善い目的は手段を正当化するか?

( 第一歴代誌15章12-15)

シオンの要害をエブス人から攻め取りエルサレムをイスラエルの都とし、ペリシテ人との戦いの時に奪われた契約の箱を、エルサレムの都へ運び戻すというダビデの願い目的は、神の御心にかなうものでした。
ダビデは、イスラエルの国としての強さが神との関係、神のことばにかかっているということをよく知っていました。

契約の箱には神のことば、神の律法が入っていました。民が主なる神を意識し、民が神の律法を守ることが国の中心であり、「 正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。 」(箴言14章34)ことをダビデは知っていました。

ダビデは主の言われた「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう」(申命記28章1)
そして、神が王に対して、「彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。
それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。」(申命記17章18-20)という、神の戒めに心を向けていました。

神のことばを国の中心とし、キリアテ・エリヤムにあった契約の箱をエルサレムの都に運ぶというダビデの願い目的は、明らかに神の御心にかなうものでした。


戦いでペリシテ人に契約の箱が奪われた後、彼らの街々で様々な災難が起こりました。そのためダビデがペリシテ人を打ち破るまで、契約の箱はキリアテ・エリアムにありました。(第一サムエル記4章―7章 参照)  

ダビデは契約の箱を運ぶために、イスラエルの全部族を集め、荷台の上に契約の箱を載せて牛にひかせ、イスラエルの全家は歌を歌い、立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルを鳴らして、主の前で、力の限り喜び踊り、行列を作って途中のベトシメシまで来ました。
彼らが途中まで来たとき、牛が躓いて、契約の箱がずり落ちそうになったため牛を御していたウザが手をのばし、契約の箱を押さえようとした時、神の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、ウザをその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んでしまいました。人々の喜びは衝撃のため沈黙に変わり、行列は止まり、その日ダビデは主を恐れて「主の箱を、私のところにお迎えすることはできない。」と言い、このために、契約の箱はベトシメシのオベド・エドムの家にしばらく留まったままとなってしまいました。 
 
契約の箱を牛車の荷台に乗せて運ぶ方法は、ペリシテ人が契約の箱を運んだときの方法でした。ダビデは、ペリシテ人とまったく同じ方法で契約の箱をエルサレムに運び入れようとしました。 


神のことばを国の中心とし、キリアテ・エリヤムにあった契約の箱をエルサレムの都に運ぶことをダビデが願い、エルサレムに迎えようとしたことは、明らかに神の御心にかなう善いことでした。しかし、ペリシテ人が契約の箱を運んだときとまったく同じ方法で、ダビデが契約の箱を運ぼうとしたことは、誤っていました。

律法には契約の箱を運ぶときの方法、特に、その運び方についての詳細が記されています。
契約の箱が造られたときは、「 箱のために、四つの金の環を鋳造し、それをその四隅の基部に取りつける。一方の側に二つの環を、他の側にほかの二つの環を取りつけられました。 アカシヤ材で棒を作り、それを金でかぶせる。 その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通し、棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。」(出エジプト記25章12-15)という規定に従って、契約の箱をかつぐための棒が箱の基部に付いている金の環に差し込まれていました。
契約の箱を運ぶときには、彼らが聖なるものに直接触れて死ぬことのないように、おおいを掛け、おおい終わった後で、レビ部族のケハテ族が、棒を肩に担いでこの箱を運ぶことが定められていました。(民数記4章5-6、15参照) 

ダビデは神の方法よりも、牛車の荷台に契約の箱を乗せて運ぶというペリシテ人の方法で契約の箱をエルサレムへ運び入れようとし、荷車を御していたウザの死を招いたのでした。


神の御心にかなう目的を持ち、それを行おうとすることは大切です。神は御心に適った善い目的にむかってわたしたちがそれを行うときに、その方法についても関心を持っておられます。
神の御心に適う目的のために、どのような方法や手段を用いてもよいとは限らないのです。

多くの教会の活動、奉仕がこれと同じ過ちをおかします。
ダビデと同じように御心に適った善い目的のために誤った方法、この世の方法や手段を用いることがしばしばあります。
福音を伝えるために、この世の方法によって人々の関心、興味を惹こうとしたりします。また、御言葉によって成長し、祈り、共に交わりを持つことと、自分たちの気分や関心を優先して、社交的なこの世の交わりをすることが混同されたりします。 
さらに、永遠の報いという観点からは、神の御心にかなった奉仕でも、人目をひくようなやり方や動機は、何の意味も持たないことに気付かないことがしばしばあります。

人々が善い行いをするときに、それが、人々の注目を集めるためであったり、自分が人から褒められたいという誤った動機なら、神はそれを顧みられません。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ福音書6章1)

教会での奉仕をすることや、牧師になることでさえ誤った動機で、それを行っていることがあります。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ福音書16章24)とイエスは言われています。

福音を伝えるために、出席者を増やそうとしてこの世の宣伝方法を用いたり、主の御業を伝えるために興味をそそる作られた証しを大袈裟にしたり、癒しの奇跡の業を演出してアピールしようとすることは、その目的とすることがどんなに善いものであっても、神が喜ばれる方法ではありません。


神の栄光、その広さ、長さ、高さ、深さは、わたしたちの思いを遥かに超えたものです。
教会の規模や、牧師や教師の名声が人々の関心の対象になり、それを誇る場合には、神の栄光の素晴らしさを忘れ、信徒も牧師、教師も神の栄光に触れていることになります。

善を行うために、その方法が誤っている場合、神はそれを喜ばれません。
使徒パウロも表面的に律法を守っても、イエスを救い主として心から受け入れないユダヤ人に、
「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。『善を現わすために、悪をしようではないか。』と言ってはいけないのでしょうか。・・私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、・・もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」(ロマ書3章7-8)と、外側に現れた行いが伝統的な律法に沿ったものであっても、その方法や心の動機が御心にかなっていなければ、神によって罪に定められることを強調しています。

神はわたしたちが、善い行いをすることを望んでおられます。そしてわたしたちの心の動機も見ておられます。
神は、わたしたちの肉の働きを一切顧みられません。


わたしたちの動機、やり方が神の目に本当に適っているかどうかを吟味することが大切です。
「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。
わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」(エレミヤ書17章9-10)

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。・・あなたがたがそれに不適格であれば別です。・・
しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます。」( 第二コリント書13章5-6)

ダビデは、目的だけでなくその方法も神の言われることに従って、契約の箱をエルサレムに運び入れることができました。

イエス・キリストの贖いを信じる者のうちにはイエスキリストがおられ、聖霊によって神の御心に適う善いことをわたしたちが知り、それを行う動機と方法をも示してくださいます。わたしたちが、夫々自分自身を吟味し、御心に適った方法に従って歩むとき、真実と恵みに満ちた神は、御心に適った目的を御心に適った方法で必ず達成してくださいます。



 
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