主なる神に似せて(創世記1章26-27)

創世記の1章から2章では、はじめに、神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられ、人を神に似せて造られたことが記述されています。

神のかたちに人を創造し、男と女とに彼らを創造された。ということは、どのような意味なのでしょうか。
ここで、人が神のかたちに似せて造られたということは、必ずしも物質的な意味ではなく、むしろ霊的な意味であるということがわかります。
聖書は、神が霊であり、神を礼拝する者は、霊と真(まこと)とをもって礼拝するということが宣言されています。

霊は本質的に姿やかたちによってあらわされるものではありません。

神は意図的にご自身をかたちや像に刻んで見ることのできないお方として、ご自身をあらわされています。
聖書には、「神の御手が短くてあなたがたを救えないのではない。」とか、「神よ、あなたは何故わたしの叫びに耳をかたむけられないのですか。」とか「主なる神のおん目がその民に注がれる」という表現が用いられ、神の御手や、耳や、目という人のかたちをあらわす言葉が使われているではないか、と反論する人が居るかも知れません。しかし、それらの姿をあらわす言葉は、文字どおりというよりむしろ比喩的に使われており、そのまま神の手や耳や目を表現しているのではありません。
霊の方である神が人の姿、わたしたちと同じ肉体をとられ、わたしたちの間に宿られ、住まわれるということは想像を絶する奇跡です。
この奇跡は、イエスキリストをとおして神が人と同じ姿をとられたときに人類の歴史の上に起こりました。
わたしたち人類はキリストがこの世に来られたときに、姿、かたちにあらわされた神の神性を、見ることができました。
しかし、神は本質的には姿やかたちをもってあらわされる方ではなく、霊の方です。
したがって、この箇所で、神が、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と言われたとき、人は霊的な意味で神に似たものとして造られました。


神のご性質で最初にあげることができるのは、神は感情を持っておられる、ということです。
神の主要な感情をあらわすものは、愛です。
神が愛を与えられ、愛を受け取られる方であり、愛を与え、愛を受け取ることのできる存在として人を創造されました。
愛について、定義することが難しくても(愛の定義は、第一コリントの手紙13章1-7 参照)、わたしたちは、夫婦が長い人生のあいだに、楽しみ、苦しみを共にしながら、助け合い、互いの信頼を強め、そのなかで愛をはぐくむことが現実であることを体験します。親子が互いに愛しあい無条件で助け会い、歳をとって孫たちに囲まれるときの幸せは、愛の定義を超えた現実の体験です。
信仰にあって歩み、人を愛するとき、突然のようにこみ上げる神からの愛を実感し、喜びに溢れるということがあります。その体験を定義したり、上手に言い表すことができなくとも、主なる神に信頼して人生を歩む人々が、そのような感情に捉われ、体験をすることは現実です。
主なる神が肉体をとってわたしたちのあいだに宿られ、わたしたちを贖われ、救われたことを、他の人々とともに実感するときに溢れるような喜びに満たされることも現実のものです。わたしたちは、他を愛するとき、心が満たされ、喜びに溢れます。そして、愛を与えるときだけでなく、愛を受け取るときにも、わたしたちの心は溢れ、喜びで満たされます。
神が愛の方であるように、人は互いに愛し、愛されるときに、心が溢れ、喜びで満たされるのです。
  
神のご性質で次にあげられるのは、神がご自身の目的と計画を持っておられ、ご自分でその方向を選び決めることが、お出来になる方だということです。
神はご自身がご自身の方向を決めることがお出来になるように、人が自分で自分の方向を決めることができる存在として人を創造されました。
人は精巧なロボットとして造られたのではなく、自分の意志で選び取ることの出来る存在として創造されました。神は、人を神のかたちに似せて、神がご自身の意志で方向を決められ、選び取りをされるように、人が自由意志によって選び取り、方向を決めるという能力をあたえられました。人が自由な意志で選択できるのは、人が神に似せて造られたからです。

わたしたちが自分の意志で選択をする場合、同じような選択肢のなかから選ぶことができなければその選びは意味のある選び取りをしたということにはなりません。

神は、人が意味のある選びとりをすることができるように、園において、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせ、中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせ「園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪を知る木の実からとって食べるな、それを取ってたべると死ぬ。」という警告を与えられました。

神はあなたの意思を尊重され、わたしたちが、強制されてではなく主体的な選びをすることを求めておられます。
それは、誘惑にまさって神のことばに信頼し、神の言葉を守るとき、より意味ある関係、愛の関係を持つことが出来るからです。

自由意志による選び取りと、愛しあう関係は常に密接に関連しています。

もうひとつの主要な、神の道徳的なご性質としてあげられるのが、神が聖なる方であるということです。
聖書は繰り返し、神が聖なる方であるように、人が聖なるものとなることを求めておられます。
はじめに神は、人を穢れの無い聖なるものとして、人が神との交わりのなかに生きることができるように創造されました。
神は聖なる方であり、不義や罪とは決して交わることも、それを容認されることもなさいません。
人が不義、罪、穢れを持つとき、聖なる神と決して交わりを持つことはできないのです。


神は、本質的に霊のお方であり、人も本質的には霊的存在です。
神は、人を神に似せて愛を与え、愛を受け取ることのできる存在、自分で自分の方向を決め、自分の意志で選択をすることのできる存在、もともと、道徳的に不義や罪を拒否し、聖なる存在、神との交わりをすることのできる存在として創造されました。
神は人を霊的な存在として創造され、人が神に似せて造られた性質をあらわすことができるように、人に肉体をあたえられ、その霊的な性質をあらわす意志、または魂を与えられました。
神は父なる神、御子イエスキリスト、助け主なる聖霊の三位一体にして唯一の神です。
人も、霊と魂と肉体にあって一つのものとして創造されています。わたしたちにとって、問題なのは、霊と魂と肉体はそれぞれが密接に関連しあっているため、どこまでが霊、魂、肉の思いなのかが自分でも明確には識別できないことです。本当のところは、それぞれ霊、魂、肉体は密接に関連しあい絡み合っていて識別をすることは不可能です。人の霊的要素は、その人の魂や肉体に影響を及ぼし、それぞれの要素を別々に切り離すことはできません。
このように、神は人を神のかたちに似せて創造されました。


それでは、何故神は人を神のかたちに似せて創造されたのでしょうか。
神は人を創造されたとき、人が神との意味ある愛の交わりを持つことを望まれ、それ故に、人を神のかたちに似せて創造されました。

神は、すべての被造物が神の栄光に満ちた創造と、人を造られたときも、人が神との完全な愛の交わりのうちに、神の御旨の素晴らしさを喜ぶものとして創造をされました。それは、神が栄光に満ちた完全な目的と計画に被造物である人が参加することの出来るために神の最高の被造物を創造されようとされたからに他ありません。


神の御旨とは、神が愛を与えられ、人が神の愛を受け取り、神と人との完全な交わりのなかに、神の喜びのために人が創造されたことを意味しています。

神は、神と人とが完全な交わりのなかにあるために、人の意志を尊重され、人の選択が誤ったものであっても、無理強いをして、人の選択を変えることはされません。
それは、神が人を神に似せて、完全な選び取りによる互いの愛の交わりが成立するための自由な意志と選択をすることができるように人を創造されたからです。 
しかし、人が神を拒否するとき、創造された本来の目的から外れ、他のどんなものによっても、その人の人生は空しさから逃れることが出来ず、人生そのものの意味を見出すことができなくなります。

神は交わりを求められる方です。

どんなに素晴らしい体験でも、それを共に分かち合うことが出来なければ、喜びは半減してしまいます。大自然の雄大さ、大海に沈む夕日の素晴らしさを本当に味わうことが出来るのは、一人より夫婦でその素晴らしさを味わうとき、その喜びは増し加えられます。交響楽団の奏でる素晴らしい音楽を一人で聴くより、夫婦二人で音楽を聴くとき、よりその素晴らしさを楽しむことができます。
神は、神に似せて人を造られ、愛する交わりのなかで、創造の素晴らしさと、その栄光を共に喜びを分かち合いたいと願われています。

はじめに神が創造の業をされ、人が神に似せて創造されたとき、神との完全な愛の交わりを享受することのできるものとして造られました。
何故、人はそのような、素晴らしい完全な状態から不完全なものとなってしまったのでしょうか。 


聖書の創世記3章に記されている記述を読み進むとき、何故、人が神に似せて造られ、神に似た姿から堕ちた状態、不完全なものとなり、死と滅びがもたらされることとなったのかが記されています。

人が神に似せて造られた姿から堕ちた状態になってしまったのは、神のことばを選ぶより、神に敵対する誘惑者のことばを人が選び取ったためでした。

神の言葉に敵対する誘惑者の言葉を選びとり、この罪によって、今、わたしたちの見る世界、わたしたちの知っている世は、はじめに神がすべてを創造され、神がすべてを良いとされる完全な状態からは程遠い状態となり、罪が入り込んだためにこの世にあらゆる醜い悲惨な状況がもたらされるようになってしまいました。

人が神に似せて造られた完全な状態から堕ちた状態になったとき、完全に聖である神との霊的な交わりは断たれ、霊の死がもたらされました。
人は肉体と魂をもって生き続けましたが、霊の死がもたらされたために、人の魂、意志は肉の思い、肉の欲求によって支配されるものとなってしまいました。
人は霊の思いに従うか、肉の思いに従うかという選択を自ら放棄し、死んでしまった霊を復活させ、神との交わりを人が回復する機会を失いました。

人がはじめに神のかたちに似せて造られた完全な状態から堕ちてしまったことを、神は嘆かれ、それでも神は、人の最善を願われました。
誤った選択によって滅亡へと向かう民とエルサレムの都を見られてイエスが嘆かれたとおなじように、神は人の誤った選択によって滅びにいたることになった人のために嘆かれました。神が人のあやまった選択によって堕ちた状態となることを見られたときの悲しみと、嘆きは、エルサレムの都を見て涙を流されたイエスの嘆きと同じ嘆きであったでしょう。(ルカの福音書19章42-44 参照)

はじめに神のかたちに似せて造られた完全な状態から堕ちてしまったために、人の心は耐え難く病んだ状態となり(エレミア記17章9参照)、災難と不幸が襲うこととなってしまいました。
人は神との関係から離れたものとなってしまい、人の生涯は、肉の思い、肉の欲求に支配されるものとなってしまいました。その結果、絶え間のない争いと、戦い、すべてがギクシャクとしたものとなり、死が訪れるという運命におかれました。Total depravity(全的堕落)参照


このように、人は堕ちてしまった状態から、自分ではどんなに努力し真摯であっても、神のかたちに似せて造られた完全な状態を回復することができなくなってしまいました。
人は自分で自分を救うことは出来ないのです。

このような状態となった人に、神は御子イエスキリストをこの世に送られ、人が本当の目的をもって生きることのできる道を示し、神との関係を回復することのできる道を備えてくださいました。

イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」 (マルコの福音書8章34-38)

真剣に人生の意味と、人が神のかたちに似せて造られた本来のすがたを回復することを求めるすべての人々に、イエスは、神の愛を受け取り、神の霊によって新しく生まれることをすすめておられます。

そして、人が御子の贖いを個人的に受け取り、このような不完全な堕ちてしまった状態に気付き、罪を悔い改めることをすすめておられます。
御子がこの世に来られ、十字架の上で贖いを完成され、死なれ復活されたことによって人は再び神との交わりを回復する機会を得、死んでしまった霊を復活させ、再び霊の思いと肉の思いのどちらかを自分の意志によって選択することができるのです。

ひとりでも多くの方が選択を誤ることなく永遠の命に至る道を選ばれることをおすすめします。


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