんなに、知識があっても、神との信頼関係のないところには、神を捜し求めても神と出会うことはありません。
わたしたちが心を砕き、捜し求めるとき神はご自身をあらわされ、そのような人々は直接的なイエス・キリストとの出会いを体験します。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 」(マタイ福音書11章28)

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ書4書8)

イエス・キリストに出会い、イエスにある父なる神の愛と恵み、真実さに触れて、自分の命、全財産のすべてを賭けた信仰体験を持つ人々の記録を見るとき、わたしたちは、感動を覚えます。

わたしたち自身が聖書の御言葉を噛みしめ、御言葉を想いめぐらし、神の素晴らしい約束を自分のものとして、日々のわたしたちの歩み、行いに変えられ聖霊の実を結ぶ人生に優る人生はありません。


全知全能の創造者である唯一の神を父として知り、神との生きた関係を持つ以上にわたしたちにとって重要な課題はありません。

御言葉をとおしてあらわされる神ご自身、生きてわたしたちと共におられる主なる神との時を個人的に持ちつづけ、ご自身をあらわされる神との個人的な関係を深めて歩む人生こそ、ダビデがソロモンに求めた最高の人生を歩むための忠告でした。

神を知り、神との個人的な関係を持って歩む人生は、わたしたちにとっても、素晴らしい人生です。

あなたは、父なる神を知り、神との生きた関係を持っているでしょうか。



 
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