どっちつかずの民

( 列王記上18章20ー21)





第一に、アハブ王とその配下の偶像神に仕える預言者たちに敢然とひとり立ち向かう神の預言者エリヤの存在があげられます。
神の預言者エリヤについては、ティシュベの出であること以外、その出生や背景が判っていません。
わたしたちにわかっているのは、エリヤが無骨で逞しい、らくだの毛皮の着物をまとい、人々に重厚な神のことばを告げる預言者であるということです。エリヤは、国が霊的な危機の状態にあるとき突如あらわれましたが、エリヤאֵלִיָה אֵלִיָהוּ'Eliyah (ay-lee-yaw') (or prolonged tEliyahuw {ay-lee-yaw'-hoo})という名前は、ヤーウェはわが神、という 名前自体が重要な意味を持っています。 

第二には、バアルとアシュラの偶像神の預言者たちです。
カルメル山には、四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者が集められましたが、彼らは、公に生けるイスラエルの神、ヤーウェの名を汚し、バアルとアシュラの淫らで不道徳な忌むべき偶像礼拝にイスラエルの民を引き込み、国家を堕落へと導いた人々でした。
彼らはあらゆる手段によって、道徳的な規範や、生きた聖なる神への信仰から人々を引き離すための努力を惜しみませんでした。

第三は、エリヤとバアル、アシュラの預言者の対決をみるために集まってきた多くの群衆たちでした。
エリヤは、この群衆に向けて、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」と叫んだのです。

このイスラエルの群衆は、もともと神の選びの民として生ける先祖アブラハム、イサク、ヤコブの神であるヤーウェを知っていた人々でした。
しかし、この群衆は実際には全員がバアルやアシュラへの偶像礼拝も行っていました。
この群衆は、状況によって態度を変え、ヤーウェの神にも、バアル、アシュラの偶像神にも、どの神が自分にとって本当の神なのかということを心を決めて選び取ることをしていない移ろいやすい人々でした。


第二は、生ける神の存在を真っ向から否定し、金銭、知識、権力、快楽を得ることが人生の目標であることを公言してはばかることなく、人権や言論の自由とか社会的寛容という大儀のもとに、あらゆる社会の道徳的規律を退廃させ、汚れた性やポルノ情報を社会に蔓延させ道徳的なものを否定しようとする人々です。
彼らは、創造者の存在や、善悪を決める絶対的な基準があることを否定し、教育や、倫理、道徳を破壊しようと組織的な活動をし、避妊や同性愛の権利といったことまで組織的に主張しようとする人々です。
彼らの意見や主張は、国家を道徳的退廃に導き、人々に悲惨な状況を招き、ユダ書にも述べられているように、「自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されている」(ユダ書1章13)人々です。

第三は、そのどちらでもない人々です。彼らは、クリスチヤン文化といわれる国々にあって全体の最も多勢を占めています。
彼らは、イエス・キリストの福音によって国家の存立に拘わる影響を受けており、ヤーウェの神(神の御名参照)の存在を認め、善悪の区別があると思っている人々です。大半の人々は、聖書のことばにどこか真理があり力があると思っていて教会の集まりに出てきます。けれどもこれらの人々は、目に見える金銭、知識、権力を得ることが大切と考え、毎日の目先の生活に心を捉われ、神のことばである聖書を自分にたいするものとして真剣に聞かず、人生の歩みを神に信頼して歩むことに心を決めていない人々です。


真剣に神のことばに心を留め、それを行うことを心から決めていない人々によって、社会全体は退廃し不道徳なものへと変わってゆきます。
彼らはこの世の闇の力になんら低抗することなく、異邦の神々を容認し、それらの闇の力、支配に堅く立つこともせず、この世の退廃に手をこまねいているのです。このような人々に向かって、エリヤは、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」と叫んだのです。
                     


しかし、このような人々、あるいはその主張を支えているのは、どっちつかずのなまぬるい立場の人々です。            

アルコール、麻薬などの中毒、娼婦や男娼が横行し、殺人が頻発する社会が、自分の欲望だけに捉われ、欲望の虜になり、そこから抜け出すことのできなくなった悲惨な結果、社会の道徳的規範がなくなるときの結末なのだということは、わたしたちも理解し、同意できることです。

ものごとには善いこと、悪いことがあり、自分勝手な欲望だけを優先させる社会が道徳的退廃と様々な悲惨な結果を引き起こしていることを認めている人々でも、金儲けや権力や知識を得ようとして手段を選ばなかったり、自分の家庭で、毎晩晩酌を欠かさなかったり、淫らなテレビ番組を見たり、ポルノ雑誌が家庭にあったりする場合があります。
彼らは、結局どっちつかずの立場に立っています。そのような人は、本人は、アルコールや麻薬の中毒や淫らな性関係に陥ることがないかもしれません。
ところが、そういった家庭における大人の偽善的行動によって、害毒のある刺激物に対する抵抗力や性的な誘惑に抵抗力や判断力を持たない子供たちが、不道徳なものに興味をそそられ、より強い影響を受けて、彼らが将来アルコールや麻薬中毒、性的な乱れに陥り、それらの行為が社会的に容認され、正当化され、道徳的規律そのものが崩れてゆく基盤となってゆくのです。

社会の道徳的規律を退廃させ、汚れを社会に蔓延させ道徳的なものを否定しようとする人々の主張を現実に支えるのは、多くの人々の聖いものと汚れたものを混ぜ合わせたどっちつかずの態度と毎日の行動です。
そして、このようなどっちつかずであることが、より大きな影響を周りの人々に与え、この世の汚れを社会に蔓延させ道徳的なものを否定しようとする人々を勢いづかせ、道徳を退廃させ、家庭を崩壊に、国家を破滅へと導いてゆく要因となるのです。




変わることのない神のことば、聖書をとおして、創造者である永遠の神が、わたしたちを愛され、イエス・キリストの十字架の贖いをとおして交わりを回復されるという恵みを、心を決めて受け取り、どっちつかずの民のようにではなく、常に変わる周りの人々や、状況にではなく、心を決めて神のことばに耳を傾け、イエス・キリストを人生の主として、信仰によって熱心に歩み続けるとき、神が祈りに答えられることを体験します。
心を決め、御言葉に信頼する人生の歩みは、周りにも素晴らしい影響を与えてゆくことができます。そして、本当の喜びと平安と愛に満ちた人生を歩むことができるでしょう。



 
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