エリメレク(ルツ記1章1-5)-父の日に寄せて

父の日おめでとうございます。本日は父の日にちなんで、ルツ記をみながら父親の選びの大切さ、それによって家族が影響をどのように及ぼされてゆくのかについて考えてゆきたいと思います。

この1章1節から5節の短いルツ記の最初の箇所から、わたしたちにはいくつかのことがわかります。

最初の箇所で、さばきつかさが治めていた頃と記述されていますが、師士記で学んだように、この時代は、イスラエルの民が生ける神から偶像に仕え、人々がおのおの勝手に自分の目に正しいと思うことをおこなっていた時代でした。道徳は退廃し、霊的混乱状態のなかに人々はありました。

神の約束の地イスラエルは、ヨルダン川は存在しましたがエジプトやメソポタミアのように大きな河はなく、土地からの収穫は、前の雨と後の雨としるされているように、定期的に降る雨によって潤されることに依っていました。

この記述の背景となっているベツレヘム、ユダの地域は、現代にいたるまで乾燥農業によって人々の暮らしが支えられる地域、すなわち種を蒔いても実りの適当な時期に雨に頼らざるを得ない土地であったため雨が降らなければ、灌漑をおこなうことが出来ず、作物は枯れて収穫をすることができませんでした。

天地を創られた神は、この地に民を置かれ、民が完全に生ける神に頼り、神との密な関係のなかで過ごすことをのぞまれました。

「主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。
主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。」(申命記28:11-12)と約束されました。

しかし、イスラエルの民が主のことばを離れ、ほかの神々に従いそれに仕えるときには、天は青銅となり、地は鉄となって、地の雨をほこりとされる。(申命記28:14、15、24)とも言われました。

この主の言葉のとおり、人々が偶像に仕え、勝手に自分の目に正しいと思うことをしていた時代にベツレヘムユダが飢きんであったというのです。 


このような時、ベツレヘムユダの人エリメレクはその妻ナオミと二人の息子マフロンとキルヨンを連れてモアブの地へ行き、そこに滞在することにしました。
そして、そこにとどまっているときにナオミの夫エリメレクは死んで、のこされた息子たちが、このモアブのちで嫁を迎え、そこに10年間住んだ後に二人の息子たちも死んだというのです。

イスラエルの地名や人の名にはそれぞれ意味がああります。この場合も、ベツレヘムは、パンの家、エフラタは実りのある、という意味をもっていますし、エリメレクは神はわが王、ナオミは楽しみ、マフロンは病気がちの、キリヨンは弱弱しいという意味になります。人の名は、丁度エソウとヤコブのように、エソウが毛深く生まれたため、毛深いという意味のエソウという名でしたし、双子のヤコブがエソウのかかとを掴んで生まれたため、かかとを掴む者という意味のヤコブという名のように、生まれた時の状況などに応じて名前がつけられました。


エリメレクが家族を連れて移ったモアブの地はベツレヘムからヨルダン川を隔てた東側の地で、現在でも肥沃な牧草地の広がる地域であり、そのためにモーセが民を率いて約束の地に入ろうとしたときも、マナセの半部族とルベン、ガドの部族がその地に留まることを願い出た地でした。

彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であった、
「この地は、家畜に適した地です。そして、あなたのしもべどもは家畜を持っているのです。もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」(民数記34章1,5,6)とモーセに願い出て、「あなたがたの兄弟たちは戦いに行くのに、あなたがたは、ここにとどまろうとするのか。
どうしてあなたがたは、イスラエル人の意気をくじいて、主が彼らに与えた地へ渡らせないようにするのか。」(民数記32:7)と、戒められたところでもありました。

さらに、遡って、モアブの先祖はアブラハムの甥のロトが神の裁きによって滅ぼされたソドムとゴモラの地から引き出された後で、自分の娘との近親相姦によってできたモアブをその父祖としている土地であり、モアブは異教の偶像神ケモシュに仕える人々でした。

実りある(エフラタ)パンの家(ベツレヘム)に住んでいた神はわが王という名のエリメレクが、モアブの地に移り、その地で死んだということは、大変皮肉なことです。


道徳が退廃し、相対的な価値観の支配するこの世に在って、わたしたちは必ず人生の試練と困難に直面します。

わたしたちが試練に直面するとき、
一つは、その試練を我慢することという方法があります。
しかし、わたしたちは、自分の努力や我慢だけでは、その状況があまりに過酷なとき、失望と欲求不満と最終的には心に苦い根を持つようになります。

二つ目には、その試練を避けて逃れるという方法がありますが、これもどんなに試練を避け、そこから逃れようとしてもわたしたちの計画を超えてどうしようもない状況や、さらに困難な状況に直面することから逃れることはできません。

三つ目は、神が試練をとおしてあなたに教えられようとしておられるご計画に自分を調和させることです。試練は誰にとっても決して好ましいものではありませんが、神は試練のなかにも必ずあなたに対するご計画を持っておられます。

試練をとおしてわたしたちは忍耐を学び、霊的な成長をすることが出来、試練をとおして同じように試練に会う人々を慰めることができ、自分自身をよりよく知ることができ、試練をとおして義の実を実らせることができるのです。次に見るように、聖書はあらゆる箇所でこのことを裏付けています。


「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、
知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(第2ペテロ1:5-7)

「 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ書1;2-4)

「 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。」(詩篇119:67)

「 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(第2コリント13:5)

「 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(第2コリント1:4-6)

「 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:11)


わたしたちは、試練に会うとき、その本質が心の問題であることを見落としてしまうのです。本当の問題は、わたしたちが、共にはたらいてすべてを益としてくださる神に信頼し、その神のご計画にコミットすることができるかということが問題なのです。

目先にある繁栄、肉の欲望を満たすことを優先するか、霊の導きのなかで神の言葉を選ぶのかは、一人一人に課せられている選択ですが、特に父親が、人生の岐路にあってどのような選択をするのかは、自分自身の個人的な問題ばかりでなく、家族をもどの方向に導くかが大きい影響を持つことを、このルツ記の最初の記述からも読み取ることができるのです。

神の恵みは豊かであり、モアブの地に行ったエリメレクの家族とは対照的に明らかにこの時期ベツレヘムにとどまっていたエリメレクの兄弟ボアズは確かな神の祝福と繁栄にあずかっています。 


試練の時に目先の繁栄、肉の欲望をみたすことを選び、不道徳と争い、滅亡という、より悲惨な状況に身を置いたエリメレクのようにではなく、父親としての皆さんが、選択を誤ることなく、キリストにある義と愛と平安の道を選ばれることをお勧めいたします。

 
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