第三の木(創世記2章8、9、3章1-5)

 

創世記の1章から2章では、はじめに、神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられ、人を神に似せて造られ、人を園に置かれその土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせ、園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせたことが記述されています。

そして、神は、はじめの人に「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16、17)という警告を与えられました。

この警告にも拘わらず、人は、誘惑によって、神が「食べるな」と命じられた木から実をとって食べたために、 土地はのろわれ、一生、苦しんで食を得、 土地は、いばらとあざみを生えさせ、人は、顔に汗を流して糧を得、ついに、土に帰るものとなりました。更に 神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれたことが語られています。


神は、人をご自身に似せて造られ、素晴らしい園に人を置かれたのに、何故、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるに好ましいと思われる」善悪を知る木を園の中央に置かれ、蛇、サタンによって人を誘惑することを許されたのでしょう。


サタンの誘惑は、最初から神の言葉を真っ向から否定したのではなく、神の言葉に疑いを起こさせ、あたかも神が人の自由を奪っているかのように、欺きによって神に不従順であることを勧めました。


神は、人を神に似せて造られました。人が神に似せられていることの最も基本、根幹となっているのは、人が神と同じように、 自由な選び取りによって自分の方向を決めることができる意思を与えられ、神の言われることを知る知性を与えられ、信頼関係によって成り立つ深い満たされた感情を持つことができるように、感情を与えられていることです。

もし、わたしたちの意思に一方的に従う精巧な人形が与えられても、その人形と意味のある愛の関係を持つことはできないでしょう。

あなたが銃をつきつけられて、一方的に強制されたとしても、その相手との信頼関係や、愛し合う関係を築くことはできません。

一方的で強制的なつながりは、お互いの信頼や、愛の関係になり得ないのです。

愛の関係は、どのような誘惑があっても、その相手を信頼することを選び、より深くお互いを知ることによって、より深い充足感と満足感に満たされた関係のなかで生まれます。状況や気分によって変わる選択は、利己的で、意味のある選択とは言えず、本当の信頼や愛の関係を生み出しません。


もし、善悪を知る木が、神の「食べるな」という言葉にたいして、とうてい「食べる」気にはならないものであったなら、本当に神のことばを主体的に信頼し、従ったことにはなりません。

神の言葉に背くような誘惑があっても、神の言葉に信頼するとき、より深い、意味のある関係を築くことになります。

自分にとって得になるときだけ神のことばを守るというのでは、本当に神の言葉を守る選択をしたことになりません。
神はあなたの意思を尊重され、あなたが、強制されたものではない主体的な選びをすることを求めておられます。
誘惑にまさって神のことばに信頼し、それを守るとき、神と意味のある関係、愛の関係を持つことが出来るのです。


神は、園の中央に善悪を知る木だけでなく、命の木をも生えさせたと記されています。人が命の木から実をとって食べたのではなく、禁じられた善悪を知る木から食べたというのは、皮肉なことですが、人が善悪を知る木の実をとって食べた後に、悲惨な状態で人が永遠に生きるものとならないために、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれました。
したがって、人はそのままでは、どのようにしてもいのちの木への道にゆくことができず、ついに土に帰り、滅びにいたるほかないのろわれた状態に陥ってしまったのです。


神は、わたしたちが神との関係を壊し、信頼関係を断ち切ってしまったにも拘わらず、いのちに至る第三の木を備え、いのちに至る道を与えてくださいました。

キリストは、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、わたしたちの罪をご自分の身に負われ十字架という神の用意された第三の木に架かってくださいました。

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。イエス・キリストが架けられた十字架の木は、わたしたちがいのちに至るために神が用意された第三の木です。

ひとりの罪過によって、すべての人が(のろいに)定められたように、ひとりの義なる行い(キリストが十字架の木に架かられた)によっていのちを得させる義がすべての人に及ぼされているのです。(ロマ書5章18参照)


神が用意された、いのちに至る第三の木を選びとるか、そのままの、のろいの状態にとどまり滅びを選びとるのか、という選択は、むずかしすぎるものでも、遠くかけ離れた選択でもありません。(申命記30章11参照)

神の用意された、いのちに至る第三の木を主体的に選びとり、状況を超えて神のことばに信頼し続けるとき、わたしたちは、神との永遠の愛の関係に尽きることのない喜びと平安を得ることができるのです。


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