神への探求 

(ヨブ記23章8-10)


一瞬のうちにすべてを失い、家族を奪われ、体中を悪性の腫物に苦しめられ、妻からも神を呪って死んだほうがましだと言われるほどの悲惨な状態で灰のなかに座り、深い嘆きのなかにあったヨブは、慰めに来たはずの友人たちからもかえって苦しみを増す言葉を浴びせられました。
彼らがヨブにたいして浴びせ、投げかけた言葉は、「全能で正しい神は、正しい者に正しい報いをされ、悪者にはその報いとして罰を与えられる、神の前に正しいと主張するヨブには隠れた悪があり、それを神に告白するべきだ。人々の前に正しい人と見えていたヨブには偽善がある筈だ。正しい者が意味もなく災難に襲われ、苦しみに会う筈がないではないか。隠れた自分の悪や罪を全能で正しい神に申し上げるべきではないか。」という因果応報のような前提に立ってヨブのことを糾弾する言葉でした。

ヨブの”友人“エリファズは、「本当にヨブが神にたいして潔白であるのならば、それを神に訴え、全能の神の憐れみを請うのなら神はそれを聞いてくださる筈ではないか。」 

「あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。神の御口からおしえを受け、そのみことばを心にとどめ、あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る。」とヨブに迫りました。

これに、ヨブは答えて「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。私は御前に訴えを並べたて、ことばの限り討論したい。」と訴えています。

神と和らぎ、平和を得、幸いが来るということには同意しても「どうやって神を見出し、神を知ることができるのか。」というのがヨブの叫びでした。


多くの人が神を探し求めようとする性質を持っています。
すべての文化、社会のなかに神を探したり、神を崇拝するなんらかの宗教形態が存在します。
人はすべての事態を生じさせる原因となっているものを求めてきました。
異なった文化や社会において、神についての概念や神との関係を探し求めるその求め方は異なっていても、人は本質的に理屈を超えて人の限界を超えた神を探し求めます。 

創造者である神の存在を抜きにして、最も最初の原因すべての根拠を説明することが出来るでしょうか。

宇宙の構成と秩序その巨大な空間と、そこに存在する無数の星とその動き、その体系が、何の原因もなしに存在することになったとは考えられません。

被造物の繊細で緻密なデザイン、わたしたちの見るすべての秩序立った構成が、偶然の積み重ねの結果であると考えるのは無理があります。

被造物を見て創造者の存在を思い、繊細なデザインを見てデザイナーのことを思うのは、自然なわたしたちの思いです。

創られたものをみて創られた方の存在、神の存在を否定することは、自然の人の思いから反しています。

最初にすべての事態を生じさせた原因となっている神が存在することを、人は本質的に信じることができます。

結果としてある事象が起こるのを見て、その事象を生じさせる原因となっているものを人を中心として追及するとき、全ての事象を生じさせる第一原因である創造の神を否定し、人は真理から遠ざかり、自分の愚かさを証明することになります。

「 愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。」(詩篇14編1)

イスラエル統一王国の王となったダビデは、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」(詩篇42編1-2)と人の魂の叫びを述べています。

ヨブの叫びは、このような魂の叫び、「どのようにして生ける神に出会い、神の御前にでることが出来るだろうか。」という神を探し求める叫びでした。


多くの人が、このヨブと同じような魂の叫びをしたことがあっても、神を証しする筈の教会や、人々の魂を救うことができると名乗る宗教的指導者との誤った苦い体験や、物質的、感情的なものを中心にした体験から、そのような魂の叫びを他へ転化させてしまいます。

そして、この本質的な魂の叫びに答えを見出すことができないまま、創造者であり、真の生きた神を探し求めることをあきらめてしまい、自分と宗教とは無関係だ、といって神を否定してしまうのです。

多くの誤ちは、神を求めるときに、目に見える物質的、わたしたちの感覚や感情に訴える方法で神を見出そうとしたり、神を礼拝しようとするとき、最も本質的でわたしたちの霊に訴える礼拝を見逃してしまうときに起こります。

神を目に見える太陽や月や草木や獣や人のかたちにして、神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、それを拝んでしまうのです。
真の生きた創造者である神は、人の瞑想や、目に見える物質的な壮麗な建物の中や、人の思い込みによって見出すことはできません。

ヨブが叫んだ叫びは、霊的な渇きであって、人のうちにある霊の領域に起因しています。


ヨブは、「ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。 左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。」と言っています。

ヨブは、神を目に見えるかたちや、知識によって探し求めても、出会うことができないと告白しています。

神は、むしろ子どものように無垢な心で神を見上げ、賛美し礼拝する者に現われてくださいます。
子どもの無垢な心は、神を見えるものや、人の知識の枠のなかに神を引き下げることをせずに、素直にわたしたちを超えた無限の方に心を向け、神を見上げることができるからです。

神は、霊の方であり、人が知識やかたちに捉えて理解することより、無垢な心で神を信頼するわたしたちの信仰を求めておられます。(マタイ福音書18章2-3参照)

エリファズが「隠れた罪があるのなら偉大な全能者である神の前で御口からおしえを受けあなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直ることができる」と迫るのにたいして、ヨブは、「神は力強く私と争われるだろうか。いや、むしろ私に心を留めてくださろう。」(6節)「神は、わたしの行く道を知っておられる」(10節)と、どのような試練や状況に陥っても、真の生きた神を慕い求める者の魂を神が知っておられるという信仰の吐露をしています。

ヨブが、「どのようにして生ける神に出会い、神の御前にでることが出来るだろうか。」と叫んだ叫びと同様の深い魂の底からの叫びに神は答えられます。


イエス・キリストを知るときに、神がヨブの魂の底からの叫びに答えられたことを知ることができます。

イエスは、この世を去られ、神の御座に行かれる直前、弟子たちに、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」と、言われました。
このとき、弟子のひとりトマスが投げかけた「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」 という疑問に、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」と、答えられました。 (ヨハネ14:1-7)

イエスは、水をくみに来たサマリヤの女に「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ福音書4章13-14)とも宣言されました。

ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ガリラヤを巡っておられたイエスは、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いのとき、公にではなく、いわば内密にエルサレムに上って行かれ、祭りもすでに中ごろになったとき、宮に上ってご自身がキリスト、預言されたメシアであり、父なる神とイエスがお一つであることを教え始められ、ユダヤ人、祭司長、パリサイ人たちが、イエスを捕えようとしましたが、時が、まだ来ていなかったのでだれもイエスに手をかけなかったということがありました。

その祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ福音書7章37-38)と言われました。

イエスのこれらの宣言と、イエスについて記述された歴史的な預言、記録、出生、出生の場所、生涯の記録は、他の宗教的な教祖の宣言とは異なります。

イエスの宣言は、イエスを信じることが、永遠の神と人とを結ぶ唯一の道であり、人はイエスに来ることによってのみ深い霊の渇きを満たすことができるというのです。
そして、わたしたちは、このイエスの宣言を、受け入れるか拒否するかという選択に迫られます。

わたしたちは、イエスのこれらの宣言を受け入れることによって「どのようにして生ける神に出会い、神の御前にでることが出来るだろうか。」という問いに対して神が答えられていることを体験します。


ヨブが悲惨の真っ只中にあって叫んだように、何故、生ける真の神が人生の歩みのなかに、理不尽に思える悲惨な状況を許されるのだろうと疑問に思えるときにも、神は、イエスに信頼する者の最終的に行き着く先を知られ、その人の深い魂の叫びを調べられ、そのような試練をとおして火の中から出てくる金のように、わたしたちを精錬され、より栄光に満ちたものへと変えてくださいます。(10節)

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(第一ペテロの手紙1章5-7) 

 



 
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