ネフシュタン

( 列王記下18章1-4)

紀元前728年、南ユダ王国のヒゼキヤは、25歳で王位を継ぎました。ヒゼキアが王となって6年後、紀元前722年、分裂した北のイスラエル王国は、アッシリア帝国によって、滅亡してしまいました。これは、主のしもべである預言者たちを通して再三警告されたとおり、王と民が主なる彼らの神から離れ、主の命令と戒めを守らず他国の偶像と風習に習った結果でした。
南ユダ王国も、北王国と同じく滅亡の危機にさらされていましたが、ヒゼキヤは、王位に就くと父アハズ王の悪政を改革し、心を主なる神に向けました。
ヒゼキヤ王の最初に行った改革は、高きところの礼拝、偶像を撤廃することでした。
彼は、この改革で人々が青銅の蛇に香をたくことを止めさせ、青銅の蛇を、「これは銅にすぎない、ネフシュタン」と言って打ち砕きました。


エジプトからモーセに率いられ、約束の地へ向かう荒野の旅で、イスラエルの民は神とモーセに逆らって「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」とつぶやき、主が民の中に送られた燃える蛇によって、民は蛇にかまれ、多くの人々が死にました。このために民は、「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」とモーセに訴え、モーセは民のために祈り、主はこれに答えられ「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」と言われ、モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけました。炎の蛇に人がかまれても、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きる、という出来事がありました。(民数記21章5-9)

イスラエルの民にとって、旗ざおの上につけられた青銅の蛇を見上げると、死にかかった人々が、どうして癒されるのか理解できなかったことでしょう。しかし、神の言葉を信じ、青銅の蛇を見上げた人々は確実に救われ、神が用意された方法を拒否し、青銅の蛇を見上げなかった人々は死んでしまいました。 神の言葉が何故そうなるのか、と疑問を抱くことより、神が与えられた解決の方法を信じることが、救われ癒される解決の道だったのです。

聖書全体をとおして青銅は、神の裁きを象徴し、蛇は罪を象徴しています。


後にイエスのもとを訪れたユダヤ人の指導者、ニコデモが神の国をみるために、どのようにすればよいのかを尋ねたとき、イエスは、ニコデモに「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」(ヨハネ福音書3章10-14)
さおにつけられた青銅の蛇を人々が見上げて死から救われたように、天から来られた人の子イエスが、十字架につけられ、罪の裁きとなられたことを信じる信仰によって神の国を見ることができるとニコデモに言われたのです。
それは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛され、それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ福音書3章16
 


イスラエルが王国となり、神殿が完成し、ソロモンが王の時からヒゼキヤが王になるまでの約260年以上の期間(紀元前986年頃から728年頃まで)、青銅の蛇は神の奇跡を記念するものとして神殿に運び入れられ、これに香をたいて人々は祈り、拝む対象としました。       

ヒゼキヤは、最初におこなった改革のとき、すべての偶像を打ち砕き、人々が香をたいていた 青銅の蛇をも「ネフシュタン(銅にすぎないもの)」と呼んで、これを打ち砕いてしまいました。


神の臨在を忘れると、人は神のなさる奇跡、霊的な体験を、目で見えるものに置き代えてそれを拝んだり、主が今も素晴らしい働きをされていることを忘れて、過去の霊的体験に結びつくものを礼拝の対象にしてしまうことがあります。
過去の素晴らしい霊的な体験は、現在のより新しくて深い、神への感動となって息づいていなければ、神の働きを記念するものが偶像となってしまう危険があります。
今も働かれておられる神を、目で見えるものに代えて拝むこと自体、信仰についての混乱です。
多くの人々が装飾された十字架を礼拝の対象としたり、神の御業を象徴するものを拝むとき、わたしたちは、生きた神との関係から離れた状態になります。

主のなさる素晴らしい奇跡やはたらきを人生で体験することがあっても、その体験が現在の生きた神との愛の関係に生かされていなければ、それは、信仰の後退であって前進ではありません。
信仰が後退するとき、神が臨在されておられることを忘れ、神の奇跡や業を目に見えるものに代えて記念するものにし、それを遂には偶像としてしまうという霊的な混乱状態を招くのです。


使途パウロは、霊的な混乱状態について次のように述べています。
「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。」(ロマ書1章21-25)
                  


生ける神との関係を深めるには、人生で体験する素晴らしい神の御業をかたちにあらわし、その記念となるものに置き換えて神を拝むことはできません。
御言葉に信頼し、御言葉のなかに歩み、イエス・キリストの救い、神の真実さ、恵みを体験し、より深い生きた交わりを持って持ち続けることが信仰であり、信仰によって、わたしたちは、栄光の主の御前に立つ喜びをより確実なものにすることができます。
このことについて使徒パウロは、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ人への手紙3章7-9)と言っています。


御言葉の中に堅く立たず、自分の思いに捉われ、主のなさる素晴らしい奇跡やはたらきを、目で見えるものやかたちに置き換え、それを祭りあげてしまうとき、イエス・キリストとのより深い生きた交わりから離れ、信仰が押し流されてしまいます。このことについて、ヘブル書でも「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。
もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、
私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、
そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」(ヘブル書2章1-4)という警告がされています。


神がわたしたちを愛され、御子イエス・キリストの十字架によってこの世を贖われ、わたしたちの罪の代価を完全に決済され、恵みによって罪の滅びから救われ、聖霊の導きに信頼し人生を歩み、永遠の命の希望を確かなものとされていることほど素晴らしいことはあり得ません。  
神は、わたしたちが、神との関係をキリストによって深め、恵みに感動し、熱い思いを抱きつづけ、人生を信仰によって歩むことを望まれています。


栄光のイエスは、長老ヨハネにあらわれ、「 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(黙示録2章4)

「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3章13-15)と、警告されています。

主があなたの人生の中でされた御業を、他のものに置き換えてしまうことは、現在の主との生きた愛の関係からの後退になります。
わたしたちは、常に主との生きた新しい愛に感動し、それを思い起し、もし、主との生きた関係から離れたり後退しているのであれば、悔い改め、主との交わりを続け、深めてゆくことが、わたしたちの信仰の秘訣です。



 
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