主からの呼びかけ   

(士師記5章1-9、14-18,23)


士師記は、指導者ヨシュアが死んだ後でイスラエルの国がどのように歩んだかについての歴史的記述となっています。
この士師記をとうして、わたしたちは、繰り返されているパターンを見ることができます。
イスラエルの民は神の祝福にあずかり、約束の地で繁栄し、繁栄のなかで生けるイスラエルの神から離れ、神から祝福がくることを忘れ、他の神々にも仕え、苦境に立たされ、隷属を強いられ、そのときになって神に叫び、悔い改めによって救いと解放がもたらされ、再び、繁栄から隷属という約400年近くの間に七度の繰り返しをしました。
このような、パターンのなかで苦境に陥ったイスラエルの民にたいして、神が異なった部族のなかから13人の士師を立てられ解放されたことが、士師記の記述の全体となっています。


この箇所では、このような民が生ける神から離れ、主はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手によってイスラエルの民がひどく圧迫され、二十年の間その圧政に苦しみ主に叫び求めたときのことが背景となっています。
ヤビンの将軍はシセラで鉄の戦車九百両を持っていました。
イスラエルの民が戦車を擁する軍団に立ち向かうには、現代の戦闘で、ライフル銃の歩兵軍団が強力な砲火戦車軍団を持つ大軍に立ち向かうような、圧倒的な戦力の差がありました。


この時期、女預言者デボラが士師としてイスラエルをさばいていました。デボラは、ナフタリ族の子バラクを呼び、「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」という神の言葉を伝えました。

これにバラクは「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」と、答えたので
デボラは「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。」と言ってバラクといっしょにケデシュへ行き、 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れてデボラと共に上りました。

一方シセラは、バラクがタボル山に登った、と知らされたので、鉄の戦車九百両全部と、自分といっしょにいた民をみな、キション川に呼び集めました。


デボラの「さあ、やりなさい。きょう、主があなたの手にシセラを渡される。主はあなたの前に出て行かれるではありませんか。」という励ましによって、バラクはタボル山から下り、バラクの一万人の兵士とシセラの戦車九百両を擁する大軍との戦いとなりました。

この戦闘は、神が大雨を降らせ、キション川が氾濫し、戦車はぬかるみのなかで使いものにならず、シセラとそのすべての戦車と、すべての陣営の者をバラクの前に剣の刃でかき乱したので、バラクの軍の圧勝となりました。

戦車から飛び降り、徒歩で逃げたシセラは、ケニ人ヘベルの妻ヤエルによって、ヘベルの天幕に逃げ、疲れて熟睡していたところを、こめかみに鉄のくいを打ち込まれ地に刺し通され死んでしまいました。
それから、イスラエル人の勢力がますますカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを断ち滅ぼすことができました。


この、女預言者デボラの呼びかけに応えバラクの軍がシセラの軍を打ち破り、イスラエルが解放された後で、神がイスラエルに大勝利をもたらされたことを祝ってデボラが詠んだ歌がこの士師記5章の歌となっています。

デボラはこの賛歌の最初の箇所で、「民が進んで身をささげるとき、イスラエルを解放された主なる神をほめたたえよ。」と、歌っています。


神がデボラによってイスラエルの民を呼び集められたとき、敵は、味方のイスラエルよりも数倍の力を持っていました。神に呼び集められる民は、しばしば神の約束によって、より強い、力のある敵に立ち向かわなければなりません。しかし、神の呼びかけに進んで答えるとき、神が味方となってくださいます。

パウロはロマ書8章で「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ロマ書8章31)と述べています。

詩篇でも「もしも主が私たちの味方でなかったなら。さあ、イスラエルは言え。
もしも主が私たちの味方でなかったなら、人々が私に逆らって立ち上がったとき、
そのとき、彼らは私たちを生きたままのみこんだであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、
そのとき、大水は私たちを押し流し、流れは私たちを越えて行ったであろう。
そのとき、荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。
ほむべきかな。主。主は私たちを彼らの歯のえじきにされなかった。
私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された。
私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」(詩篇124編1-8)と、どんなに圧倒的な力よりも、神が味方であるなら、神の偉大な力が優っていることが宣言されています。  

敵の力、その障害の大きさを乗り越えようとすること自体、無駄な努力に思われることがあります。もし、主が味方でなかったら、それはそのとおりです。
どうやって、このような圧倒的な敵に対抗し、そのような力に打ち勝つ希望をもつことが出来るのでしょうか。
わたしたちは、敵の圧倒的な力を見るとき、神の偉大な力を見失ってしまいます。

デボラは、「私の心はイスラエルの指導者たちに、民のうちの進んで身をささげる者たちに向かう。主をほめたたえよ。」と、進んで身をささげる者たちに神が天から共に戦われ、突然雨を降らせ、キション川が決壊し、そのために周辺が泥沼化して、敵の戦車がつかいものにならなくなるという奇跡を起こされたことをほめたたえています。

デボラは、呼びかけに答えて、進んで身をささげる者たちに、神が勝利をあたえられたことをほめたたえたあとで、メロスにたいしてのろわれよ、という宣言をしています。
主の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは主の手助けに来ず、勇士として主の手助けに来なかったからだ。』


このメロスに対する呪いは、メロスが偶像を礼拝していたとか、神に対する大きな咎を犯したということに対する呪いではなく、メロスが呼びかけに答えなかったということに対する呪いとなっています。
イエスも「 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」(マタイ福音書12章30)といわれているように、今日でも多くの人々が、メロスのように呪いを受ける者となっています。


イスラエルが、神によって約束の地が与えられ、生ける神の言葉と導きのなかで祝福と繁栄に甘んじているうちに、あらゆる面で敵から攻撃を受け、しえたげられる状況に陥ってしまったように、今日の米国も、国が建国され、生ける神の言葉と導きのなかで祝福と繁栄のうちに甘んじているうちに、あらゆる面において敵からキリストにある信仰がしえたげられる状況になってきています。

いまや、社会で、この世におけるすべての局面をみるとき、サタンによって、この世の報道、雑誌や新聞、TV.映画、通信、インターネット、のあらゆる面でその影響力を行使し、政治、経済、教育までもが支配されているように思えます。

わたしたちは、教育・科学、政治、経済的な活動分野における価値観、実際のありかたについて、あらゆる敵の攻撃にさらされています。
クリスチヤンの価値観は、イスラム教がコーランに掲げている世界宣教や、共産主義による社会主義的理念、カルト宗教の持っている汎神論的、人文主義的な価値観とは相反するものであり、 神の言葉、聖書が述べている価値観にたいして、わたしたちの日常のあらゆる面が敵に囲まれているといっても過言ではありません。

神の選びの民イスラエルが神の呼びかけに答えて、敵対するもの、攻撃を加えようとするすべての人々のなかに出てゆき領域を拡げることと、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、神の国の領域を拡げることは共通しています。
神からの呼びかけに答えることが求められます。
神の祝福のなかに安住し、祝福のみに目を向け甘んじていると、神を忘れ、敵対するもの、攻撃を加えようとするものに囲まれることさえ気付かないのです。
神の選びのなかを歩むということは、神からの祝福と安楽を一方的に受け甘んじて受けることではなく、常に神からの呼びかけに答えて行くことです。


クリスチヤンは、霊の呼びかけに答え、キリストの力によって奮闘することを求められています。
使徒パウロは、このことを「 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」(コロサイ書1章27-29)と、言っています。
パウロは、この箇所で聖徒たちに呼びかけていますが、聖徒たち、福音を自分のものとして受け入れる人々、わたしたちクリスチヤンに対して呼びかけている言葉であることに注意してください。
そして、「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」(第二コリント書10章3-4)と、わたしたちの戦いが肉によるものではないと述べています。


デボラの歌は、主の呼びかけに応じ戦いに参戦した民が、主に助けを求めて勝利がもたらされたことへの賛歌であると同時に、呼びかけに答えず、戦いに参加しなかったメロスへの呪いとなっています。

クリスチヤンが、自分自身を本当に捨て、進んでキリストを証しする者と変えられ、霊の呼びかけに答え、あらゆる敵の攻撃にたいして戦いに参戦しているでしょうか。

わたしたちも、心を決めて主の呼びかけに進んで答え、神の贖いとイエス・キリストにあって与えられている栄光の目標を目指し、メロスのように神からの呼びかけに何も答えない者ではなく、祈りをもって、主の助けを求め、共に主の戦いに参戦するする歩みを選び取って行こうではありませんか。


 
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