はじめに神が―――(創世記1章1)

聖書の最初の書物、創世記は「はじめに神が‐‐‐」という記述からはじめられています。
創世記には人作り出した神ではなく、人造られた創造の神の存在についてどのように存在したのか、どうして存在したのか、といった議論が一切ありません。      
聖書は、はじめに無から有を生じさせ、すべてを創造された生ける神について、ご自身の性質に似せて創造された人を愛され、被造物を贖われてゆくことについて記述された書物です。

そして、聖書の主人公である生ける神が、はじめから存在されていたことは説明する必要のない大前提として記されています。

人物の叙伝を書く場合も、その人物が存在したことが事実かどうか、説明をする必要がないように神がすべてのはじめに存在されたということが当然の事実として記述されます。


「(はじめが)いつだったのだろう」「どのくらい前がはじめだったのだろう」という疑問を人は持ちますが、この疑問にたいする明確な答えはありません。
わたしたちの想いによって、はじめがいつであったのか、それがどのくらい前であったのかを推し量ったり把握することはできません。

聖書が、「はじめに―――」というとき、わたしたちは無限の彼方について想います。
しかし、無限が存在することを認めてもその無限について理解することはできません。

わたしたちは時間を超えた永遠について理解したり、空間についてそれが終りのない拡がりをもったものであることは理解できても認知をすることができません。

わたしたちは永遠の空間では時間が後戻りすることや、とめどのない拡がりの彼方にいってしまうことは理解できます。しかし、それらのことを本当の意味で理解することはわたしたちの能力、人知を超えていることです。

神は時間や空間を創られ、時間や空間を越えた方です。神が永遠の方であることを忘れ、わたしたちの知識によって永遠や無限について理解したり把握することは不可能です。

神の存在の事実

神が存在されている事実はわたしたちの周りに数限りない証拠を認めることができます。

宇宙の秩序とその形(デザイン)、生命のサイクル、種の存続、人体の構造の精密さ、など被造物をとおしてそれらを創造された方の存在を認めることは難しいことではありません。

愚かなる者は自然の法則を見て、自然とその中にある法則を造られた方の存在を否定します。秩序を見て、その秩序を決めた方の存在を否定します。形をみてその形を創られた方の存在を否定するのです。

「 愚か者は心の中で『神はいない』と言っている。」(詩篇14編1)

聖書は神の存在の正当性についての議論や弁護を聖書のなかで繰り広げるようなことはしていません。
時に人は、聖書の正当性について弁護を試みようとする状況に置かれます。
しかし、聖書の御言葉は、頭からすべてを創造された神の存在を否定してかかるような愚かな議論に対してその正当性を主張するようなことはしていません。
「愚かなる者には、その愚かさに応じて答えるな」(箴言26章4)

最初の前提「創造か、進化か」

すべてを創造された「神の存在」を信じることは、創造者である「神の存在など無い」ということを信じることに比べずっと容易なことです。

創造者である神の存在を抜きにして最も最初の原因、すべての根拠を説明することが出来るでしょうか。

すべての創造の根拠、原因を抜きにしてはじめに巨大なガスが偶然空間に浮かんでいたとでもいうのでしょうか。 
しかし、それは「はじまり」ということにはなりません。どこから、その巨大なガスのかたまりが出てきたことを説明することができるのでしょう。それらの空間は一体どこからきたのでしょう。
さらに、被造物の繊細で緻密なデザインが思いがけない偶発的な結果で出来上がったとでもいうのでしょうか。
すべての秩序立った構成が偶然の結果の積み重ねであるとでもいうのでしょうか。

もし、これらの偶然がはじまりの前提となり得るのなら、そのような前提を信じるためには、どのように偶発的、偶然に無から有が生じるのか?混乱からどのようにして秩序立った体系や繊細なデザインや組織立った構成が成り立つようになったのか?通常、自然に観察できる変異によって起こる因子は劣性因子が優勢なものとなるのに、どうやって変異による劣化によって進化という矛盾が起こり得るのかを論理的に説明をすることができるのか?宇宙の構成と秩序、その巨大な動きとはじまりが何に起因し、偶然や偶発によってどのようにしてその巨大な宇宙体系が体系付けられているのか?といったすべての疑問に答えることができなければなりません。

究極の問題は、よく子供が問いかけるように「神様って一体どこから来たの」ということのようです。そして、この問いに対する本当に適切な答えというものもありません。
神はご自身で存在され、はじめから存在されている方なのです。

神はどのようなお方か

創世記は「はじめに神は‐‐‐」という記述のすぐ後から神がどのようなお方なのかということが、啓示されています。

そして、創世記は、聖書に記される神の全て、神はどのようなお方なのか、神は何を望んでおられるのか、何故神はわたしを造られたのか、神は人に対してどのような目的や計画を持っておられるのか、ということについての基礎が紹介されています。

聖書はわたしたちが持つ本質的な疑問に答えてくれます。
もし、わたしたちが真剣に求め続けるなら神は御言葉を通して神ご自身の本当の姿を示してくださいます。
人は往々にして自分の持っているイメージや思いを投影させて神をつくりあげます。
その結果、神がどのような方か、ということについも様々な矛盾する意見が展開され、一体どの意見に信頼を置けばよいのか混乱した意見を聞くだけとなって、混乱はさらに混乱を生みだします。

聖書の御言葉は、神がご自身を人として現わし示している神のことばであるとされています。このことが真理であるか誤っているのかについては、あなた自身が自分で聖書を読まなければ聡明に判断をすることはできません。
あまりにも多くの人々が自分では全く無知な事柄について全くの根拠も権威もない意見を愚かに主張します。

創世記の「はじめに神は---」という記述のすぐ後から神の創造の記述が続きます。
しかし、わたしたちは神がはじめに存在され無から有を創造されたという圧倒的な聖書の宣言より、神がどのように、いつ、創造の業をされたのか、ということを知ろうとすることに捉われます。

わたしたちは聖書の御言葉や神について自分の知識によって理解をしようとします。
いろいろな意見のなかからそれらを本当に吟味することなく自分の理解によって明らかにされていない事柄についてまで、一方的にある意見、解釈を自分の意見だとしばしば思い込んでしまうとき、聖書の言葉にたいする誤解が生じます。

無から有を造りだす

「はじめに神は、天と地を創造された」という記述のなかで、「創造する」という言葉は、ヘブル語で「バラבָּרָאbara' (baw-raw') v」という語、すなわち「無から有を生じさせる」という、神のみが持っておられる全能をあらわす語が使われています。

つまりわたくしたち人間には、まったくの無から有を生じさせる、「バラ」(造る)という能力はありません。
わたくしたちの能力は、ヘブル語の「アサיָצַר(yaw-tsar') v」という概念に当てはまり、すでに存在している素材を組み合わせて「造る」能力であって、その素材、「無から有を生じさせる」ことではありません。
この「アサ」という語は創世記のなかですでに存在する素材を組み合わせて造るという行為を表す語として何度も使われています。

人の目からは偶然に見えることも、神の目には、「無から有を生じさせる」創造のなかにあり、ある素材を組み合わせてその素材とは別のものが造りだされる場合でもそれは偶発的、偶然に起こることではなく、ある素材を組み合わせたときに別のものが造りだされる必然性、法則がすでに織り込み済みとなっており偶然ということはあり得ません。


はじめに神が天と地を創造された。その時がいつであったのかを証明することはできません。
この神の創造ということに関しても、いくつかの神学的思考体系があってそれぞれの論点は特有の問題を孕んでおり、それらは神学的に互いにの論点が対立しています。

  1. 有神的進化論

「有神的進化論」と呼ばれている思考体系は、神がすべてをはじめられたということを認めていますが、その後、被造物が進化するにまかせられたという立場です。
この立場の人達は神が最初のたんぱく質分子を造られ、そこからさまざまな生命体に勝手に進化していったという主張をしています。はじめに神が創造されたことを認めてはいても、その後の創造からは神は取り除かれ、現在は被造物が神の手から離れ、その進化の過程を発展させているという立場です。

  1. 若い地球・文字通りの創造論  

若い地球・文字通りの創造」これはすべての創造が文字通り六日の間におこなわれ、地球の創造も六千年から一万年くらい前に起こったのだという思考体系です。
この立場に立つ人々は、宇宙の生成の年代は、一万年前にも満たないと主張しています。

宇宙の生成が非常に長い時間をかけているというのは、あくまでも人が立てた仮説であり推論だと主張しています。
聖書を文字通り解釈するとき、宇宙は実際に考えられているよりも(その生成の年代は)非常に若く、宇宙の創造のときから現在に至るまで、何億年も何十億年もの期間は経ていないというのです。
宇宙の生成に非常に長い時間がかかったというのは、進化論の立場からすべての生命体が一万年という期間ではとても進化することができず、したがって宇宙は非常に古い昔に生成された、
という論旨に合うように推論されていることが理由であって、宇宙の生成に時間がかかったことを客観的に証明するものは何もないと説明しています。

ここで神がすべてを六千年から一万年前に創造されたという仮説は、固定概念に捉われず、より深く科学的な考察をするとき、この論理に客観的な反論をし決定的な反対をすることは大変難しいことがわかります。

聖書は「六日の間に神は天と地とそのなかにあるすべてを創造された」と述べています。
この御言葉を文字通り解釈すれば、天と地とそのなかにあるすべては、六日の間に創造されたということになります。

聖書は「アダムの罪によって死が入ってきた」という宣言をしていますが、このような宣言にたいしても、進化論の立場の人々は「罪がこの世に入る」以前から死は存在していたと主張しています。
多くの進化論者は、地表の断層が何億年もの長い年月をかけて形成されたという仮説を信じているために、死を記録する化石が存在し、最初の人アダムが神に創造され、罪によって死がこの世に入る以前から死は存在したと主張しています。
しかし、この問題については、地表に形成される断層が全地球を覆う大洪水のときに一挙に形成され、この大変動のときに、それまでの動植物が死滅し化石として残ったということによって説明できることであり、このことは聖書のノアの大洪水の記述とも一致しています。
 
-化石についての説明

通常、地球の生成過程には長い時間がかかったとする進化論の立場に立つ学者たちは、その論拠の一つとして化石の存在を挙げます。
しかし、地球が生成されるのには長い時間を要さなかった、という立場から化石について説明をする学者たちは、化石は、非常に長い時間をかけて進化の過程で形成された、とするより、地球が生成された後に起こった大洪水などの地殻変動によって形成されたというほうが、化石についての記録を客観的に説明していると主張しています。
通常、植物にしても、動物にしても死後野ざらしになったり、埋められると、その個体は、風化し、分解してゆき、地表に同化し、時が経つと土に戻り、解体してしまいます。進化論者は、化石の風化作用や、皮殻形成作用は海洋層でなされると主張しますが、誰も現在海洋床で風化作用や皮殻作用によって化石が形成されるのを観察することができません。もし、海洋中で化石の層が形成されることがなく、その観察をすることも出来ないのなら、海洋中に化石の層が風化作用や皮殻作用によって形成されるとする仮説を証明できるものは何もないということになります。
化石となった大木が年輪を刻んだかたちで発見されてはいますが、それらの大木が、年輪を刻んでいるという理由だけで大木が化石になるのに、何百万年もかかっていると推論することには、無理があります。
さらに、「若い地球、文字通りの創造」の立場に立つ科学者たちは、炭素半減期間による化石の年代測定、その前提に大きな疑問を投げかけています。

-進化論の前提にたいする反論

進化論は、地球の変化、自然の変化は常に均一的な変化の循環であり、最初に地球が非常な高温状態から冷やされ、長い時間をかけて水中に生命が発生し、進化する過程でその変化を取り巻いている状況は一定の均一な状況の繰り返しである、という前提に立っています。生命体の変化も数万年前からの同じような変化過程を経ていると主張しています。
しかし、地球は生成されてから必ずしも長い期間同様な変化環境ではなく、歴史的に大規模な地殻変動や大洪水を経ており、もし、この地質均一説が論拠のないものであるということがはっきりすれば、進化論そのものが、論拠がないということになります。 

-創造における時間の因子

神は、地球や宇宙を、すでに年齢や時間的要素の組み込まれた因子を刻み込んで創造することもお出来になります。
はじめに神がアダムを創造された、その日にアダムは何歳であったのか、ということを考えてみましょう。
最初の人、アダムは創られた。その最初の日は、生まれて、または創られて一日目であるに決まっています。しかし、アダムが、創られた日には歯が生え揃い、成長した身体として造られたことは想像できます。アダムは、創られたその日からすでにある年齢に達し、成長した人のように創られた。言い換えれば、もし、アダムを観察することが出来たなら「彼はきっと三十五歳か四十歳くらいではないだろうか」と言うことは充分可能性があります。それは、創られたその日に、すでに彼が成長した人のように年齢が刻み込まれた因子が組み込まれていたことを証ししています。
これと同じように、神は、地球や宇宙を創造されるとき、時間的な因子を刻み込んで創造されることは容易にお出来になります。
地球から決められた何億光年の距離に銀河を置かれ、宇宙のすべてについても、時間的因子を刻んで創造をされ、もし、その宇宙や銀河系の星を観察する場合、たとえそれが寸前に創造されたとしても「きっと、この宇宙が生成されたのは、何十億年を経過している」というように、宇宙を創造することだって可能であり、このような仮説を科学的に否定できる根拠はありません。

-天使の創造とサタンの堕落

若い地球の創造論の最大の難点は、神の創造のなかでわたしたちの観察できる物質的な次元とは別の天使とその創造について、充分な納得のできる説明が与えられていないということがあります。
聖書のヨブ記38章の記述には、「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。
そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」と述べられています。

この箇所からも、神が地の基を定めたときに、神の子たち、天使がすでに存在していたことがわかります。もし、そうだとすれば、天使はいつ創造されたのでしょうか。
さらに、聖書は、多くの神学者たちが認めるように、サタン、創世記の三章に誘惑する蛇として登場する者が、神に反逆する堕ちた天使であることを示唆しています。
もしそうであるとすれば、このサタンは、創造されてからどのくらいの時を経て神に反逆し、サタンとして堕ちるものに定められ、エデンの園でイヴを誘惑する者となったのでしょうか。

サタンが堕ちた大天使であり、もともとは神の御座の御側に仕えるケルブ(大天使)であったことについては、イザヤ書のなかに次のように述べられています。  

「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。
密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう』
しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」(イザヤ書14章12-15)

また、エゼキエル書でも

「神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、しまめのう、碧玉、サファイヤ、トルコ玉、エメラルド。あなたのタンバリンと笛とは金で作られ、これらはあなたが造られた日に整えられていた。
わたしはあなたを油そそがれた守護者ケルブとともに、神の聖なる山に置いた。あなたは火の石の間を歩いていた。
あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。
あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。
あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」(エゼキエル書14章12-17)

このように、天に存在し神の園であるエデンにも登場するサタンは、支配し、権威を持って治めたことがのべられています。

この場合、大天使からサタンとして堕ちるまで、どのくらいの時を経たのでしょうか。 
神が天使をも創造され、天使やサタンの存在を認めるかぎり、宇宙や地球が創造されてから、文字通り6千年の時しか経過していないと断定することには問題があると思わざるを得ません。 

-創世記1章1節と2節のギャップ

したがって「はじめに神が天と地とを創られた」「しかし、地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水の面をおおっていた」こととの間には、時間的な溝(ギヤップ)が
あったと考えるとき、天使とその創造、大天使がサタンとして堕ちるまでの時の経過についての説明をすることが出来るように思われます。
この仮説にも問題がない訳ではありません。
はじめに、神が天と地とを創造されたときが、いつであったのかはわかりませんが、創世記の一章一節と二節のあいだに時間的な溝(通常、これを創造のギャップ理論と呼んでいます)があるという仮説に立つと、神が天と地を創造されたとき、天使も神の被造物として創造され、天使に天空の支配を委ねられ、地球も創造されたということを説明することができます。
そして、先に引用したエゼキエル書の記述からも、実際には人が創造される以前に、暁の子、明けの明星として支配と統治していた大天使に委ねられていたのではないか、大天使が神に反逆し、サタンとして堕ちるときに、地球はもとの状態から変わってしまった、という推量をすることができます。

ヘブル語の原語では、二節の文脈は「地は、(単に)形なく、むなしく」という状態であったというよりも「そして、地は(もともとの状態から)荒廃し、むなしい」状態に変わった、と訳すこともできます。
もし、このような訳が正しいとすれば、神がサタンの反逆にたいして、大天使がサタンとして堕ちるときに、地球が一種の「深い冷凍状態、停止状態」に置かれたということが示唆されていると解釈することができます。そして「やみが淵のおもてにあり、神の霊が水の面をおおい、地球は水でおおわれ、ある期間、冷凍状態」に置かれたと考えることができます。

神の創造ひとつをとっても、このようにいくつかの神学的理論があって、それぞれの論点は、聖書の御言葉を前提にして特定の神学論が決定的だと断定をすることはできない、という問題を孕んでいます。

したがって、わたしたちにとって大切なのは、聖書の御言葉が霊感によって書かれ変わることのない神の言葉として信頼することを前提にすることが大切であり、一字一句について神学論的な断定をし、わたしたちの頭で完全な理解をすることが目的ではないことがわかります。

聖書の記述は、科学的な正確さから外れるものではありませんが、科学的な正確さ、説明をすることを目的として書かれたものではありません。
聖書は、天と地とわたしたちを創造された神がどのような方なのかを示し、わたしたちが造られた目的を示すために記述されています。

聖書をとおして神がしめされていること

神の言葉、聖書は神について何をわたしたちに示されているのでしょうか。

創世記の記述をとおして示されていることは、神がはじめから存在され、神のご計画と目的のなかですべてが創造されたことが示されています。
さらに、神は、人が神と交わり関係を持つことのできるものとして創造されたことが示されています。
神は、すべてを形作り(デザインされ)、人は神を知り、神との関係を回復することによって完全な神の意図されたものになることができることが示されています。
神が聖書の御言葉をとおして神ご自身を示されているのは、人が神との愛の関係を持ち、なにものにも増して神を愛し、人が神を神であるがゆえに愛し、神の愛に絶対の信頼を持つものとなり創造者である神との永遠の交わりにある喜びを知るものとなるためなのです。

聖書の御言葉をとおし、生きた創造者である神をわたしたちが知り、人知を超えた神の愛の深さ、広さ、長さ、高さを知って、わたしたちが神との交わりのなかに永遠の命を得るものとなるために、聖書は記されています。


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