過ぎ越しの子羊

(出エジプト記12章3-8、12、13)

聖書が約1500年の期間にわたって異なった人々によって記されたにも拘わらず、そのすべての記述が一貫して、生ける神がどのような方か、神が人を神の子羊イエス・キリストの流された血の贖いによって罪の裁きから解放され、それを信じる人々に希望に満ちた約束が述べられていることに驚かされます。


出エジプト記7章から10章には、「ヤーゥエの神とは一体何者か。わたしは主を知らない。」と言ったエジプトの王パロに対し、エジプトの王や民が神々として崇めるものによって災いがもたらされたことが記されています。
エジプトの王は、様々な災いにも拘わらず、生ける神を拒否し続け、神の民を虐げ、神の警告に心を頑なにし続けました。
神は、このパロに最後の裁きの宣告をされました。
それは、「エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。」というものでした。
神がエジプト全土に下される裁き、災いからイスラエルの民が守られるために、告げられたモーセのことばが上記の聖書の箇所です。


興味深いことは、二本の門柱と鴨居に子羊の犠牲の血が塗られたイスラエルの民の家は、死の使いが通り過ぎ、エジプトの民に対する神の裁きから免れることができるということです。

犠牲の子羊の流す血が、裁きから守られるしるしということが宣言されています。

神は、エジプトで奴隷として苦役にあえぐイスラエルの民を顧みられ、民をエジプトから解放するためモーセを召命し、モーセはエジプトの王パロに神のことばを告げました。
パロは、「ヤーゥエの神とは一体何者か。わたしは主を知らない。」と言ってモーセの申し出を頑なに拒否し、生ける神を否定し続け、このために、神は、エジプトの偶像の神々を使って災いをもたらされました。
心を頑なにするパロの家に死が訪れ、エジプトの民のすべてに死の災いがもたらされる宣告がされましたが、そのようなときも、子羊の犠牲の血によって、イスラエルの民が死の使いの訪れから免れ、エジプトから解放されるというのがこの箇所の出来事です。

モーセが子羊の血を家の門柱と鴨居に塗ることによってイスラエルの民が神の裁きから守られることを告げたとき、彼らにとっては、犠牲の子羊の血を家の鴨居に塗ることが何故、災害から守られるしるしなのか理解できなかったことでしょう。
この時にもイスラエルの民は、神のことばがそのとおりに実現するということを、信じるという選びをしなければなりませんでした。


旧約聖書におけるイスラエルの民の歴史とその記述は、わたしたちへの個人的な信仰生活の教訓であるばかりでなく、これから人類に起こることのタイプ、警告ともなっています。
このことを、使途パウロは、「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。
また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(第一コリント書10章1-11)と、説明しています。


出エジプト記全体が、罪からの解放、贖いの歴史のタイプとなっており、神の選びの民、イスラエルはイエス・キリストのからだである教会のタイプ、民を虐げるエジプトの王はサタンのタイプとなっています。エジプトは、生ける神々を否定し偶像の神々を拝むこの世のタイプであり、奴隷ということが罪の縄目に縛られていることのタイプ、災いは神の罪にたいする裁きのタイプであり、過ぎ越しの子羊はイエス・キリストの十字架の贖いのタイプです。

キリストがバプテスマのヨハネの前にあらわれたとき、ヨハネは、イエスを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。 」(ヨハネ1章29)と、呼んでいます。


過ぎ越しの子羊は、この月の十日に用意されることが決められていますが、世の罪を取り除く 神の御子イエスは、同じ月の十日に、「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」(ザカリヤ書9章9)と、ザカリヤの預言で預言されたように、群衆の「主よ、どうぞわれらをお救いください。主よ、どうぞわれらを栄えさせてください。」(詩篇118編22-27参照)という歓呼に迎えられてエルサレムに入城され、公にご自身が救い主であることをあらわされました。
過ぎ越しの子羊は、イスラエルの父祖の家に用意され、その四日後に犠牲として殺され家の門柱と鴨居にその血が塗られ、死の使いが過ぎ越すしるしとなりました。
神の子羊であるイエスも、イスラエルの民に公にあらわされた後で、その4日後に、イスラエルの指導者たちによって、十字架に架かられました。
この十字架についての預言も、イザヤ書に「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。 」(イザヤ書53章3-8)と、記されています。


このように、聖書全体の記述と、そこから描き出されるタイプをとおして、神がわたしたちを救われ、イエスが世の罪を取り除く神の子羊として罪の贖いとなられ、裁きからわたしたちが逃れる道となってくださったことがわかります。
使途パウロがコロサイ人へ宛てた手紙にも、旧約聖書をとおしてイスラエルの民に決められた、祭りや新月や安息日などのすべてが、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのだ、と述べています。(コロサイ書2章16-19参照)


神は忍耐と寛容に富んだ方です。エジプトの王パロは、長いあいだイスラエルの民を虐げ、エジプトの民は自分たちが勝手につくりだした神々を崇拝しました。そのあいだ、少なくともエジプトは繁栄を誇っているように見え、神のことばを無視し、イスラエルの民を自分たちのために労役に使うことに何ら抵抗も問題もありませんでした。彼らは、神を無視し続けても神の裁きなどないとさえ思ったことでしょう。
神は愛の方であり、エジプトに対しても、モーセをとおし再三警告をされ、神の警告を拒否するとき、圧倒的な神の力によって彼らが拝んでいたものが災いにしかならないことを宣告され、それを体験しました。それでも頑なに神を拒否する人々に死の使いが訪れ、裁きが下るという最後通告がされました。
神は生きた方です。生ける神を拒否し、いつまでも神の警告に心を頑なにし続けていると、必ず死と滅びが訪れます。
神の裁きは峻厳で変わることなく、神を拒否し続ける者を見過ごしにされることは絶対ありません。
神が、サタンとこの世に最後の裁きをされ、神を拒否し続ける者に永遠の死と滅びが訪れる時が近づいています。
しかし、恵みにとあわれみに満ちた神は、裁きから守られる道をも用意していてくださいます。
神は、神の子羊の流された血が自分の罪の裁きにたいするものであることを信じる者に、その裁きを過ぎ越してくださいます。

わたしたちが、世の罪を取り除く神の子羊の流された血を、わたしたち自身のものとし、裁きを過ぎ越してくださる解放と希望の約束に人生を歩むことができるのは、神の恵みです。
遅すぎることのないように、神の子羊イエス・キリストの流された血がわたしたち自身の神にたいする罪の代価であることを認め、神の素晴らしい約束を手に入れましょう。 



 
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