どっちつかずの民
( 列王記上18章20ー21)
- 18:20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちをカルメル山に集めた。
- 18:21 エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。
- イスラエルの王アハブと后イゼベル
ダビデ、ソロモンが王の時代に繁栄を誇ったイスラエルは、ソロモンの晩年の背信によって分裂、衰退、そして王国の滅亡を招く歴史を辿ってゆきます。
分裂をした北イスラエルの王国は、天地を創造された全能の主なる神から他の神々に心を移す王たちによって様々な問題を引き起こしてゆきます。そのなかでも、イスラエルのアハブは、民を不道徳と退廃に引き込んだ最悪の王でした。
アハブ王の后イゼベルはアハブにまさって不道徳を民にもたらし、異国のバアル信仰やアシュラ信仰をイスラエルに持ち込みました。
このアハブとイゼベルは、先祖アブラハム、イサク、ヤコブの生ける真の神から、偶像の神々へと民を導き、生ける神の預言者たちを、迫害し、殺しました。
- 預言者エリヤ
このような時代に、あらわれたのが、預言者エリヤでした。聖書の記述からは、エリヤがティシュベの出であること以外、その出生や背景が判っていません。
エリヤは突如、イスラエルの王と民にあらわれ、「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」
と宣言し、人々の前から姿を消してしまいました。
多分、イスラエルの王も民も「傍若無人なあいつは一体誰だ。」と、最初思ったに違いありません。しかし、その言葉どおり、一年が過ぎて、全く雨が降らず、人々は「天候について左右することが出来る言動をした奴は、どこへ行ったのだ。」と思いはじめたことでしょう。さらに、次の年が過ぎても雨の降らない状態が続き、事態が深刻になるにつれて、人々は、「わたしの言葉によらなければ、露も雨も降らない。」と言ったエリヤを探しはじめ、エリヤが見つからないという報告が王のもとへ届いたとき、「奴を殺せ。」という命令を出して、見つけることのできなかった人々を死刑に処してしまいました。3年目になると、事態は一層深刻となり、王は国中を二手に分け一方を自らが指揮し、他方をオバデヤに指揮させ捜索隊を出してエリヤを探しました。
エリヤは、オバデヤのもとにあらわれ「行って、アハブに『エリヤがここにいます。』と言いなさい。」と告げました。オバデヤはエリヤに、 私があなたから離れて行っている間に、主の霊はあなたを私の知らない所に連れて行くでしょう。私はアハブに知らせに行きますが、彼があなたを見つけることができないなら、アハブ王は私を殺すでしょう。しもべは子どものころから主を恐れています。
あなたは、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつほら穴に隠し、パンと水で彼らを養いました。
今、あなたは『行って、エリヤがここにいる、とあなたの主人に言え。』と言われます。アハブは私を殺すでしょう。」と答えました。
エリヤがアハブの前に出て会う約束をしたので、オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来ました。
- カルメル山の対決
アハブはエリヤを見るや、エリヤに、「おまえが、イスラエルを煩わす張本人か。」と言いましたが、エリヤはアハブに 「私がイスラエルを煩わす者ではなく、アハブとアハブの家がイスラエルを煩わし、現にあなたがたは主の命令を捨て、バアルのあとについているではないか。」と答えました。エリヤはカルメル山に、全イスラエルとイゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者とを集めることをアハブ王に求めました。
そこで、アハブはイスラエルのすべての人に使いをやり、預言者たちがカルメル山に集められました。
このとき、集められた四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者と、集まってきた多くの群衆の前でエリヤが言ったのが、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」という21節のエリヤのことばでした。
- 三つのグループ
このカルメル山に集まったのは、三つの異なった人々でした。
第一に、アハブ王とその配下の偶像神に仕える預言者たちに敢然とひとり立ち向かう神の預言者エリヤの存在があげられます。
神の預言者エリヤについては、ティシュベの出であること以外、その出生や背景が判っていません。
わたしたちにわかっているのは、エリヤが無骨で逞しい、らくだの毛皮の着物をまとい、人々に重厚な神のことばを告げる預言者であるということです。エリヤは、国が霊的な危機の状態にあるとき突如あらわれましたが、エリヤאֵלִיָה אֵלִיָהוּ'Eliyah (ay-lee-yaw') (or prolonged tEliyahuw {ay-lee-yaw'-hoo})という名前は、ヤーウェはわが神、という 名前自体が重要な意味を持っています。
第二には、バアルとアシュラの偶像神の預言者たちです。
カルメル山には、四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者が集められましたが、彼らは、公に生けるイスラエルの神、ヤーウェの名を汚し、バアルとアシュラの淫らで不道徳な忌むべき偶像礼拝にイスラエルの民を引き込み、国家を堕落へと導いた人々でした。
彼らはあらゆる手段によって、道徳的な規範や、生きた聖なる神への信仰から人々を引き離すための努力を惜しみませんでした。
第三は、エリヤとバアル、アシュラの預言者の対決をみるために集まってきた多くの群衆たちでした。
エリヤは、この群衆に向けて、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」と叫んだのです。
このイスラエルの群衆は、もともと神の選びの民として生ける先祖アブラハム、イサク、ヤコブの神であるヤーウェを知っていた人々でした。
しかし、この群衆は実際には全員がバアルやアシュラへの偶像礼拝も行っていました。
この群衆は、状況によって態度を変え、ヤーウェの神にも、バアル、アシュラの偶像神にも、どの神が自分にとって本当の神なのかということを心を決めて選び取ることをしていない移ろいやすい人々でした。
- 現代も存在する三つのグループ
現代、わたしたちは、この聖書のエリヤの頃からは何千年もの時を経た時代に生きています。
その時代の文化や、当時の中東の風習とは異なった世界に生きています。
時を経て、時代や風習は変化していますが人々は変わっていません。イエスキリストの完成された贖いによって、わたしたちがキリストのからだとされる今の時代にも、エリヤの時と同じように、三つの異なるグル-プが存在します。
第一は、エリヤと同じように、心を決めて、聖書の御言葉にあらわされる唯一の生きた主なる神に仕え、神のことばに信頼し、人生を委ね、神がその人の人生に用意される道を忍耐強く歩むことに心を決めている人々です。
第二は、生ける神の存在を真っ向から否定し、金銭、知識、権力、快楽を得ることが人生の目標であることを公言してはばかることなく、人権や言論の自由とか社会的寛容という大儀のもとに、あらゆる社会の道徳的規律を退廃させ、汚れた性やポルノ情報を社会に蔓延させ道徳的なものを否定しようとする人々です。
彼らは、創造者の存在や、善悪を決める絶対的な基準があることを否定し、教育や、倫理、道徳を破壊しようと組織的な活動をし、避妊や同性愛の権利といったことまで組織的に主張しようとする人々です。
彼らの意見や主張は、国家を道徳的退廃に導き、人々に悲惨な状況を招き、ユダ書にも述べられているように、「自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されている」(ユダ書1章13)人々です。
第三は、そのどちらでもない人々です。彼らは、クリスチヤン文化といわれる国々にあって全体の最も多勢を占めています。
彼らは、イエス・キリストの福音によって国家の存立に拘わる影響を受けており、ヤーウェの神(神の御名参照)の存在を認め、善悪の区別があると思っている人々です。大半の人々は、聖書のことばにどこか真理があり力があると思っていて教会の集まりに出てきます。けれどもこれらの人々は、目に見える金銭、知識、権力を得ることが大切と考え、毎日の目先の生活に心を捉われ、神のことばである聖書を自分にたいするものとして真剣に聞かず、人生の歩みを神に信頼して歩むことに心を決めていない人々です。
- どっちつかずの人々
彼らは、冷たくもなく、熱くもない人々です。
このような人々に対し、長老ヨハネに現れた栄光のイエス・キリストがラオデキアの教会にたいして言われているように、「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」と言われている人々です。
キリスト教国において、文化的にはクリスチヤンという人々の大半がこのグループの人々であり、彼らは、創造者である神の存在を信じると言いながら、自分の家や個人の生活では金銭、知識、権力を得ることにあくせくとし、自分の生活に直接的に影響を与えないところでは、社会に起こる出来事にたいして一応の善悪の評価を持っているにも拘わらず、自分の身近な問題になると、目先の自分を中心にした欲求を優先させ、生きた神のことばに心を留めず、それに自分の生活を当てはめて行動しようとしません。これらの人々は、自分の信仰について心を決めていない人々です。
真剣に神のことばに心を留め、それを行うことを心から決めていない人々によって、社会全体は退廃し不道徳なものへと変わってゆきます。
彼らはこの世の闇の力になんら低抗することなく、異邦の神々を容認し、それらの闇の力、支配に堅く立つこともせず、この世の退廃に手をこまねいているのです。このような人々に向かって、エリヤは、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」と叫んだのです。
- 社会を退廃させる影響力
社会、国家を退廃へと導くのは、生ける神の存在を真っ向から否定し、権力や金儲けのためにあらゆる手段を使い、人権や言論の自由とか社会的寛容という大義のもとに、あらゆる社会の道徳的規律を退廃させ、汚れた性やポルノ情報を社会に蔓延させ道徳的なものを否定しようとする人々です。
しかし、このような人々、あるいはその主張を支えているのは、どっちつかずのなまぬるい立場の人々です。
アルコール、麻薬などの中毒、娼婦や男娼が横行し、殺人が頻発する社会が、自分の欲望だけに捉われ、欲望の虜になり、そこから抜け出すことのできなくなった悲惨な結果、社会の道徳的規範がなくなるときの結末なのだということは、わたしたちも理解し、同意できることです。
ものごとには善いこと、悪いことがあり、自分勝手な欲望だけを優先させる社会が道徳的退廃と様々な悲惨な結果を引き起こしていることを認めている人々でも、金儲けや権力や知識を得ようとして手段を選ばなかったり、自分の家庭で、毎晩晩酌を欠かさなかったり、淫らなテレビ番組を見たり、ポルノ雑誌が家庭にあったりする場合があります。
彼らは、結局どっちつかずの立場に立っています。そのような人は、本人は、アルコールや麻薬の中毒や淫らな性関係に陥ることがないかもしれません。
ところが、そういった家庭における大人の偽善的行動によって、害毒のある刺激物に対する抵抗力や性的な誘惑に抵抗力や判断力を持たない子供たちが、不道徳なものに興味をそそられ、より強い影響を受けて、彼らが将来アルコールや麻薬中毒、性的な乱れに陥り、それらの行為が社会的に容認され、正当化され、道徳的規律そのものが崩れてゆく基盤となってゆくのです。
社会の道徳的規律を退廃させ、汚れを社会に蔓延させ道徳的なものを否定しようとする人々の主張を現実に支えるのは、多くの人々の聖いものと汚れたものを混ぜ合わせたどっちつかずの態度と毎日の行動です。
そして、このようなどっちつかずであることが、より大きな影響を周りの人々に与え、この世の汚れを社会に蔓延させ道徳的なものを否定しようとする人々を勢いづかせ、道徳を退廃させ、家庭を崩壊に、国家を破滅へと導いてゆく要因となるのです。
- 偶像に熱心に仕える
生ける神の存在を真っ向から否定し、金銭と権力を得ることに手段を選ばず、公に社会的道徳を退廃させ、殺人や同性愛や淫らな風俗を蔓延させることが、自由や寛容ということだと公言する、バアルやアシュラの預言者のような人々は、この世のあらゆる悪に妥協し、自分の欲望を満たすことが、自由で幸福をもたらすことだと本気で主張している人々です。
これらの人々は、自分の信じていることに、その内容の馬鹿馬鹿しさに拘わらず、主張を正当化するための努力を惜しみません。
彼らは人が本来与えられている良心を歪めることに躊躇することなく、悪を善と主張し、善を悪であると公言してはばかりません。
彼らのやりかた、主張の内容に賛成できるものは何もありませんが、彼らが多くの人々にその馬鹿げた主張を公言してはばからない大胆さと、熱心さとには感心させられることがあります。
彼らは、バアルやアシュラの預言者たちと同じく、自分たちの主張のために築いた祭壇の回りを踊り、自分の身体に傷をつけて血を流すことさえします。
- 真の神と偶像の神
すべての人が人生に情熱を傾け、その人生の目標となるものを求めて生きています。その人の人生にとって、一番生き甲斐となっているもの、金持ちになること、自分が有名になること、人に優って知識を得ること、権力を握ること、性的な満足を得ること、等など。それらは、その人が神と呼ばなくとも、彼の人生にとって神なのです。
バアルやアシュラの預言者たちは、バアルやアシュラを神としていました。バアル神は、金銭、知識、権力を象徴する偶像神であり、アシュラ神はセックスを象徴する偶像神でした。
偶像は人の人生に本当の喜び、平安、愛に満ちた関係を生み出しません。
バアルやアシュラの神は、本当に必要なとき、どんなにその祭壇の回りを踊り狂っても、身体を傷つけて自分の血を流しても、大声で叫び、求めても答えるということはありません。
真の生きた神だけが、わたしたちの人生の本当の必要に答えられ、危機や、孤独、悲しみを乗り越える希望を与え、どん底の状況からでもわたしたちを救うことの出来るかたです。
- 対決の結末
神の預言者エリヤはたった一人で四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者たちと対決をしました。
このとき、彼はただ一人でしたが生けるヤーウェの神に絶対の信頼をおいて、神が祈りに答え、しるしをあらわされ、雨を降らせられることを確信していました。
エリヤは、主の名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、みぞを掘り、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、
「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じました。ついで「それを二度せよ。」と言い、彼らは二度そうしてまた、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうしました。
水は祭壇の回りに流れ出し、みぞにも水を満たしました。
ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたの御言葉によって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」 と祈りました。
すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしました。
民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言いました。
この後、エリヤはカルメル山の頂上で、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめ、七たびくり返して祈ると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となりました。
- 心を決めて選び取る
どっちつかずの民は、この世の偶像神がわたしたちの必要には答えないということを、最後までいいあらわしませんでした。
このどっちつかずの民によって、イスラエルはバアルやアシュラの偶像神の影響をより大きなものとし、国家を衰退させ滅びを招きました。
彼らは心を決めず、生ける神が「主こそ神です。」ということを知っていても状況によってそのことを言い表さず、アハブが王として権力を持っているときには、バアルやアシュラの偶像神を祀る儀式に参拝しました。
変わることのない神のことば、聖書をとおして、創造者である永遠の神が、わたしたちを愛され、イエス・キリストの十字架の贖いをとおして交わりを回復されるという恵みを、心を決めて受け取り、どっちつかずの民のようにではなく、常に変わる周りの人々や、状況にではなく、心を決めて神のことばに耳を傾け、イエス・キリストを人生の主として、信仰によって熱心に歩み続けるとき、神が祈りに答えられることを体験します。
心を決め、御言葉に信頼する人生の歩みは、周りにも素晴らしい影響を与えてゆくことができます。そして、本当の喜びと平安と愛に満ちた人生を歩むことができるでしょう。
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