国が病むときの神の癒し(治癒)

( 第二歴代誌7章12-14)



この祈りのなかで、ソロモンは、イスラエルの神が、天にも地にも比類のない、すべてを創造され、想像を絶する偉大な神、語られたことばを実行される神であることをみとめています。
そして、イスラエルの神こそが、祈りに答えることのお出来になる方であり、心をつくして主を求め、神のことばのうちに歩むときに、約束を果たされ、天の天も入れることが出来ないほど偉大な神であると言っています。
そして、しもべソロモンの祈りと願いに御顔を向け、ささげげる叫びと祈りを聞いてくださいと述べています。



きっと、ソロモンはイスラエルの全会衆がおのおのの天幕に戻り、民が去った賑わいの後の一抹の寂しさのなかに、栄光に満ちた神の宮の奉献と、多くの民の喜び、栄光の神が人々の前で主の宮に満ちたことなどを思いめぐらし、眠ることのできないほどの興奮に包まれ静寂のなかに一人宮殿で夜を過していたことでしょう。
その夜、主がソロモンにあらわれ、彼に仰せられたのがこの箇所の言葉でした。


ソロモンが祈りのなかで、国民が陥ってしまう罪は、神を無視し、神に叫ぶことをせず、神に仕えることをしないことだと言っています。
さらに、よりひどい状態の罪は、単に生ける神を無視しているだけでなく、他の神々、自分のための快楽、物質に仕えることです。
わたしたちの心も常にこのような危険にさらされています。

ソロモンは、義が国を高め、罪は人々の汚名となり(箴言14章34)、罪が滅びをもたらすことを知っていました。
罪を犯さないものは一人もいない故、罪を犯すときにも、王と民が罪に捉われることのないように、神が赦されることを祈りました。


ソロモンが王となり絶頂期にあって繁栄を誇ったイスラエルも、世界一の経済大国、軍事大国となった米国も、国家が繁栄から没落に向かうときに共通していることは、国家が強力になり、繁栄をするに至った礎(いしずえ)を忘れてゆくということにあります。

指導者も民も容易に国が繁栄するに至った礎を忘れ、何故、国が祝福され繁栄するに至ったのかを忘れてしまうのです。
米国では、国が独立し建国されてから20世紀の初期から半ばまでは明らかに教育の基礎は少なくとも九割以上が聖書の御言葉を基礎にしていました。それが、二千十年の現代では、生ける唯一の神を冒涜し、他の神々を受け入れることが寛容とみなされ、聖書を公立の学校で読むことや、イエスにあって全能の神に祈ることさえ違法とされる国となってしまいました。
国の強さ、繁栄の礎を忘れるのは、容易なことです。

米国も、いまや病んだ国、重い病気の状態にあることは間違いありません。
繁栄を求め、大規模な建設プロジェクトが過度に国家規模で行われるとき、国の財政は逼迫し、遂には破綻してゆきます。
米国も、恒常的な国家財政の赤字を抱え、この状態はますます悪化しています。内と外からのテロ戦争にさらされ、戦闘の勝利によっては戦争を終結させることができず泥沼のような国際情勢のなかで行き場を失なってゆきます。さらに、以前には見られなかったような大規模の自然災害、さらに人的災害の規模も海底油田からの油の流出など、その被害は歴史的な規模となっています。そして、エイズや最近では抗体免疫菌によるあらゆる病気に米国のみならず、世界中が疫病の恐怖にさらされています。


「 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」(詩篇20編7)
 
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46編1)

イスラエルはソロモンのときに、繁栄と栄華の絶頂期を迎えましたが、ソロモンの死んだ直後に国が分裂し、様々の問題にさらされ、国が病んだ状態となり衰退と改革を繰り返しました。


14節で、神は、わたしの名を呼び求めているわたしの民が、神に向かって祈りをささげるなら、と言われています。
わたしたちは、祈る神との関係がなければ、神に祈りは届きません。神は、わたしの名を呼び求めているわたしの民が、といわれています。
わたしたちが祈るとき、神との交わりを回復してくださったイエス・キリストに立ち返ることから始められなければなりません。リバイバルという言葉は、この世の言葉ではなくイエス・キリストをすでに受け入れた人々のための言葉です。

祈りの目的は、わたしたちの思いや意図を神に押し付けようとすることではなく、神のわたしたちへのご計画、意図を知ることです。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださいます。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(第一ヨハネの手紙5章14-15)

ヤコブが、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ書4章3-4)と言っているように、わたしたちが自分自身の喜びより神の喜びのため、神の意図に従う御心にかなう祈りをするとき、神は必ず祈りにこたえられます。


第一に、みずからへりくだり、と、神はいわれています。
わたしたちは、生ける神から離れて問題を解決できるほど賢くも、強くもありません。人は繁栄し祝福に満たされるとき、それらが神から来るものだということを忘れます。わたしたちは自分の力や能力によってすべてを成し遂げたと思う、驕りと誇りを捨て、祝福が本質的に神からのものであることを認める必要があります。 
第二に、祈りをささげ、
生ける神からの助けなしに、わたしたちの欲求だけを満たそうとすることを神は顧みられません。神の御心に適う祈りは必ず聞かれます。
第三に、わたしの顔を慕い求め、
神がわたしたち一人一人に持っていて下さる目的、計画されていることを願い求めるとき、神は、わたしたちの心からの叫びを聞いてくださいます。 
第四に、その悪い道から立ち返るなら、
神を忘れ、神との関係からはなれたことを悔い改め、あなたの父ダビデが歩んだように、わたしの前に歩み、わたしがあなたに命じたことをすべてそのまま実行し、わたしのおきてと定めとを守るなら、(わたしたちの内に住まわれるキリストの霊に従って行い歩むなら)

わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。と、神は約束されています。

神は、わたしたちが、みずからへりくだり、祈りをささげ、神の御顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、親しく天から祈りを聞かれ、罪を赦し、国を癒してくださいます。


「もし、あなたがたがそむいて、あなたがたに授けたわたしのおきてとわたしの命令とを捨て去り、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、わたしが彼らに与えた地から、彼らを根こぎにし、わたしがわたしの名のために聖別したこの宮をわたしの前から投げ捨て、これをすべての国々の民の間で、物笑いとし、なぶりものとする。かつては並びもなく高かったこの宮も、そのときには、そのそばを通り過ぎる者がみな、驚いて、『どういうわけで、主はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう。』と言うであろう。」(第二歴代誌7章19-21)と、神に立ち返ることをせず、ほかの神々に仕えるとき、国の病は、癒されることがなく滅びに向かい、他国によって神の宮までが廃墟となるという警告がされています。

神との関係、イエス・キリストが完成された神との交わりの回復のなかで、わたしたちが、みずからへりくだり、祈りをささげ、神の御顔を慕い求め、その悪い道から立ち返り神からの癒しを真剣に祈るべきときがすでに来ています。



 
第二歴代誌へ戻る


a:2273 t:1 y:0

powered by HAIK 7.0.5
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK