神は語り、これを成し遂げられる

( 列王記上8章14ー16、56、)

ソロモンは、父ダビデから王位を継いで王となってから4年目に、神殿の建設に取り掛かり、7年の歳月をかけて、荘厳な神殿を完成し、さらに13年の歳月をかけて自分の宮殿と神殿のすべての細工を細工物全般に関する知恵と、英知と、知識とに満ちた細工人をツロの国から呼んで完成させました。

この後、ソロモンはイスラエルの長老たち、およびイスラエル人の部族のかしらたちと一族の長たちをすべて、エルサレムに召集しました。彼のところに集まったイスラエルの全会衆とともに主の契約の箱を運び上り、羊や牛をいけにえとしてささげ、祭司たちは主の契約の箱を、定めの場所、神殿の内堂である至聖所のケルビムの翼の下に運び入れました。祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が満ち主の栄光が主の宮に満ち、神殿がイスラエルの全会衆の前で奉献されました。

このとき、ソロモンは、全会衆の前で、神がダビデに約束され、神の宮、神殿にその御名を置くと言われ、「もし、ソロモンと民が神のおきてに歩み、定めを行ない、神のすべての命令を守り、これによって歩むなら、神がダビデにイスラエルの王座に着く人が、わたしの前から断たれないと約束したことを成就しよう。」と、言われたことを告げ、神が約束され、語られたことを成し遂げられる方であり、神の真実さ、良い約束が一つも違わなかったことを民に告げました。

ソロモンは、全会衆に向かって、神が言われた約束が決して違(たが)うことがない、真実な方であることを宣言しています。


聖書は神が語られた御言葉であり、すべて霊感によるものです。そして、聖書の預言も人の意志によってもたらされるものではなく、人々が聖霊に動かされ、神の語られたことばなのです。(第二テモテ書3章16、第二ペテロの手紙1章21参照)

聖書のなかで、主がこう仰せられる、という表現は400回以上、主が語られた、という表現は200回以上、こう語られた、という表現は50回以上されていますが、これを見ても、聖書のことばが神ご自身の語られたことばであることがわかります。
はじめから終わりに至るまでを知られ、時と空間を超越される方が語られていることは一つも違わず成就します。

神が語られ、成就される方ということは、すでに歴史をとおして成就された出来事をみるとき、それがいかに詳細に、正確にすべて成就しているのかを知ることができます。


エゼキエル書には、ヘブル人の祭司として生まれたエゼキエルによって紀元前593年から紀元前570年の期間、分裂したイスラエルの南王国がバビロン帝国によって滅ぼされるときのイスラエルの預言と、王国の周辺の国々についての預言が記されています。

たとえば、エゼキエル書には、26章で、当時 航海貿易によって巨万の富を築き、古代帝国のなかで繁栄し、ソロモンの神殿や宮殿の造営にも協力したツロ帝国についての預言がされています。この預言は、紀元前586年にされた預言とされています。

「1 第十一年の第一日に主の言葉がわたしに臨んだ、 2 「人の子よ、ツロはエルサレムについて言った、『ああ、それはよい気味である。もろもろの民の門は破れて、わたしに開かれた。わたしは豊かになり、彼は破れはてた』と。 3 それゆえ、主なる神はこう言われる、ツロよ、わたしはあなたを攻め、海がその波を起すように、わたしは多くの国民を、あなたに攻めこさせる。 4 彼らはツロの城壁をこわし、そのやぐらを倒す。わたしはその土を払い去って、裸の岩にする。 5 ツロは海の中にあって、網をはる場所になる。これはわたしが言ったのであると、主なる神は言われる。ツロは、もろもろの民にかすめられ、 6 その本土におる娘たちは、つるぎで殺される。そして彼らは、わたしが主であることを知るようになる。
7 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは王の王なるバビロンの王ネブカデレザルに、馬、戦車、騎兵、および多くの軍勢をひきいて、北からツロに攻めこさせる。 8 彼は本土におるあなたの娘たちを、つるぎで殺し、あなたに向かって雲悌を建て、塁を築き、盾を備え、 9 城くずしをあなたの城壁に向け、おのであなたのやぐらを打ち砕く。 10 その多くの馬の土煙は、あなたをおおう。人が破れた町にはいるように、彼があなたの門にはいる時、騎兵と貨車と戦車の響きによって、あなたの石がきはゆるぐ。 11 彼はその馬のひずめで、あなたのすべてのちまたを踏みあらし、つるぎであなたの民を殺す。あなたの力強い柱は地に倒れる。 12 彼らはあなたの財宝を奪い、商品をかすめ、城壁をくずし、楽しい家をこわし、石と木と土とを水の中に投げ込む。 13 わたしはあなたの歌の声をとどめる。琴の音はもはや聞えなくなる。 14 わたしはあなたを裸の岩にする。あなたは網を張る場所となり、再び建てられることはない。主なるわたしがこれを言ったと、主なる神は言われる。」(エゼキエル書26章1-14口語訳聖書) 


この預言の翌年、紀元前585年に、神が言われたとおり、バビロンのネブカドネザル王がツロの都を攻撃し、13年の歳月をかけて城壁を破壊し、多くの住民がつるぎによって殺されました。古代から港に建設されたツロの町は、フェニキア文明発祥の地としても知られ、海洋貿易で巨万の富を蓄積し、地中海に臨む海に真水の湧き出る場所をも知っていました。このために、13年のバビロンの攻城の期間も必要な水や糧食を断たれることなく、この籠城戦の期間に地中海の島に都を移してしまい城壁が崩された後も、ネブカデネザル王はツロの富を戦利品として奪うことができませんでした。

このエゼキエル書の預言には、7節でネブカドネザルがツロを攻めるとき、ネブカデネザルを指す彼という三人称単数の代名詞が、11節までつかわれています。しかし、12節にはツロを攻めるのは、ネブカデネザルを指す彼という三人称単数ではなく、三人称複数形の彼らによってツロが完全に滅びてゆくという預言となっています。

これは、紀元前585年から紀元前572年のツロの攻撃だけでなく、紀元前332年にギリシヤのアレクサンダー大王のときに、海岸から島まで石と木と土による土塁を海のなかに築き、海とその土塁を渡って陸からも攻撃され、7ヶ月の期間に攻め滅ぼされたことをさしています。アレクサンダー大王のツロ攻城

古代ツロ王国は滅亡し、長い間廃墟となり、現代イスラエル北部レバノンの首都ベイルート近くにツロという場所は現存しますが、古代都市ツロが正確にどこの場所であったのかは長い間、はっきり解明されず、その地域では現在も漁師たちが、漁のため網を張っている裸の岩が点在するところとなっています。

この、バビロンとギリシヤによるツロの攻撃は、後の時代のわたしたちにとっては、歴史の事実として知ることができますが、そのことが起こる前にエゼキエルをとおして神が語られたことが文字通り歴史事実として、成就されたことを知ることができます。


エルサレムの城壁が崩れ、神殿が滅び、イスラエルの民が70年の期間捕囚となって他の国に移され、民を捕囚としたバビロニア帝国がミードペルシア帝国のクロス王に征服され、クロス王によってイスラエルの民が解放されるという、古代史のうえで実際に起こる歴史上の出来事がそれらすべてが起こるずっと以前に聖書で預言され、神が詳しく語られ、詳細に成就したことをみることができます。

エルサレムが崩され、ソロモンの神殿が滅び、イスラエルの民がバビロンに捕囚となることについての預言は、アモス書、ホセア書、イザヤ書、ミカ書、ゼパニア書、ハバクク書、エレミア書、に記録された預言や、バビロン捕囚が始まった後も解放が起こる前に記録されたエゼキエル書、ダニエル書などの預言をみるとき、それらの預言者たちをとおして、神が語られたことが、いかに正確に、そして詳細に成就していったかを現実におこった歴史をとおして知ることができます。


たとえば、イザヤ書には、あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。
わたしは自慢する者らのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。
わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる。』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。

淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす。』と言う。
わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる。』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』と言う。」

主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。
わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。

わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。

わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。

わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。(イザヤ書44章24-28、45章1-5)
と、書かれています。

この預言は、紀元前740年から690年にかけて記録されたとされています。歴史上ミードペルシア帝国が勃興しクロス王が出現するのは、この預言がされた時代からすくなくとも150年後のことです。これを見ても、そのときには世界史の上で出現もしていなかった国の王の名前まで預言され、そのクロス王によって実際にユダヤ人の解放が行われたことを歴史上の事実として知るとき、神がイザヤをとおして語られたことを、成就されていることに驚かされます。

イスラエルの民のバビロンへの捕囚の期間についても、神は、預言者エレミアの口をとおして70年の期間が定められていると、言われています。このエレミアの預言は実際にユダヤ人の捕囚がはじまる少なくとも30年前、南王国が滅びる前に語られています。

「まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」(エレミア書29章10)

300フィートの高さを持ち、その幅は4頭だての馬に曳かせた戦車が3台並列して走っても余裕のある分厚い城壁に囲まれ、難攻不落を誇るバビロニア帝国がどのように滅ぼされてゆくのかについても、その歴史的な事実が起こる以前に書かれたダニエル書5章を読むとき、神の語られたことが文字通り、確実に成就したのを知ることができます。


そればかりでなく、イエス・キリストの十字架ということについても、たとえば、ルカの福音書23章の記述と、ローマがまだ帝国となり、十字架がみせしめのための極刑として最も残酷な死刑の方法として開発されるずっと以前に、イザヤ書52章、53章、詩篇22編、詩篇69編、アモス書などをみると、文字通り詳細にいたるまで史実に現実のものとなって成就したことを知ることができます。                       


エゼキエル書は、イエス・キリストが十字架に架かり、復活された後、再建された神殿が再び崩壊し、エルサレムがローマの軍団によって滅ぼされ、後の時代に世界に流浪の民として過ごすイスラエルの民が再び国として復活し、世界に離散したユダヤ人が再び集められ、終わりの時代に世界を巻き込んで最終的には、国々がメギドの平野で血みどろの戦いによって終結してゆく戦いの発端となる国々の戦いの預言が詳しく描かれています。

イスラエルが国家として、約2千年の時を経て約束された地に戻り、1948年に再建されたことは、現代のわたしたちにも記憶に新しい、預言の成就です。

そればかりでなく、エゼキエル書38章、39章を見るとき、エゼキエルをとおして神が語られた、終わりの時の預言でも、言及されているイスラエルを攻める国々について、昔のペルシヤ、ゴグ、クシュとプテ、ペテ・トガルマという国々であり、これらの国々が現代のイラン、ロシア、エチオピア、ソマリア、トルコに該当し、共に急速にイスラエルに敵対し、今にもイスラエルに対する攻撃が現実のものとなろうとしていることを、昨今のニュースに気を付ける人には誰でも知ることができます。


神が語られたことは、これから起こることについても必ず成就します。
世界の刻々展開する情勢をみるとき、現代がエゼキエル書にも預言されている終わりの時代であるということが理解できます。

「人の子よ。メシェクとトバルの大首長であるマゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、わたしは、あなたに立ち向かう。

わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。

ペルシヤとクシュとプテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとを着けている。
ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマと、そのすべての軍隊、それに多くの国々の民があなたとともにいる。」(エゼキエル書抜粋 38章2-6)

キリストが再臨されるときの終わりの時代については、新約聖書にも次のようにのべられています。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(第二テモテ書3章1-5)

「次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、
次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」(第二ペテロの手紙3章3-4)  

多くの人々がより自己中心的になり、金がすべてと言い、不遜になり、神をけがす者となっていることは毎日わたしたちの日常茶飯事となっています。そして、多くの人々がキリストが再臨されることなどまるで眼中になく、昨日も今日も明日もおなじように変わらないと信じています。


全知全能の神はすべてをご存知であり、神が語られたことは、これからも必ず成就します。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」(ヘブル書9章27,28)

「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(黙示録20章15)

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ書6章8)

神の語られたことにこころを留めず、神が語られたことを成就されるとき自分自身に滅びを招くか、神の語られたことに本当に心を留め、神のことばに信頼し、聖霊の助けによってキリストを主として歩み、神との交わりの喜びと状況を超えた平安を得、永遠の命を得るかは、あなた自身の選び取りにかかっています。



 
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