御子にあって歩む人生

(伝道の書9章2-3、12章13-14)


伝道の書は、エルサレムの王、ダビデの子、伝道者の言葉、と記されているように、イスラエル統一王国のダビデ王の後を継いで、エルサレムで王座に座り、イスラエル統一王国における空前の繁栄を享受した王、ソロモンが晩年に残したことばとされています。

ソロモンは、父ダビデから王位を継ぎ、知恵と富と財宝と誉れとを神から与えられイスラエル王国の王として比類のない栄華を享受しました。

しかし、ソロモンは晩年になって偶像の神々に心を向け、神から離れ、神からの怒りを招き、王国の分裂をもたらしました。

このことについて、列王記は次のように述べています。
「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。
ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。
こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。
当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。
彼は外国人の自分のすべての妻のためにも、同じようなことをしたので、彼女たちは自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。
主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現われ、
このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。
それゆえ、主はソロモンに仰せられた。『あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。』」(列王記上11章4-11)

ソロモンは、人として考えられる日の下の知恵、富、栄誉、建造物、快楽のすべてを追求し、それをすべて手に入れました。
しかし、この世で得られる知恵、富、栄華、建造物、快楽のすべてを追求し、それを得た後で達した結論は、空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。と、いうものでした。

そして、ソロモンは、この箇所で述べているように、人生は正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも死が訪れ、知恵のある者も愚かな者も、富んだ者も貧しい者も同様に死から逃れることは出来ない、と述べています。

神から離れた知恵は、それがどんなに優れたものであっても、この世での人生の労苦は所詮は虚しく、無に帰してしまうという結論に至ります。

この伝道の書のソロモンのように、目で見、肉の快楽を味わい、この世の奢りによって心を楽しませる、という面だけから人生の喜びを追求するときに、それらは最終的には死と滅びによって虚しいものへと帰してゆきます。


人の知恵によっては、ソロモンが言うように、誰も死から逃れることが出来ない、という事実を覆(くつがえす)ことはできません。

しかし、イエスは、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ福音書11章25-26)と、言われています。

イエスを信じる者は、生と死の境界に立ちこの世を去って行くとき、栄光に満ちたイエスに迎えられ神が用意してくださる永遠に朽ちない住まいを着ることになります。

ラザロが病気のために死んだときも、イエスは、ラザロは眠っていると言われました。
(ヨハネ福音書11章1-44 参照)
通常、人々は肉体の滅びを死と呼んでいます。
しかし、肉体が滅びても、イエスがいのちであり、イエスを信じる者にとっては、それは死ではありません。
肉体は滅びても魂は肉体を離れるだけであって、それで終わりではないからです。

わたしたちの肉体は、永遠に続くものではなく、一時的なものです。イエスがよみがえりであり、いのちであり、イエスを信じる者にとっては一時的な幕屋(テント)である肉体が滅びるとき、神が用意してくださる永遠に朽ちない住まいを着ることになるのです。(第二コリント5章1-10)

人の本質は、その人の魂であって、肉体ではありません。
もし、イエスがよみがえりであり、いのちであり、わたしたちを贖う方であることを信じるなら、死によって人生のすべてが空しさの彼方に帰し、すべてが終わり、何も残らないということにはなりません。

イエスがよみがえりであり、いのちであり、わたしたちを贖う方であることを信じるということは、死後も、復活による永遠の命の希望が確実であることを意味しています。

人の人生は、この肉体にあって行ったすべてが記録され、神に知られ、その人生のすべてが神の裁きの対象となります。

目で見、肉の快楽を味わい、この世の奢りによって心を楽しませる、(第一ヨハネの手紙2章16 参照)という面だけから人生の喜びを追求し、人生の成功を求めることは、すべて肉の行いによるものです。

しかし、肉の行ないは明白であって、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものでしかありません。そして、このようなものは、決して神の国を相続するものではないのです。(ガラテヤ書5章19-21 参照)

わたしたちは、イエスにあって神との交わりのうちに、この肉体にある人生を歩むとき、はじめて物質的、肉の思いによる満足感のみによっては得ることのできない、深い魂の霊的な喜びに満たされた人生を送ることができます。

信仰によって、神のことばに信頼し人生を歩む人に、神はご自身をあらわし、神ご自身が、そのあかしをしてくださいます。 

「 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(第一ヨハネの手紙5章11-12)

神は、わたしたちが、この世で得られる知恵、富、栄華、建造物、快楽を追求し、それらを得、成功することを目的としてわたしたちが人生を送ることを意図されていません。

神は、わたしたちが、御子を信じる信仰によって神との交わりを持つ人生を送り、平安と喜びに満たされ、愛の実を結ぶ人生を送ることを望まれています。それこそが、わたしたちの本当の人生の成功であり目標です。

御子イエス・キリストにあって歩む人生は、状況を超えた平安と、変わることのない深い喜び、神の霊にある心の一致によって豊かで愛に満ちた歩みを送ることの出来る人生です。
そして、キリストにある満ち溢れる人生のみならず、御座においてキリストが日々わたしたちのためにとりなしをされ、やがて、永遠の栄光に満ちた主なる神に栄光の姿をもってわたしたちがまみえ、神の国を継ぐことの出来る人生です。


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