余計なお節介(の危険)

( 列王記下14章10、歴代誌下25章17-24)


紀元前800年頃、南ユダ王国は、ヨアシュが家来たちの謀反によって暗殺され、その子アマツヤが王位を継ぐことになりました。
アマツヤ王は、主の目にかなうことを行ないましたが、完全に神への信頼をしませんでした。
王になったアマツヤは、王位をゆるぎないものとし、父を暗殺した家来たちを処刑し、王国を再建することに取り組みました。
アマツヤはユダを召集し、ユダおよびベニヤミン全員を、登録し、従軍して槍と大盾を手にする精鋭三十万人を得ました。このとき、彼はイスラエルから、銀百タラントで、十万人の勇士を雇いましたが、神の人から「王よ。イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわち、すべてのエフライム族とは、共におられないからです。」と忠告を受けエフライムから彼のもとに来た軍隊を取り分けて、彼らの所に帰しました。
この後、アマツヤは、奮い立って、その民を率いて塩の谷に行き、エドムとの戦いに完全な勝利を収め、エドム人の要塞ペトラをも占領しました。
アマツヤは、必ずしも全面的に神に信頼するより自分の力を誇りました。 


エドムとの戦いに勝利して勢いづいたアマツヤは、北イスラエルに対して戦いを挑み、北イスラエルの王に宣戦を布告する手紙を送りました。
このアマツヤの手紙に応えて北イスラエルの王は、「レバノンのあざみが、レバノンの杉に使者を送って、『あなたの娘を私の息子の嫁にくれないか。』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。
あなたは、どうだ、自分はエドムを打ち破ったと言った。あなたの心は高ぶり、誇っている。今は、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。」という返事を送りました。


この手紙は、アマツヤにたいして、「エドム人との戦いに勝利して、高ぶり、余計なお節介をして、痛手をこうむることのないように。不必要な戦いを引き起こし、痛手を受けることのないように。」という警告でした。

しかし、アマツヤ王は、この北イスラエルの王の警告を聞こうとはせず、南王国と北王国はベテ・シェメシュで対戦することとなりました。

この結果、アマツヤの軍勢は、北王国の軍勢に打ち破られ、アマツヤ王は北王国の捕虜となってしまい、王国の都エルサレムの城壁は打ち壊され、神の宮にあったすべての金と銀、およびすべての器具、それに王宮の財宝と人質が北王国の都サマリヤに奪われてしまいました。


この記述をとおして、わたしたちは、アマツヤ王の悲劇をみることができます。
アマツヤ王の悲劇と同じような悲劇が、状況や人物はことなっていても、わたしたちの周りで今日も常に繰り返されているのをみます。

アマツヤとおなじように、問題を克服し有頂天になっているときに、余計なお節介、不必要な干渉をして、より困難な状況を引き起こし、単に痛手を蒙るだけでなく、問題や悲惨な状況から自分を守っている防壁を完全に崩し、敵の虜となってしまうということは、わたしたちの人生でも繰り返されている悲劇です。


このユダ王国の王は、何故このような状況に陥ってしまったのでしょう。

アマツヤは、エドム人との戦いに大勝利を収め、その勝利に有頂天になってしまいました。
わたしたちの人生でも、あることに成功を収め、有頂天になった時に足元をすくわれ、より困難な状況を招きます。

わたしたちの霊の歩みについても、霊的な勝利に有頂天になるとき、その直後により厳しい状況をしばしば自ら招きます。

わたしたちにとって、成功に有頂天になった時が最も危険な時ということが出来ます。

勝利は本来、主の力であるにも拘わらず、わたしたちは自分の力、自分の努力、能力によって勝利したと錯覚します。そのようなとき、わたしたちは、愚かにも関わる必要のない人や、事柄に干渉し、不必要なお節介をします。


弟子としてイエスと共に三年半余を過したペテロは、イエスが引き渡されて十字架に架かられる前の晩に「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。。」と、告げられたとき、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と答えました。このときの、ペテロは自分の思いでは、イエスにつまづき、イエスを三度も否むことなど思いもよりませんでした。

わたしたちは、自分の能力や力で勝利を得ることが出来ると錯覚するとき、他の者はともかく、自分に限って失敗することはない、という自分の能力を誇り、関わる必要のない人や事柄に干渉をします。

通常、最も大きな試練は、最も成功したかのように見えることのすぐ後からやって来ます。
この世は、成功の秘訣は自分に自信を持つことだ、ということをわたしたちに思い込ませようとしています。


今日でも、多くの企業教育の場において、成功をするために、自信を持つことの重要さを強調します。日本では「成せば成る」という言葉があり、自身を持って頑張ることが、成功、目標の達成のための秘訣と考えられています。
しかし、自分に自信を持つことは、クリスチャンにとって決して好ましい特性ではありません。

わたしたちクリスチャンは、自分自身の肉のうちには、何一つ善いものがない、誇るものがないことを知っています。
しかし、一方で、わたしたちは、わたしたちを強くしてくださる方によって、どんなことでも出来ると使途パウロは宣言しています。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ書4章13)

わたしたちも、主が共におられるとき、どのような困難や問題のなかにあっても、主が共に戦われ、問題や困難な状況からも勝利を得るものとなることができ、試練をとおして主に信頼することを学びます。

イエスは、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ福音書15章5)と言われています。
   


アマツヤ王がイスラエルの王から受け取った手紙は、「エドム人との戦いに勝利して、高ぶり、余計な手出しをして、不必要な戦いを引き起こし、痛手を受けることのないように。」という警告でした。

何故 人は、関わらなくともよい人や事柄に干渉したり、お節介を焼くのでしょうか。

アマツヤがイスラエルの王に戦いを挑んだのは、エドムとの戦いに勝利し、自分の力を過信して高ぶった心が原因でした。

神が人に才能を与えられ、状況を支配されることを忘れ、わたしたちは、成功し、自信を持ち、問題を自分で解決することが出来ると思い込み、自分の能力を過信します。 
人は自分自身を欺き、本当の危険を見ることができません。

自然のわたしたちの性質は、快楽やスリルをもたらすように思えることに引き寄せられ、関わりを持つ必要のないことに好奇心を抱き、手出ししなくともよいことに手出しをするのです。それは、わたしたちの罪の性質です。

そのときのサタンの囁きは、常に「試しもしないでどうして善悪がわかるのか?皆がしていることではないか。」という欺きです。

神は、わたしたちが、肉の思いに駆られ、自分の力を過信して、関わる必要のないことに好奇心を持ち、余計な干渉や、お節介によって危険な問題を引き起こすことに、再三警告をされています。
「人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。
また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。」(箴言6章27)
という警告が、聖書のなかにはあります。

使途パウロも「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。」(第二コリント書6章15-16)と警告をしています。

異性の外見だけに惹かれ、肉の思いによって相手との基本的な価値観、生きる上で最も大切と思うものが異なっているのに、自分の思い込み自分の感情を愛と錯覚し、愛はすべてを克服できると自分自身を欺き、肉体関係を結び、つりあわぬくびきを一緒にしてしまうことは、わたしたちの周りでも日常的な茶飯事です。

人によっては、すでに結婚をして子供があり、家庭を持っているのにも拘わらず、
家庭の外で、はじめは他愛のない戯れから、思ってもみなかった男女間の抜き差しならない関係に陥り、家庭崩壊に至ります。

さらに、聖書の御言葉は、「 ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない。」(箴言20章1)

「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ書5章18)
「快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。 」(箴言21章17)
というように、わたしたちに明確な警告を与えています。

誰も、アルコール依存症や、薬物依存症になろうと思って、酒や薬を飲む人はいません。はじめは、皆、自分が中毒になることなどない。自分に限って、大丈夫、という自己過信と、はじめのちよっとした好奇心から、酒や薬に手をだすのです。
 
サタンは、常にわたしたちの心に、「ちょっとだけなら大丈夫、あなたは、問題になど巻き込まれない。」と囁きかけます。


最初は、このような肉の思い、自分を過信することに、神が警告を与えられていても、わたしたちが、そのような聖霊の警告を無視するとき、二度三度、そのようなことが重なるにつれて、良心は麻痺し、問題や悲惨な状況からわたしたちを守っている防壁が完全に崩され、遂には、その問題や状況の虜となってしまいます。

さらに悲劇的なのは、関わる必要のない問題に首をつっこんで、抜け出すことの出来ない状況に陥った本人だけでなく、その本人に最も近い人々までが問題に巻き込まれ、穢れのない無垢な心をうしない、積み上げた宝を失ってしまいます。

アマツヤ王は、自分を過信し、関わる必要のない戦いを挑み、北王国の捕虜となってしまいました。さらに、王国の都エルサレムの城壁は打ち壊され、神の宮にあったすべての金と銀、およびすべての器具、それに王宮の財宝と人質が敵の都に持ち去られてしまいました。


わたしたちも、アマツヤのように、成功しているように見えるとき、自分自身を過信し、肉の思いに駆られて、関わってはならない領域に干渉し、痛手を受けます。

神は、このような、わたしたちのために御子を送られ、わたしたちの失敗、罪を帳消しにしてくださるために十字架の上ですべての罪の責めを負ってくださいました。そればかりでなく、復活によって、御子がなされた十字架の贖いの業が、完成されたものであることを証明してくださいました。

この福音を心から自分のものとして受け入れ、自分の失敗、罪を悔い改める人には、どんな悲劇的な状況からでも、わたしたちが立ち直るためのチャンスと、栄光の永遠の命の希望があたえられています。


 
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