(あなたの神)ヤーウェとは一体何者か。

*(出エジプト記5章1-2)

 

モーセとアロンが、エジプトの王パロに、「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」と告げたとき、パロは、「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」と答えました。

エジプト人は、すべてのものに神が宿っていると信じ、神と世界は本質的に同じで自然界におけるすべてを神とみなしていました。そして、太陽が様々な神々のなかで主な神であり、エジプトの王パロはこの地上において太陽神を体現する者と考えられ、人々の崇拝の対象でした。  
人々は月や風、星、宇宙、ナイル河やすべての生き物に神の霊が宿ると考え、崇拝の対象としました。彼らにとって、ハエやぶよでさえも崇拝の対象となりました。カエルまでも神として崇められ、ほとんど存在するすべてのものが崇拝の対象になりました。

人々がこのような信仰を持っているなかで、モーセとアロンは、「イスラエルの神ヤーウェ、主が『わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』と言われました。」と告げたとき、パロは「わたしは、ヤーウェなど知らない。一体、主、ヤーウェとは何者か。どうしてわたしがその言うことを聞いてイスラエルの民を去らせなければならないのか。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」 と、答えました。
このエジプトの王、パロの「ヤーウェとは一体何者か。」という疑問は、主なる神ヤーウェ自身によって答えられてゆくことになります。


宇宙とそのなかにある全てを創造され、生ける唯一の神であるヤーウェのみが真の神であり、その他の神々はみな偽りの神々です。
エジプトには多くの神々があり、人々はそれら様々な神々を拝みました。しかし、これらは本当の神ではありません。これらの神々は生きておらず、太陽も月も星も生きた神ではありません。
主なるヤーウェのみがはじめから存在し、生ける唯一の永遠の方であり、天と地とそのうちにあるすべてを創造された方です。
この方が、エジプトの王パロに告げられたのですが、パロはこの唯一の神に対して自らが無知であることを言い表し、神に従う意志を持ちませんでした。

エジプト人たちは、自然の圧倒的な力を見て、創られた自然を崇拝しました。太陽の持つ圧倒的なエネルギーを見、太陽を神としました。

自然の持つ様々な様相と、自然界に見られる様々な生命を見て、それらすべてを崇拝の対象としました。
エジプト人は、現代にいたるまで多くの人々が犯していると同様の誤りをおかしていました。
彼らは、創造者を拝むことより、創造されたもの、被造物を拝んだのです。人が造られた自然を見て、「あー、これこそ神だ。」と言って、その自然を拝むことは、非合理なことです。


自然の力、創造された様々な生命、その繊細なデザイン、素晴らしさを見るとき、わたしたちは造られたそれらのものを拝むのではなく、それらのすべてを創造された神を拝むことが合理的なことです。
バラの美しい色や、花弁の微妙なデザインに感嘆して、バラの芳しい匂いを嗅ぎ、「あー、これは神だ。」と言うのは馬鹿げています。
被造物、造られた自然を拝むのは、これと同じ馬鹿げた誤りです。
バラは神ではありません。バラは神の創造であり、その色の美しさやデザインの繊細さをめでるとき、バラを拝むのではなく、バラを創造された神を崇めるのです。
人々は常にこれと同じ誤り、間違いをします。
人は目に見える圧倒的なもの、美しいものを見るとき、それらのすべてを創造された方を拝まないで、その目に見えるもの、触ることのできるもの、感じることのできるものを拝むのです。
人は創造者を拝むよりも、創造されたもの、被造物を拝むのです。

使途パウロは、このことによって、「人々が自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えて、神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えるようになってしまった。(ロマ書1章23-25参照)」と言っています。

エジプト人たちは、まさにこの愚かな誤りを犯していました。パロは、これらの偽りの神々、想像によって人が勝手に作り上げた意思や、目的のなかで生きていましたが本当の生きた神については全く無知でした。
パロは、「ヤーウェとは一体何者だ。わたしが何故そんな神に従わなければならないのか。」と言っています。本当の力ある、すべてを知られ、永遠の愛の方である神についてパロは全く無知であることを、ここで明言しています。


エジプト人の宗教観、礼拝は、魔術や呪術といったオカルトに深くかかわっていました。これらのオカルトは悪魔的な神秘と共通しており、現代においても魔法とか、白魔術、魔術的な秘蹟といったものを究めようとすると、それはエジプトの魔術に行き着くのです。
エジプトにおいて、魔術や呪術、占いといったものが発祥し、発展し、彼らはそれらの様々な魔術に非常に長けていました。古代エジプトにおいて発展し、書き残されている魔術についての書物は、今日でもその類のものの原典や奥義とされており、人を驚かすような現象を開発しました。


モーセとアロンがパロの前に出て、パロが彼らに「不思議を行って証拠を示せ。」と言ったとき、モーセはアロンに「あなたの杖をとって、パロの前に投げよ。」と言い、その杖は蛇になりました。
パロの魔術師、呪術師たちも秘術を使って杖を投げると、それは蛇になりました。
アロンの投げた杖と魔術師の投げた杖はともに蛇になりましたが、アロンの蛇となった杖は、魔術師の蛇となった杖を飲み込んでしまい、蛇を取ると再び杖になりました。
さらに、モーセが蛇となった杖でナイルの水を打つと、水は血に変わり、ナイルの魚は死に河は臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなりました。
パロの魔術師も彼らの秘術を使って同じことをしました。
そして、今度はアロンが杖を川の上、流れの上、池の上に差し伸ばすと、カエルが群がってエジプト人の家に寝室に、寝台に、家中にかまどのなかにもこね鉢のなかに入り込んできました。魔術師たちも同じことをしました。
パロの魔術師、呪術師はモーセとアロンが地のちりを打ち、塵からぶよが全土に満ちるまでは、同じことをすることが出来ました。

いのちのないものからいのちを生み出すことは魔術師や呪術師たちも真似ができなかったのです。
彼らは、魔術や呪術の秘をつくして神のわざを真似することができましたが、いのちを生み出すことについては「これは神の指です。」と言って自分たちにはできないことを告白しました。彼らはまやかしによって彼らの秘術を使い、彼らの神々を人々が拝むようにしむけていました。
「ヤーウェとは一体何者だ。どうしてわたしが従わなければならないのか。わたしは、イスラエルの民を行かせない。」と言ったパロのことばにたいして、神は彼らの拝んでいる神々をとおし、災いを下すことで、エジプト人とパロとに答えられています。
ヤーウェの神はすべての命の創造者です。神はいのちのないものからいのちを創造することのお出来になるかたです。ちりがぶよに変わり、そのぶよがエジプト全土で人や獣についてエジプト人の災いとなりました。
神は、その民と神の民でない者を分けることがおできになります。災いはエジプト人のすべてに臨みましたが、イスラエルの民には及びませんでした。
暗闇はエジプト全土を覆いましたがイスラエルの民の家には光がありました。エジプトの民のすべてにあぶが入ってきて、地はあぶの群れによって荒れ果てましたが、イスラエルの民の住むゴシエンにはあぶの群れがいませんでした。すべての災いのなかにも、神はイスラエルの民を分けられました。


モーセは、パロのところへ来て「もしあなたがイスラエルの民を行かせないなら、主の手によってエジプトの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に激しい疫病が起こる、又、今までになかったきわめて激しい雹を降らせる。」という警告をしました。
パロはこの警告を無視し、これによって、エジプトの家畜はことごとく死に大きな被害がもたらされましたが、イスラエル人の家畜は一頭も死にませんでした。
神はすべての災害をとおしてパロがヤーウェのような神が他のどこにもいないことを知るようになるために、災害を送られると言われています。
エジプトに雹が降ることを告げられたとき、雹など経験したことも見たこともなかったエジプトの民はそのことを信じることが出来ず、野にあるすべてを避難させませんでした。激しい雹が火とともに降ってきて家へ連れ戻すことをしなかった人や獣は死んでしまいました。
神の雷と雹が激しく降って人をはじめ獣にいたるまで野にいるすべてのものが打たれ野の草も木も打たれ砕かれてゆくのをみて、パロはモーセとアロンを呼び寄せ「今度は、わたしは罪を犯した。主は正しく、わたしとわたしの民は悪い。この雷と雹をとめてくれ。」と、頼みました。
モーセはこのときパロに「雷がやみ雹が降らなくなるとき、あなたは、あなたが何者かと言われたヤーウェ、主なる神が雷を打たれ、雹を地に降らせ、それを止められる方であることを知り、地が主のものであることを知るでしょう。」と言いました。
パロは、ヤーウェがどのような方であり、従うべき主であることを知りはじめました。パロは、災害が止むと再び心を頑なにし、彼とその家臣たちは強情になりましたが、いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の残したすべてを食い尽くしたとき、「わたしは、おまえたちの神、ヤーウェとおまえたちとに対して罪を犯した。」と叫びました。


「ヤーウェとは一体何者だ。どうしてわたしが従わなければならないのか。」という台詞は、今日でも多くの人たちが吐いていることばです。
多くの人が「聖書は、神のことばであり、それに従うのが当然だ。」というと、「何故、わたしが聖書のことばに従わなければならないのか。神、ヤーウェとは一体何者か。」と、反論するのです。
「神のことばである聖書が、言っている。」と、言っても、それらの人々は「何故、わたしがあなたの言う神に従わなければならないのだ。主なる神、ヤーウェなど知らない。ヤーウェとは一体何者か。」とパロがモーセに言ったと同じことをうそぶき、自分に様々な災害や災難が降りかかってくると、何故神は自分にそのような災いを及ぼすのか、とパロが経験したと同様の経験をするのです。


聖書のことばは、はっきりと不道徳なことや神の秩序から外れることに警告を与えています。たとえば、同性愛や獣姦、性的不品行、姦淫について、これらのことを行う者が滅びにいたることを警告しています。
聖書は、性欲は、自分自身の快楽のためだけに使われる玩具ではなく、男と女が、生涯を共に誓い合い、互いが愛を表現するための最高の形態として、その実である子孫をとおし、人類が繁栄し、永続してゆくために神が与えられたのだ、と言っています。それは、人類の永続と繁栄のために一人の男と一人の女の互いの貞操と助け合いという結婚の絆のなかで与えられた強力な、神からの賜物です。
同性愛は滅びにいたる罪であり、獣姦も神の摂理から外れています。そして、性的な不道徳も同様に悲惨な結果をもたらす罪なのです。


ある愚かでよこしまな輩が、「一体神とは何者だ。神など知らない。」とパロがうそぶいたと同様の態度でアフリカで猿との獣姦を行いました。
神は猿にヒト免疫不全ウイルスがあり、そのウイルスが人体の免疫力を破壊することをご存知でした。今日エイズと呼ばれる伝染性の死に至る疫病にたいする警告を神は前からされておられました。

最近の研究では、このエイズの症例が同性愛者に多く見られることから、同性愛者が猿との獣姦によってこのウイルスに感染したのか、同性愛者に免疫不全ウイルスが先に発症していたのかはっきりしていませんが、同性愛者、麻薬常習者に多くの感染者が見られます。
明らかに、この病原体を持った人が同性愛行為や通常の性行為とは異なる異常な性行為によってこのウイルスが拡がったことは間違いありません。
いまでは、この病原体を持った血液が輸血されたり、不道徳な男女間の性行為によってもウイルスは世界中に拡散し、汚れた血をとおしてこの病原体ウイルスに犯され、性行為による感染以外にも血液感染や、母子感染、さらに、日本では薬害エイズとして知られる感染があり、世界中のあらゆる地域で、この疫病に感染する危険にさらされるような状況となっています。
このウイルスが感染性のものである以上、感染者は一定の隔離が必要ですが、実際には、たとえばベルリンの娼婦たちの50%以上がエイズウイルスの感染者であるとされ、米国で兵役に就く若い男性が娼婦との性交渉によってこの病原ウイルスに感染し、帰国した男性が自分の妻との性交渉によって、今度は妻が知らずに感染するということが実際におこっています。
このように、感染は確実に拡がっており、知られている症例は氷山の一角にしか過ぎません。このような問題の発端は、人の「神とは一体何者なのだ。わたしは、神などに従わない。という態度にあります。神は人が滅びに至り、疫病の蔓延するようなことを罪として禁じておられ、そのような行為に対する警告を与えておられます。
わたしたちが「神など知らない。神にわたしが従う必要がどうしてあるのか。神になど従わない。わたしは、わたしの欲求のままに人生を送り、わたしの性欲を満たすために性行為を行い、神など知らない。」と言うとき、突然の疫病や災厄をとおして神を知ることになるのです。


そのようなことを聞くと、「それでは、同性愛者を差別し、同性愛を罰し、滅ぼそうというのか。」というように人々は神に対して疑問を投げかけます。

神は同性愛者をも愛しておられます。神は彼らを神の罰、裁きの対象としているのではなく、神が人を滅びや悲惨な状態に至らせないための神の警告と秩序を無視し続けるとき、当然の帰結として、神と神のことばを無視し続ける者が受ける結果、災いを自らの身に招くと言われているのです。                    
神の律法は人が本当に豊かで祝福された人生を送るためのものであって、善いことからあなたを制限するためのものではありません。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。(詩篇1編)」という言葉には誤りがありません。             

神の律法は善いものであり、人がそれによって益を得るためのものです。
もし、あなたが「神とは一体何者だ。どうしてわたしが神に従わねばならないのだ。」と言い続け、神の秩序と律法を無視し続けるとき、あなたは、パロと同じように自分の身に災いを招き、神の律法を破ることによる当然の結果を招き、その災いをとおして神がどのような方かを知り、避けることのできない悲惨な結果や災いをとおして神の秩序を知らされることになるのです。


神は永遠の滅びに至る場所の存在を知っておられます。この場所はサタンの欺きに同意し、そのことを選び続ける者に用意された場所です。罪の報酬は死であり、その後に裁かれることが定められています。            
神は、あなたが滅びにいたることを決して望んではおられません。慈愛に満ちた神は、あなたのことを心に懸け、あなたの最良を望んでおられます。
真の生ける神を知り、神との関係のなかで共に歩むことほど人生を豊かにし、充実したものとすることは他にありません。神は永遠であり、生きておられ、わたしたちを愛しておられ、深い関係のなかで神の喜びと力と祝福と善を受け取ることを望まれています。
      
そのために、神は御子をこの世に送られ、「一体神とは何者だ。わたしは神など知らない、わたしは神に従わない。」というときに起こるすべての災厄をご自身の身に代わりに負ってくださいました。

神はわたしたちが誰一人滅びることなく永遠のいのちを得るために、わたしたちが悔い改め、御子を信じることを望まれておられます。


パロは、頑なに災いを招くものを神々とし続け、強い御腕をもってご自身をあらわされるヤーウェを一体何者だ、といって自分の身に滅びを招きました。
あなたは本当に唯一の神、天と地とそのなかにあるすべてを創造され、全能の方、主として強い御腕をもって臨まれる方、わたしたちに最善を望まれ、不従順とそれによる当然の帰結と滅びからわたしたちを救われ、贖われる方、わたしたちを解放され本当の自由をもたらされる方、ヤーウェの神を知っているでしょうか。



 
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