尽きない慈しみ

(哀歌3章19-22)


神は、エレミアをとおしてイスラエルの民、ユダ王国の人々へ、何度も、ユダ王国が主への背きを悔い改めなければ、滅びに至ることを告げられました。
また、生ける神を捨てて偶像に頼り、自分たちの貪欲さによって弱い者、貧しい者を虐げることを止めなければ、バビロニア帝国をその裁きの器として使われ、悲惨な結果を招くことを幾度となく警告されました。

エレミアをとおして告げられたことばを聞き、すでにエルサレムの王族や貴族が捕囚となった後になってもユダ王国は、最後の王ゼデキアにいたるまで、神のことばにたいする不従順によって最終的には王宮も神殿も焼かれ、多くの人々が飢餓によって死に、戦いのなかで虐殺され、バビロニアの軍に捕らえられ、青銅の足かせにつながれバビロニアに連れて行かれました。

栄光に満ちていたソロモンの神殿が焼かれ、王宮も街も焼失し、古代世界で一時は栄華に満ち、繁栄のなかで祭りに集う人々の群れで満ち溢れていたエルサレムの街が、人々の姿もなく廃墟と化し、城壁の門は荒れ果た有様を眺めながら、罪のもたらす結果起こる悲惨さに涙を流し、失意と失望のなかで嘆きのことばを詠み、神の尽きない慈しみをこの箇所で述べています。


わたしたちの人生にも、悲惨な状況が自分の身の回りに起こると「神が愛の神であるならば、何故悲惨な状況に人々が遭遇することを許されるのだろうか、」と思います。
そして、自分を取り巻く悲惨な状況や、失望と失意に捉われ、往々にしてそこから逃れられないところへ追い込まれます。  

自分ではどうしようもない悲惨な状況に陥れられたとき、神がわたしたちを見捨てられ、わたしたちの過ちは決して取り戻すことのできない絶望的なものだ、という暗雲のような思いに打ちのめされ、失望と失意の思いを抱きます。

しかし聖書は、わたしたちの思いや、状況に捉われていることから、心を新たにして生きた神に目を向け、わたしたちの願いを神に知っていただくなら、状況を超えた平安が、わたしたちの心と思いをイエスキリストにあって守られる、と約束をしています。

自分の思い、自分の周りの状況に捉われ失望と失意に沈み込むところから、心を決めてもう一度新たに、神ご自身に信頼し直すとき、神はわたしたちの心を引き上げてくださいます。

「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」
(イザヤ書26章3)

エレミアは絶望的な状況のなかで、この哀歌を詠んでいますが、最初からこの箇所まではすべて目に見える状況、人々に神のことばと警告を伝え続けたにも拘わらず起こってしまったことへの後悔、自分の思いを吐露することばが続いています。

しかし、この箇所で心を新たにし、神ご自身に目を向け、神のご性質を思い起こし、状況を超えた望みをいだくことが出来ることを証ししています。

「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。」
(エレミア3章21 口語訳)

目に見える状況の悲惨さは、あまり変わりなく思えても、変わることのない神の慈しみと恵みに目を向けるとき、どのような状況のなかからも望みを抱くことが出来るとエレミアは宣言しています。


わたしたちにとって、どんな時や場合でも困難や試練は好ましいことには思えません。

しかし、本当のところは、わたしたちが神からの懲らしめに遭っていると思うときにも、神はわたしたちを罰することを目的とされていません。
神からの試練は、わたしたちが誤りを正し、神とのより深い交わりによって正しい道を歩むための修正過程なのです。
神の責めと罰は、神の恵みを拒否し続け悪の道を歩む者に自業自得の結果として臨むのです。

失意、失望と沈みこんだ思いのときに、自分の思いから心を新たにし、主に思いを馳せ、神の尽きることのない慈しみ、恵み、愛に目を向けることが、どのような状況のなかでも希望を見出すことのできる秘訣です。
これは、決して思い込みや自己暗示ではなく、生ける神への信頼、信仰の証なのです。

エレミアは、自分の状況、自分の思いから心を新たにし、神ご自身に目を向け、神のご性質に目を向け、神の尽きない慈しみと変わらない愛に思いを向けています。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。」(3章22)と、エレミアは述べています。

神に反抗するすべて不完全なものを滅びに至らせず、不完全な人々で満ちたこの世が保たれているのは神の恵みと寛容です。

神が不完全なわたしたちを滅ぼし尽くされないのは、わたしたちを愛され、日毎に新しく尽きることのない慈しみによって、わたしたちとの交わりを持ちたいと願われているからです。

どんなに悲惨に思える状況や、失意のどん底にあるときでも、本当にわたしたちが苦難のときの避けどころとなるのは、生ける神しかありません。それは、「主のあわれみは尽きないから」です。

「 しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。」(詩篇59篇16)

「私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。」(詩篇62篇7)

神は、あわれみのない裁きをされることはありません。ヤコブはこのことについて、「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ書2章13)と、述べています。  

エレミア自身、預言のなかで神の慈しみと恵みが尽きないものであることについて次のように述べています。

主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。
再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。
エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日が来るからだ。」(エレミア書31章3-6)

神の慈しみと恵みは、尽きることがありません。どんなにイスラエルの民が散らされ滅亡したように見えても、神は永遠の愛をもって選びの民を再建し、廃墟となった都が再び建て直され、地はぶどうを豊かに実らせ、人々が集い、喜び笑う者たちの踊りの輪のなかに神ご自身が共におられるという将来にわたって成就する慈しみと恵みに満ちた遠大な約束をされています。

使徒パウロは、コリントの人々に宛てた手紙のなかで、神の愛が変わらないこと、神の愛がどのようなものであるかについて「愛は決して絶えることがありません。」(第一コリント人への手紙13章8)と述べています。

絶えることのない神の愛は、わたしたちすべての人生に注がれています。何故なら、神の愛はわたしたちに依存しているのではなく全能の神ご自身に依存しているからです。それは、神が愛だからです。

ある条件や状況の変わるときに変わる愛は本当の愛とは言えません。本当の愛は、神にのみ見出すことができるのです。神はわたしたちの不完全さ、わたしたちの背きの罪を知られた上でわたしたちを愛し、背きの責めを十字架の上で流された御子の血によって帳消しにしてくださったのです。

主は主を待ち望み、どのような状況にあっても、主を訪ね求めるものに尽きない慈しみの目を向けられ、絶えることのない恵みをもって、わたしたちに臨んでくださいます。



 
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