日の下(この世)の人生

(伝道の書1章1-3)

伝道の書は、1章1節にも記されているように、エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者の言葉、と宣言されており、イスラエル統一王国のダビデ王の後を継いで、エルサレムで王座に座り、イスラエル統一王国における空前の繁栄を享受した王、ソロモンの晩年のことばとされています。

ソロモンは、父ダビデから王位を継ぐにあたり、神がソロモンに現れ、「あなたに何を与えようか。願え。」と彼に仰せられたとき「あなたは、地のちりのようにおびただしい民の上に、私を王とされました。そこで今、知恵と知識を私に下さい。そうすれば、私はこの民の前に出はいりいたします。さもなければ、だれに、この大いなる、あなたの民をさばくことができましょうか。」と答えました。

ソロモンの願いが富、財宝、誉れ、ソロモンを憎む者たちのいのち、さらに長寿をも求めず、むしろ、神の民をさばくことができるように、知恵と知識を求めたので、神は「その知恵と知識とはあなたのものとなった。そのうえ、私はあなたの前の、また後の王たちにもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよう。」と言われ、神のことばのとおり、ソロモンは、イスラエル王国の王として比類のない栄華を享受しました。


ソロモンの栄華について、シェバの女王が、非常に大ぜいの有力者たちを率い、らくだにバルサム油と、非常に多くの金および宝石を載せて、エルサレムにやって来たときの様子を、聖書は次のように述べています。

「シェバの女王は、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、その食卓の料理、列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たち、および、彼が主の宮でささげた全焼のいけにえを見て、息も止まるばかりであった。

彼女は百二十タラントの金と、非常にたくさんのバルサム油と宝石とを王に贈った。シェバの女王がソロモン王に贈ったほどに多くのバルサム油は、二度とはいって来なかった。
オフィルから金を積んで来たヒラムの船団も、非常に多くのびゃくだんの木材と宝石とをオフィルから運んで来た。
王はこのびゃくだんの木材で、主の宮と王宮の柱を造り、歌うたいたちのために、立琴と十弦の琴を作った。今日まで、このようなびゃくだんの木材がはいって来たこともなく、だれもこのようなものを見たこともなかった。
ソロモン王は、その豊かさに相応したものをシェバの女王に与えたが、それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えた。彼女は、家来たちを連れて、自分の国へ戻って行った。

一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。
このほかに、交易商人から得たもの、貿易商人の商いで得たもの、アラビヤのすべての王たち、およびその地の総督たちからのものがあった。
ソロモン王は、延べ金で大盾二百を作り、その大盾一個に六百シェケルの金を使った。
また、延べ金で盾三百を作り、その盾一個に三ミナの金を使った。王はそれらを、レバノンの森の宮殿に置いた。

王は大きな象牙の王座を作り、これに純粋な金をかぶせた。
その王座には六つの段があり、王座の背には子牛の頭があり、座席の両側にひじかけがあり、そのひじかけのわきには二頭の雄獅子が立っていた。
また、十二頭の雄獅子が、六つの段の両側に立っていた。このような物は、どこの王国でも作られたためしがなかった。
ソロモン王が飲み物に用いる器はみな金であった。レバノンの森の宮殿にあった器物もすべて純金であって、銀の物はなかった。銀はソロモンの時代には、価値あるものとはみなされていなかった。
王は海に、ヒラムの船団のほか、タルシシュの船団を持っており、三年に一度、タルシシュの船団が金、銀、象牙、さる、くじゃくを運んで来たからである。

ソロモン王は、富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていた。
全世界の者は、神が彼の心に授けられた知恵を聞こうとして、ソロモンに謁見を求めた。
彼らはおのおの贈り物として、銀の器、金の器、衣服、武器、バルサム油、馬、騾馬などを、毎年きまって携えて来た。

ソロモンは戦車と騎兵を集めたが、戦車一千四百台、騎兵一万二千人が彼のもとに集まった。そこで、彼はこれらを戦車の町々に配置し、また、エルサレムの王のもとにも置いた。
王は銀をエルサレムで石のように用い、杉の木を低地のいちじく桑の木のように大量に用いた。
ソロモンの所有していた馬は、エジプトとケベの輸出品であった。それは王の御用達が代価を払って、ケベから手に入れたものであった。
エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。同様に、ヘテ人のすべての王も、アラムの王たちも、彼らの仲買で輸入した。」(列王上10章4、5,10-29)

時を超えてこれから起こるすべてをも知られる神は、王に対する警告をモーセをとおして与えられ、次のように言われました。
「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいって行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、『回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい。』と言うならあなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。『二度とこの道を帰ってはならない。』と主はあなたがたに言われた。(申命記17章14-16)

さらに、「多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。」(申命記17章17-20)

神が律法を与えられたのは、神の選びの民が、神との愛の関係を保ち、神の真実さに心を留め、神からの祝福を受けるための忠告であり、警告です。

神の警告は、しばしば、当たり前でつまらなく思え、わたしたちは、警告を侮ります。
しかし、人を創造された神は、人の心の内にあるすべてをご存知であり、人の弱さを知っておられ、これらの警告は無意味に語られてはいません。


神の「王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。」という警告にも拘らず、警告を侮り、ソロモンは自分の馬を多くふやし、多くの妻妾をもち、自分のために金銀を非常に多くふやしたことが記されています。

「一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。このほかに、交易商人から得たもの、貿易商人の商いで得たもの、アラビヤのすべての王たち、およびその地の総督たちからのものがあった。
ソロモン王は、延べ金で大盾二百を作り、その大盾一個に六百シェケルの金を使った。

ソロモンは戦車と騎兵を集めたが、戦車一千四百台、騎兵一万二千人が彼のもとに集まった。そこで、彼はこれらを戦車の町々に配置し、また、エルサレムの王のもとにも置いた。
王は銀をエルサレムで石のように用い、杉の木を低地のいちじく桑の木のように大量に用いた。

ソロモンの所有していた馬は、エジプトとケベの輸出品であった。それは王の御用達が代価を払って、ケベから手に入れたものであった。
エジプトから買い上げられ、輸入された戦車は銀六百、馬は銀百五十であった。同様に、ヘテ人のすべての王も、アラムの王たちも、彼らの仲買で輸入した。」(前出 列王記上10章14-29)

「ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。
この女たちは、主がかつてイスラエル人に、「あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。」と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。
彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。」(列王記上11章1-3)

神が警告を与えられるのは、神が、警告を無視し、破ることによって起こる悲惨な結末からわたしたちを守るためであり、このことには、誰にも例外はありません。神は、わたしたちのことを私たち自身以上に知っておられます。このことは、例え栄華を極めたソロモン王も例外ではありませんでした。

列王記の記述は続いて、年老いたソロモンが、心を偶像の神に向け神からの怒りを招いたことを次のように述べています。
「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。
ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。
こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。
当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。
彼は外国人の自分のすべての妻のためにも、同じようなことをしたので、彼女たちは自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。
主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現われ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。

それゆえ、主はソロモンに仰せられた。『あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。』」(列王記上11章4-11)

神の警告を侮る者は、その結果を必ず刈り取ることになります。


ソロモンは、人として考えられる日の下の知恵、富、栄誉、建造物、快楽のすべてを追求し、それを手に入れました。しかし、この世で得られる知恵、富、栄華、建造物、快楽のすべてを追求し、それを得た後で達した結論は、空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。と、いうものでした。

神から離れた人の知恵は、それがどんなに優れたもののように思えても、所詮は空しく、愚かな結論に至ります。 

どのように知識を増し、人の知恵によってこの世の物事を処し、快楽を追求しそれを得、酒を飲んで自分を元気づけ、偉大な建造物を造り、手に余る富と財宝を手に入れても、所詮は死によって自分のものとはなりません。 
時の経過と共にすべてが忘れ去られ、富める者の人生も貧しい者の人生も、賢い者の人生も愚かな者の人生も、どんなにこの世での苦労をしてもすべてが無に帰し、風を追うように虚しく、この世のことは、すべて空の空であるというソロモンの人生の結論は、わたしたちが、神から離れた人生を送るとき、同じような結論に至らざるを得ません。

わたしたちがこのような、虚しい人生に対して、生きる本当の喜び、汲めども尽きない泉の水のような満足を得ることが、果たして可能なのでしょうか。


ヨハネの福音書には、サマリヤの女がヤコブの井戸でイエスに出会ったときのことが記録されています。
この女は、ユダヤ人からの差別の対象であり、人生の充足感を異性との関係によって満たそうとしても満たされず五人も夫を替え、婚姻関係のない男と同棲をしているという状態の女でした。

人生の喜び、本当の心の渇きの癒しを異性との関係に求めようとしたこの女は、何度相手を変えても自分の心の虚しさを埋めることのできない人生を送っていたに違いありません。

状況こそ異なるものの、この女も人生は所詮、空の空であると結論づけたソロモンと同じように、この世の目に見えるもの、肉の快楽、他と比較して自分を誇ることによって心を満たすもの求めましたが、求めれば求めるほど本当の心の渇きを癒すものを見出すことができず、人生の虚しさを味わっていました。

神との関係から離れて人の知恵を追求し、快楽を追求し、酒を飲み自分を元気づけ、富と財宝によって贅を極めても心の虚しさを埋めることはできず、人生は空の空であり、所詮虚しいものとなります。

この女が、井戸へ水を汲みに来たとき、イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われ、
「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」という女の答えに「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と、言われました。

人は、罪を赦され、人を創造された神との交わりを回復し、生きた神に触れられるとき、肉体の渇きよりもっと深い魂の渇きを癒すことができます。

イエスが、生きた神であり、人の心のすべてを知られる方であることを直ぐに悟ることの出来なかったこの女は「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」と、喉の渇きを癒す水のことを思って挑戦的にイエスに言いました。

イエスが「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われ、女は「私には夫はありません。」と答えました。

イエスが、「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」と、 応えられた時、女は異性との関係によって満たそうと思っても満たされることのない自分の人生を指摘され、「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」と、イエスが只者ではないことに驚き、イエスの言われている水が単に喉の渇きを癒すだけの水ではなく、それ以上の水について言われていることに気付きました。
 
イエスが只者ではなく、イエスが預言者のようにわたしたちの心を見通される方だということに気付いても、わたしたちは、この女と同じように、自分の方法で宗教的になる場所を持っていることを主張し、イエスが創造者である神と一つの方である生ける神の子であることを認め、真の礼拝すべき対象となる方であることを素直に認めません。

わたしたちは、イエスという方によってのみ渇くことのない命の水を飲むことが出来るのです。

イエスは、女に「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と、言われました。

このとき、イエスが救いであり、聖書が預言しているメシヤであることを信じたこの女は、汲みにきた水がめを忘れるほどの喜びに満たされ、われを忘れて町の人々に、このことを告げに行きました。(ヨハネ福音書4章3-39参照)   

わたしたちは、イエスによってのみ神との関係を回復し、深い魂の渇きを癒すことができます。

わたしたちは、イエス・キリストを受け入れるとき与えられる、生きた神の霊、聖霊によって、人の知恵や、快楽、酒、富と財宝によっても埋めることのできない湧き出るような喜びを体験することができるのです。

わたしたちの心を、生きた神の御子イエスに向け、この方に信頼するとき、わたしたちの人生は決して虚しいものではなく、創造者である神を父と呼ぶことの出来る永遠の希望に満ちた人生に変えられます。


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