いのちは血にある

(レビ記17章10-12)

 

人が、神に近づくためには、生きた動物が犠牲となり血が流されなければなりませんでした。それが、神が用意された方法です。 
罪のある人が聖なる神に自分たちの勝手な方法で近づき死ぬことがないためでした。
聖なる神は、罪とは相容れない方です。罪のある人が、そのままで聖なる神に近づくことは決して出来ません。
モーセの律法では、大祭司は、年に一度の贖罪日に、白装束に着替え、30頭以上の牛や羊を犠牲のためのなだめの供え物としてほふり、血を携え、自分と民が知らずに犯した罪のために、聖所から至聖所の贖いのふたに近づき、その血を振りかけることが定めらました。


レビ記のこの箇所では、「肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。 」と、主なる神がモーセに宣言されています。

わたしたちは、人が亡くなったときなどに「あの人は、善い人だったから天国にきっと行ったことでしょう。」というようなことを、しばしば聞きます。

人は、心のどこかで、犠牲の血が流され、罪の贖いがされることなしに、神が人を受け入れる、天国へゆくことが出来ると思っていないでしょうか。

神は、人の善い性質や、善い行いによって、人を受け入れられるのではありません。「肉のいのちは血の中にある。いのちとして贖いをするのは血である。」という宣言がされていますが、わたしたちが血について見るとき、人のいのちを支えているものが血液であり、文字通り、血によって肉のいのちが支えられていることがわかります。

人間の体をつくっている細胞は、酸素と栄養分を取り込んで、一種の燃焼を起してエネルギーを発生させ、みずからを更新したり、増殖したりして生命を維持しています。この代謝活動のもとであ る酸素と栄養分を、全身の細胞に送り届ける役目をしているのが「血液」です。

聖書の宣言は、科学的な観察によって得られる結論とも一致しています。

聖書は必ずしも科学的な解説の書ではありませんが、聖書が科学的な事柄に触れているところでは、実際に客観的に観察することの出来る科学的な事実と常に、一致、調和をしています。


この人間の血液のことを調べると、人体に流れている血液は、様々な機能を持っ ていることが分かります。

以下の記述、http://blog.goo.ne.jp/goo1639/e/26c9b62d31a20e4401c587166a784c60及び医学書を参照

【1】輸送機能。 人の身体 には18万キロメートルもの血管が走り、幾千兆ともしれない体中の細胞にくまなく、エネルギー源となる必要な栄養素と酸素を送り届け、不要な老廃物と炭酸 ガス(二酸化炭素)とを回収し運び去ります。この血液中には、酸素を運ぶために膨大な数の赤血球が働いています。赤血球は直径7~8ミクロンにすぎません が、身体の赤血球をすべて一列に並べると、なんと地球をを4周以上も回るほどになります。
    赤血球の表面は薄い膜で包まれており、その中にヘモグロビン(血色素)という物質があります。つまり、新鮮な動脈血の赤い色は、鉄が酸化すると赤くなるのと基本的には同じに、酸素が少なくなると、静脈血の黒っぽい色になります。代謝によって生じる二酸化炭素は、静脈血の血漿に溶けたりヘモグロビンに捕らえられたりして、肺に運ばれるのです。血液中の二酸化炭素は、からだの酸性とアルカリ性のバランスを保ったりする上で重要な働きをしていて、動 脈血にも一定の量が溶け込んでいます。血中の二酸化炭素の一部は、肺内の毛細血管から呼気の中に排出されます。

  血液は体重の約12分の1~13分の1(7~8%)を占めます。血液はその45%が赤血球、白血球、血小板などの細胞成分で、残り約55%は液体成分である血漿(けっしょう)からなっていて、約一分間で全身をめぐっています。血液は一分間に約5リットル、 24時間に7,200リットルの速度で、地球の周りの2倍よりももっと長い距離の血管の中を流れています。その血液の流れは心臓のドキッ、ドキッという拍動によって行われています。それにもかかわらず、毛細血管の中では、全くなめらかな一様な流れとなっています。それは、心臓がドキッと打つと血管が広がり、打ち終わると血管が縮むようになっているからです。 

【2】自衛(防衛)機能。  人間の身体を細菌の感染から守るために、血液はさまざまな防衛機能を持っています。白血球には好中球やリンパ球など色々な種類があり、免疫に関する役目を果たしたり、 侵入してきた病原菌などを取り込んで殺したりする働きを担っています。これは、非常に複雑な仕組みとなっています。白血球の約30%はリンパ球が占めています。
また単球と言う血球も白血球の中に含まれ、骨髄や脾臓など一定の血管に定着して、老化した赤血球を解体したり、 病原菌を殺したりします。単球の中には一定の場所に定着しない種類もあり、血管を通り抜けて筋肉組織などへ移動し、 その場所でも侵入してきた外敵を撃退する仕事を受け持ちます。 また、殺菌物質を含んでいる顆粒球は、外敵を退治するはたらきをしています。侵入してきた病原菌などを取り込んで殺したりする働きを担っています。体の中のある部分に外傷ができて、その傷が汚れている場合などに細菌(病原体)が侵入を開始したとします。するとすぐにその場所に白血球が駆けつけます。白血球は、いつもは一立方ミリに、5.000~9.000個ぐらいですが、細菌が侵入すると、急に10.000ぐらいに増員されるのです。そして、この白血球が細菌を自分の体の中に取り入れて殺して行くのですが、この白血球と細菌との大混戦の結果が膿(うみ)なのです。傷からの病原体の進入直後に、全身へと広がることを防ぐために、白血球が集合して病原体を包囲します。これを専門用語で"炎症反応"と呼び、炎症反応には、発赤-赤くなる、疼痛-痛くなる、発熱-熱くなる、腫脹-腫れる、などの反応があります。 

【3】補修機能。  これは「血小板」の役目です。人間の血液の凝固と止血の仕組みは、血液の性質の中でも、もっとも神秘的であり、重要なものの一つであると言われています。 怪我などによって、血管が破れると、そこから血液が流出しますが、血管の傷口に血小板が集まって、相互に結合してかたまりとなり、白色の血栓を形成して傷口をふさぎ、続いて血液の凝固が起こる仕組みになっているのです。それは、血液中のフイブリノーゲンというたんぱく質が長い線維に変わり、急速に網を張り、その網に赤血球が取り込まれて、赤色のかさぶたがつくられ、出血が止まるのです。また、血小板は、血管などを修復し、補修する働きがあります。

【4】体温調節機能など。
人間の身体には、外気に関係なく、体温を一定に保つ機能が備わっていて、体温が上昇すると、皮膚の中に入り込んだ血管が拡張します。この結果、温度の高い大量の血液が身体の内部から体表に移動します。こうして、体表で放射熱によって温度が失われ、体温が低下するのです。寒い時には、これとはまったく逆の現象が起こります。つまり、体表の血管が縮まってできるだけ多くの熱を体内 にとどめるようにするのです。

このように、人の体は実に精巧に出来ていることを知らされます。
この血液の働きをはじめ、人が生きるために人体で行われている機能を知るとき、それが偶然の連続や、進化によっては、このように繊細で精密、神秘ともいえるはたらきを説明することには無理があると言わざるを得ません。

ダビデが詩篇に詠んだように、「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。」(詩篇138編14口語訳)というように、このような繊細で狂いのない人体のデザインについて、偶然の連続や進化論によって、どのような説明をするのでしょうか。


このように、肉のいのちが血にあることをみるとき、神が、なぜ何度も、血についての掟、戒めを与えられたのを知ることができます。

神は血を尊重することを要求されていますが、それは、神が、「いのちとして贖いをするのは血である。」と、宣言されているからです。

モーセの律法には「-‐‐を犯す者は、だれでも必ず殺さなければならない。」という言葉が繰り返され、罪の裁きが死であることが宣言されています。
すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、死に定められています。
この場合の死は、霊的な死、人はそのままでは、創造者である神を求めず、迷い出た状態のことを言っています。
聖書が言う死とは、創造者である神との交わり、関係が完全に断たれた状態のことです。

人は、人を創造された方、神を抜きにしては存在できません。それは、創造者である神が被造物をそのように創られたからです。

人は、被造物が神から離れたときに起こる虚無を埋めるために、人生においてあらゆることをして、自分の人生の意味を見出そうとしたり、あるいは、この世からそのような意味を見出すことができないで、アルコールや、薬や、肉体の快楽を求めようとしたり、別の自己を意識しようとしたりします。

神は、イスラエルの民が、罪の贖いの犠牲として生きた動物の血が流され、その血によって、神に近づくことができるよう、その方法をモーセの律法によって定められました。


わたしたちは、神の聖、神の義ということを、人の努力や、誠実さによって神の聖、神の義の基準に受け入れられ、過ちが見過ごされると誤解します。

人の努力や、誠実さは、たとえそれがどんなに真摯なものであり、他と比較すれば素晴らしいもののように思えても、それ自体は不完全で、神の聖、神の義の基準に達することが出来ません。
もし、人の努力、誠実さ、によって神の聖、神の義の基準に受け入れられることを望むなら、それは、神を人の基準に引き下げ、神が不完全であることを求めているということになります。

神は、完全に聖で、汚れのない方だということを本当に理解するとき、神が、どのような罪も受け入れられないのだということがわかります。

罪のない御子イエス・キリストが、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と、十字架の上で叫ばれたのは、神の聖と義は、罪とは相容れることがないからでした。

神は、父なる神とお一つの方である御子であっても、キリストが、わたしたちの身代わりとして、わたしたちの罪を負われたとき、どんな些細な罪をも見過ごすことは出来ませんでした。


このゆえに、神はいのちの贖いをするのは血であると言われ、わたしたちが完全に聖であり義である神に近づくことの出来るための用意をされました。

神は、罪のために死に定められたわたしたちが贖われ、完全に聖であり義である神との交わりを持つことが出来るためには、犠牲の血が流されなければならないと宣言されておられます。

人は、常にじぶんたちの方法で神に近づこう、神との交わりを自分のやりかたによって持とうとします。自分の義、自分の善を神に認めて欲しいと願います。

自分の思いが真摯で誠実であれば、神がそれを受け入れてくださることを願います。
しかし、神の目からは、わたしたちの義はみな、不潔なぼろ布のようなものだと宣言されています。(イザヤ書64章6参照)

神は、血が流されること、いのちの贖いは血にあると言われています。
レビ記における、年に一度定められた贖罪日が、後にもっと素晴らしい、わたしたちの大祭司、御子イエス・キリストがすべての人のために来られ、動物の犠牲の血ではなく、ご自身が犠牲の罪のためのなだめの供え物となられ、わたしたちを神に受け入れられるものとしてくださったことの型となっています。(ロマ書3章25参照)


御子イエス・キリストの十字架をとおして、神がわたしたちのための贖い、罪の束縛から代価を払って解放し、完成してくださったことを知ることができます。

御子をとおしてわたしたちに与えられている絶大な神の恵み、ことばに表わせないほどの賜物を、わたしたちは、どうしてないがしろにすることができるでしょう。 

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(第二コリント5章21)

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(第一ペテロの手紙1章18,19)

「この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 」(コロサイ書1章14)

人は、御子イエス・キリストの流された血によって、罪から清められます。
 


モーセの律法では、すべてのものは血によってきよめられ、また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはあり得ないと定められています。

イスラエルの民は、犠牲の動物の頭に手を置き、その動物が自分の代わりに殺され血を流し、大祭司が血を携え、犠牲の動物の血を至聖所の贖いのふたに振りかけられることによって、自分たちの知らずに犯した罪にたいする良心をそそぎ、神の前に自分たちを代表する大祭司が近づくことによって、自分たちの罪の贖いを期待しました。  

さらに、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにすることが定められました。
 
しかし、雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。

イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは、それが自分の罪のためであったことを受け入れ、罪を悔い改め、信仰によって、聖なるものとされるのです。

ヘブル書には、「犠牲の雄牛とやぎの血が聖めの働きをし、人々の良心をきよめるとすれば、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」と、述べられています。


人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました  

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ書53章4-5) 

わたしたちのために、イエスが天国への道を用意され、扉を開いてくださったのです。イエス・キリストの十字架、流された血による贖いを受け入れることなくして天国には受け入れられないというのなら、それは、あまりにも狭すぎる道ではないか、天国への道はもっと広いのではないか、と言うのならば、「 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ福音書7章13-14)というイエスの言葉をもう一度吟味することを、お勧めします

わたしたちが、天において受け入れられるのはイエスが十字架の上で流された贖いの血による以外にあり得ません。

このことを受け入れるか、拒否するかは、わたしたち一人一人の選択にかかっています。



 
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