異火(ことび)

(レビ記9章22-24 、10章1-2)


すると主の栄光が民全体に現われ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏しました。


こうして、圧倒的な神の栄光に感動するイスラエルの全会衆は、この突然の悲劇に沈黙し、アロンは息子たちを失うという状況に直面しました。
この悲劇を招く要因となったナダブとアビフのささげようとした異なった火とは一体何だったのでしょう。
聖書は、直接にはこの異なった火が何であったのかについて具体的な説明はしていませんが、この前後の文脈から異なった火が何であったのかを推し量ることができます。


天地とそのなかにあるすべてを創造され、完全であり、聖なる神は、不義や罪と交わることがありません。聖なる神の圧倒的な栄光と義は、畏敬するべきものであって、不義や罪のある者、俗なる者が、聖なる神に近づくことはできません。
人は聖別されないで、神に近づくことは不可能です。

人が救われ、栄光の神の御前に立つことができるのは、罪のない神の御子キリストが流された犠牲の血が、わたしたちを罪から贖われたものだということを信じる信仰によって聖別される以外に道はありません。
キリストは、ゲッセマネの園で「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と、父なる神に祈られました。キリストが苦難の杯を飲まれる以外に、人が聖別され、栄光の神の御前に立つことは有り得ません。 

キリストは十字架の上で、詩篇のなかに預言されている苦難の僕の「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。」ことばどおりを言われましたが、この預言のことばは、「わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。」という、人が栄光の神の御前に立つことのできる希望に満ちたことばに続いてゆきます。(詩篇22編参照)
罪に捉われ、自分たちの努力や、人の誠実さによっては決して栄光の神の御前に立つことが不可能なわたしたちのために、キリストは罪のない犠牲の子羊として、贖いの代価となられ、わたしたちに天国への希望、聖別されて栄光の神の御前に立つことのできる道を開いてくださいました。

このレビ記が記されたモーセの時代は、天の御座を模した幕屋が造られ、多くの動物が殺され、犠牲の血が流されましたが、「キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル書9章11-12)

第二に、異なった火は、ナダブとアビフの行為そのものであることが考えられます。このアロンの二人の息子たちは、主の栄光にイスラエルの全会衆が感動し注目している最中に、自分たちが祭司としての重要な役割を、会衆の前にことさらに誇示しようとし、会衆の注目と感動を、神の栄光からナダブとアビフ自身へと向けてしまったことが考えられます。

祭司は、神の聖さと祝福を民に分かち、民の罪と弱さを祭司自身が代表して神にとりなすという、聖なる神と、民に仕える役目をもっていました。祭司の務めは、神にも民にも仕えるものであって、祭司自身に注目が集まるようなものであってはならないのです。

イエスは、あるとき弟子たちに、仕えることについて、「ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。
あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(ルカの福音書17章8-9)と言われています。        

使徒パウロも、神に仕え、福音を宣べ伝えることについて、「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。
もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」と、言っています。(第一コリント9章16-18)

第三に、異なった火は、ナダブとアビフが濃い酒を飲んで酔った状態であったことを指していることも考えられます。
何故なら、彼らが死んだ直後、主はアロンに告げて仰せられ、「会見の天幕にはいって行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、また、主がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。」(レビ記10章8-11)という言葉からも、ナダブとアビフは会見の幕屋に濃い酒を飲んで入ろうとし、聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものを区別しないで主に仕えようとした可能性があります。


この貪欲な犬どもは、足ることを知らない。彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分かってな道に向かい、ひとり残らず自分の利得に向かって行く。
「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」(イザヤ書56章11-12)

なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。(エレミア書6章13) 

神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。
あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。
弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。(エゼキエル書34章2-4)

そのかしらたちはわいろを取ってさばき、その祭司たちは代金を取って教え、その預言者たちは金を取って占いをする。しかもなお、彼らは主に寄りかかって、「主は私たちの中におられるではないか。わざわいは私たちの上にかかって来ない。」と言う。(ミカ書3章11) 

あなたがたのうちにさえ、あなたがたがわたしの祭壇に、いたずらに火を点ずることがないように、戸を閉じる人は、だれかいないのか。わたしは、あなたがたを喜ばない。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。(マラキ書1章10)

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。 (第一ペテロ5章2)
 
あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。(使徒書20章28-33)

神は、人々の罪のとりなしをする働きをし、祭司として仕えるものが異なった刺激や動機によって仕えることがあってはならないと、警告をされています。


使徒パウロはこのことについて、「 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」と、言っています。(第二コリント書5章14-15) 

神の恵みによる信仰によって救われるという福音を伝えることは、素晴らしい特権です。
主の栄光、恵み、愛に感動し、キリストの愛が強く迫るとき、わたしたちも、燃え尽きてしまう異なった火ではなく、聖霊の聖い火によって、はばかることなく恵みの御座に近づくことができます。



 
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