神を見る

(ヨブ記42章1-6)


一瞬のうちにすべてを失い、家族を奪われ、体中を悪性の腫物に苦しめられ、悲惨な状態で灰のなかに座り、深い嘆きのなかにあったヨブは、慰めに来たはずの友人たちから「悲惨な状態に人が陥るのは罪の結果であって、暗にヨブには隠れた罪があり、それを告白するよう」忠告され、「直接、全能の神の憐れみを請えばよい」と迫られ、「不正や不義を改め、神の前に真実であれば顔を上げることができるではないか」という忠告によって、かえって苦しみを増すこととなりました。

ヨブ自身も“友人”との問答の中で、苦悶のなかから、神にたいして、「潔白に生きようとするのに、何故このような悲惨な状況に陥れられねばならないのか。」「この世に悪者や不正な者が繁栄するのを見るのは何故なのか。」という疑問を神に投げかけました。

ヨブは死後についても言及し、悟りえないことばを発しました。
「人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。水は海から消え去り、川は干上がり、かれる。 人は伏して起き上がらず、天がなくなるまで目ざめず、また、その眠りから起きない。
ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定め、私を覚えてくださればよいのに。人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。」(ヨブ記14章10-14)

さらにヨブは、苦悶のなかから、「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。」という魂の叫びを発しました。
このヨブの苦難、疑問に神は嵐のなかから答えられました。


ヨブは神について“友人”から述べられたのではなく、神ご自身に出会い、神のことばを直接聞くという体験をしました。
神は、ヨブのうめき、苦しみ見られ、その叫びを聞き、彼の痛みを知られ、直接ヨブに出会われ、語られました。
神について聞いたことがあっても、それで神を知ることにはなりません。神を知識として知ることと、神に出会い体験することとは違います。
ヨブは神に、「あなたのことを聞いていました。人々があなたのことについて語ることも聞き、自分でもあなたのことを語りました。しかし、わたしは、あなたについて自分でも悟り得ない、わたしたちの限界を超え、理解の範囲を超えたことについて語りました。あなたが、直接わたしに出会ってくださいました。」と言っています。 

神に出会い、神を見る人は、幸いです。
「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ福音書5章8)

ヨブは、嵐のなかで直接語られた神に個人的に出会う体験をしました。

人は個人的に神に出会う体験をするとき、「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」とヨブが告白し、悔い改めたように、(5節)神の圧倒的な栄光に打たれます。


聖書には、個人的に栄光の神の姿に触れ、出会った人々の体験が記録されています。

ダニエルは、「 私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。」(ダニエル書10章8)と、栄光の神に出会ったときの体験を述べています。

イザヤは、栄光の神から召命を受け、栄光の神の御姿に触れて「 そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』」(イザヤ書6章5)と、言っています。  

イエスの弟子のシモン・ペテロは、イエス・キリストの本当の御姿に触れたとき、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ福音書5章8)と告白しています。

イエスのもうひとりの弟子であったヨハネも、栄光のイエス・キリストをを見たとき、その足もとに倒れて死者のようになりました。
しかしキリストは右手をヨハネの上に置いて、「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」(ヨハネ黙示録1章17-18)と、言われています。

イエスこそが、死とハデスとの鍵を持たれる方です。


嵐のなかからヨブに語られた真実な神は、偉大な創造をされ、永遠の視点から慈しみの目を留められておられ、創られたものの必要を知られ、備えられていることをヨブに告げておられます。

「 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。 その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。
そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。
海がふき出て、胎内から流れ出たとき、だれが戸でこれを閉じ込めたか。
そのとき、わたしは雲をその着物とし、黒雲をそのむつきとした。
わたしは、これをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、
言った。『ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。』と。
あなたが生まれてこのかた、朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、
これに地の果て果てをつかまえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか。
地は刻印を押された粘土のように変わり、衣服のように色づけられる。
悪者からはその光が退けられ、振りかざす腕は折られる。
あなたは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩き回ったことがあるのか。
死の門があなたに現われたことがあるのか。あなたは死の陰の門を見たことがあるのか。
あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。そのすべてを知っているなら、告げてみよ。
光の住む所に至る道はどこか。やみのあるその場所はどこか。
あなたはわたしをその国まで連れて行くというのか。また、その家に至る通り道を見分けるというのか。
あなたが知っている……そのとき、あなたが生まれ、あなたの日数が多い、といって。
あなたは雪の倉にはいったことがあるか。雹の倉を見たことがあるか。
これらは苦難の時のために、いくさと戦いの日のために、わたしが押えているのだ。
光が分かれる道はどこか。東風が地の上で散り広がる道はどこか。
だれが、大水のために水路を通し、いなびかりのために道を開き、
人のいない地にも、人間のいない荒野にも、雨を降らせ、
荒れ果てた廃墟の地を満ち足らせ、それに若草を生やすのか。」(ヨブ記38章4-27)


神は、すべての創られたものに慈しみをもって目を留められ、その必要を知られ、支えられ、永遠の計画を成し遂げられる働きをされておられます。
神が素晴らしい永遠のご計画のなかに、慈しみをもって目をとめておられることを思い起すとき、わたしたちも一時の試練や苦難を超えて栄光の希望を持つことができます。

人としてあらわれてくださった神、イエス・キリストは、神がヨブに語られたと同様な宣言をされておられます。

「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ福音書6章26-31)


神を見えるものや、人の知識の枠のなかに引き下げることをせずに、無垢な心で素直にわたしたちを超えた無限の方に魂の底から叫び、求めるとき、生ける神は個人的にその魂の叫びに答えられ、出会ってくださいます。
人としてあらわれてくださった神、イエス・キリストに個人的に出会うとき、わたしたちは生ける慈しみの神に出会います。
イエス・キリストの栄光の御姿に触れるとき、ヨブと同じように、わたしたちも、どのような苦難の状況にあっても悲しみは深い魂の喜びに変えられます。


栄光のイエス・キリストの本当の姿に個人的に出会うとき、わたしたちのすべての問題や疑問は解決します。

それは、イエスご自身がすべての答えだからです。

「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。」(ヨハネ福音書16章22-23)

栄光の神、イエス・キリストがわたしたちを慰め、共に居られ、イエス・キリストの御顔を仰ぐとき、わたしたちのすべての悲しみは心からの喜びに満たされ、その日にはわたしたちは、何故神がわたしたちにとって理屈に会わない試練や苦難を許されたのだろうか、この世で何故、悪や不正を行う者が繁栄することを見たのだろうか、という疑問を投げかけることも、もはや必要でなくなります。

「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』
すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』
また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。』」(黙示録21章3-7) 

 



 
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