わたしたちの仲介者 

(ヨブ記9章32-33)


アブラハムと同時代紀元前二千年頃、ウツの地にヨブという名の人がいました。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。
ヨブは、7人の息子と3人の娘たち、家族に恵まれ、羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持ち、東の人々の中で一番の富豪でした。そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とし、祝福された生活を送っていました。


あるとき、神の前に神の子、天使たちが来て立ったとき、サタンも来てその中にいました。
主はサタンに「おまえはどこから来たのか。」と仰せられ、サタンが「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」 と、主に答えて言うと、主はサタンに、「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」と、仰せられました。
サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」という主に対する返答に、主は、「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」と言われ、そこで、サタンは主の前から出て行きました。

サタンは、神がヨブとヨブの家族を祝福され、災害や試練から垣を巡らし保護されているからヨブが潔白で、悪から遠ざかる人なのだ、神の祝福や保護からすべてを取り去ってしまえば、ヨブはきっと、神のことを呪うにちがいない、と訴えました。
その訴えに、神は、「では、ヨブの富も財産も家族もサタンの手に任せよう。」と言われました。 


こうして、地上では、ヨブの息子、娘たちが、一番上の兄の家で飲み食いしていたとき、使いが来て、「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」と、サタンによって、たて続けにヨブに災難が襲いました。

このような、一瞬のうちに、すべてが奪われてしまうという悲劇に襲われた後も、ヨブは、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と言って、神に愚かなことをいいませんでした。


再び、ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立ち、 主はサタンに「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」と、仰せられました。
これに、 サタンは、「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」と答えたので、 主はサタンに、「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」仰せられました。

サタンは、身に手を伸ばすことを神が禁じられたので、ヨブは、神をのろうことをしなかったのだ、しかし、彼の骨と肉とを打つことを許されれば、人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与え、きっと神をのろうに違いない、と訴えました。そこで、主は、「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」と、サタンに仰せられました。

こうして、 サタンは再び主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打ったので、 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわるという、これ以上惨めな状態はないという惨めな状態に陥りました。


この記述から、堕ちた天使サタンが、神の御座の前に出ることを許され、人の欠点を暴き、非難し続けていることを知ることができます。サタンの人に対する攻撃は、神の許しの範囲のなかで、起こることがわかります。
しかし、この箇所のように、何故、神がそのようなことをゆるされるのか、ということに、わたしたちは、はっきりとした答えを見つけることができません。

聖書を読むとき、何故神がそのようなことを許され、そのような方法をとられるのか、いろいろな箇所でわたしたちの理解を超える部分があります。

わたしたちは、このヨブ記の記述を読むときに、ヨブ自身が「あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限を見つけることができようか。
それは天よりも高い。あなたに何ができよう。それはよみよりも深い。あなたが何を知りえよう」(ヨブ記11章17,18)と告白しているように、神のなさる方法が人の思いや、方法とは異なっていることに気付かされます。
神が人の理解の範囲のなかで捕らえられる方であれば、信仰は、必要のないものとなってしまいます。

神は、預言者イザヤにも、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章7,8)と告げられています。


祝福され、富と名誉に満たされ、家族に恵まれたヨブは、一瞬のうちにすべてを奪われ、さらに足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物に苦しめられ、土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわるという、人としてこれ以上に悲惨な状態はあり得ないほどの極限的な状態に置かれました。

するとヨブのこのような状態を見かねて、彼の妻は、「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」と、彼に言いました。
この妻のことばにも、ヨブは「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と、答え、このようになっても、罪を犯すようなことを口にしませんでした。

そのうちに、ヨブの三人の友が、ヨブに降りかかったこのすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来ました。

彼らはヨブとともに七日七夜、地にすわっていましたが、だれも一言も彼に話しかけませんでした。ヨブの痛みがあまりにもひどいのを見たからです。

その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろい、深い嘆きを吐露しました。

これにたいして、最初に、テマン人エリファズが、「だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。」すなわち、悲惨な状態に人が陥るのは、罪の結果であって、暗にヨブには隠れた罪があり、それを告白していないために悲惨な状態になったのだと言いました。
ヨブは、自分の苦悶は計り知れないほどであり、自分では神に対して罪を犯した覚えはない、私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせて欲しい、何故、私がこのような重荷を負わなければならないのだろう。と訴えました。

このヨブの訴えを聞いていたシュアハ人ビルダデが、「神は絶対的に義なる方であって、その義を曲げることをなさらない。神は公義を曲げるだろうか。全能者は義を曲げるだろうか。
もし、あなたの子らが神に罪を犯し、神が彼らをそのそむきの罪の手中に送り込まれたのなら、
もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの 義の住まいを回復されるはずではないか。」と、もし、本当にヨブが神にたいして潔白であるのならば、それを神に訴え、全能の神の憐れみを請うのなら神はそれを聞いてくださる筈ではないか。と、ヨブに迫りました。


これに対してヨブが答えているのが、9章のこの箇所です。 
ヨブは、まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。 
神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。
私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。といって訴えています。

ヨブは、神は、無限の創造者であって、有限の人間が、自分の潔白を訴えようとしても、神は あまりに高く、深く、広く、長く、自分がどんなに手を伸ばしても、とうてい届かない方、どんなに頑張っても自分の努力によっては神の前に義とされることはできない方、人は、神との深い溝を、自分で埋めることなど決してできないと告白しています。
そして、この深い溝を埋めるためには、神に手を触れ、人にも手を触れる仲裁者、仲介者の存在がなければ不可能だ、と言っているのです。 

人はどんなに神に手を伸ばしても、決して届く事が出来ません。
無限の神の偉大さと有限な人の矮小さに対する嘆き、どのようにして人が義とされて神の前に立つことができるだろうかというヨブの問いかけこそが、すべての人が持っている最も根本的な魂の叫びです。


多くの場合、人は自分の努力や真摯に人生に向き合うことによって、無限の創造者である神に近付こうとします。
あらゆる宗教的な誤りは、人が自分たちの努力や、悟りによって、無限の神に近付くことができると考えることによって起こります。
ヨブの叫びは、無限の創造者である神ご自身と等しい方が、有限な被造物である人とおなじようになって神と人との仲介をされる、そのようなことがなければ到底、人が神の前に訴えるということなど不可能だと訴えているのです。

イスラエルの王となったダビデは、詩篇のなかで、神が人を心に留め、神が人に触れてくださるときの栄光について、「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」と、無限の神の偉大さと有限な人の矮小さ、その偉大な神が矮小な人に目をとめられることにたいする感嘆の声をあげています。


無限の創造者である神ご自身をあらわされる方が、有限な被造物である人となって神と人との仲介をされ、神と人との双方に手を伸ばすことのできる仲保者が存在すれば、神に訴えることができる、という悲痛な叫びに、もう一人の友人ナアマ人ツォファルは、「 あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限を見つけることができようか。
それは天よりも高い。あなたに何ができよう。それはよみよりも深い。あなたが何を知りえよう。」(ヨブ記11章7-8)と、神を知識によって知ろうとしても、それは所詮むなしい徒労に終わることを述べています。


神と人との深い溝を埋める仲介者、神と人との双方に触れることのできる仲保者が存在しさえすれば、極限的な状況のなかでも神にそれを訴えることができ、魂の慰めを得ることができるという悲痛な叫びにたいして、友人たちはヨブが悲惨な状態に陥った理由を探ろうとしてかえってヨブを慰めるより、より苦しめる言葉を繰り返しました。

わたしたちの理解の範囲を超える状況にあっても、神が愛の方であり、神のご計画と目的が完全であり、神が義であり正しいかたであることは変わりない真理です。
人生の様々な悲惨な状況が引き起こされ、この世に悪の栄えるのをみるとき、何故そのようなことが起こるのか、どうして神がそのような状況を許されるのか、わたしたちの頭ではすべての状況についてとうてい理解できないことがしばしば起こります。
このヨブ記の最後の箇所でも述べられているように、永遠の創造者である神は、わたしたちの理解の対象ではなく、信仰の対象であることを、わたしたちに求めておられます。


ヨブ記が記されたのは、アブラハムの時代、聖書の記述の最も古い時代とされています。
わたしたちは、旧約聖書全体をとおして、いろいろな箇所から神がどのように人に臨まれ、ヨブの叫びにたいして、人の魂の救いについて、答えられてゆくのをみることができます。
新約聖書の中では神と等しく、しかもわたしたちと同じようになられた方が、神と人との仲介をされ、わたしたちが、この方をとおして、どんな悲惨な状況も無限の創造者である偉大な神に訴えることができ、魂の慰めを得ることができるということを、救い主イエスによって知ることができます。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(第一テモテ2章5)

ヨハネの福音書を開くときにも、神とともにおられる方、神の御子が人となって、わたしたちのうちに宿られたことが明言されています。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ福音書1章1-3、14,18)

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。(第一ヨハネの手紙1章1-2)

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル書1章1-3)

私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル書4章14-15)

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
(ピリピ書2章6-7)

ヨブの悲痛な叫びに対してこのように素晴らしい答えが与えられていることを知り、わたしたちがその方により深く信頼するときに、どのような状況のなかでも最も深い魂の慰めを得ることが出来ます。

 



 
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