大魚の腹の中で

(ヨナ書2章7-9)


ヨナ書が聖書の歴史的事実であることに反対する人々は、ヨナ書が人の作り上げた物語であって、大きな魚に人が飲み込まれ、三日三晩後に神が意図された陸地に、人を吐き出すことなどあり得ないと主張します。

ヨナ書に述べられている奇跡は、海に投げ込まれたヨナが大きな魚に飲み込まれ、三日三晩の後に神が意図された陸地に吐き出された、ということだけではありません。
わたしたちが自然に思える当たり前の出来事にも神の奇跡は働いています。神のご計画に偶然ということはありません。ヨナが乗り込んだ船が海の上で暴風に合い船が沈みそうになったこと、嵐の中で水夫たちが恐れ惑ってそれぞれの神々に叫んでいるときヨナが船底でぐっすり眠り込んでいたこと、水夫たちが引いたくじがヨナに当たったこと、ヨナが海に投げ込まれたあとで暴風がおさまり海が静まったこと、ニネベにあらわれたヨナが「四十日のうちに悔い改めなければ滅びる」という裁きの警告だけでニネベの王や身分の高い者から低い者まで皆悔い改めたこと、そして、とうごまの木がヨナの上をおおうように生え、一匹の虫によってとうごまが枯れたこと、ヨナ書は神の奇跡に満ちています。

わたしたちは、天と地とそのなかにあるすべてを御ことばによって創造され、無から有を生み出された偉大な神、すべての創造の源である神を信じられないと、聖書の御ことばにある奇跡的な出来事に疑いを持ちます。

ヨナ書の出来事が歴史的事実であることは、新約聖書のなかでイエスがヨナについて言及されていることからも明らかです。

イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」(マタイ福音書12章39-41) 


北イスラエル王国の預言者ヨナ(紀元前783年-760年頃)は、神が「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」(ヨナ書1章2)と告げられたとき、主の御顔を避けてヨッパに下り、船を見つけ船賃を払ってそれに乗り、タルシシュヘ逃れようとしました。

ニネベは当時イスラエルを脅かす強国アッシリア帝国の首都でした。

アッシリア軍は、その残酷さで近隣諸国に恐れられ、実際北イスラエル王国は最終的にアッシリア帝国によって紀元前722年に滅ぼされました。
南ユダ王国もヒゼキアが王のときアッシリア帝国による侵略を受け(紀元前722年)、アッシリアの王センナケブリは、軍の総司令官ラブシャケによって、神を冒涜する脅迫状をヒゼキア王のもとに送りつけ降服を迫りました。
このとき、預言者イザヤによって励まされ、力づけられたヒゼキア王は、大軍の包囲のなかで民を励まし、主なる神に信頼し、神が必ずユダ王国を守られ、敵を打ち破られ、アッシリアの脅威を恐れてはならないことを民に訴えました。
ある朝、人々が城壁を取り囲むアッシリアの大軍の様子を早く起きて見ようとしたところ、軍の主力である十八万五千人の精鋭部隊が主の使いによって打ち殺されてしまい、残党が逃げ帰ってしまった、という驚くべき歴史的出来事が起こりました。そして、アッシリア帝国はその後衰退し滅びに至るという歴史を辿りました。

ヨナにとって、神が情け深くあわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを、敵国アッシリアの首都ニネベに行って伝えることは自分の思い、意図に反することでした。

ヨナにとってイスラエルに危害を加え、その残酷さで恐れられていたアッシリア帝国、ニネベの人々が自分たちの悪によって滅びてしまうことはむしろ望むところであり、もしヨナの警告を聞いてニネベの人々が悔い改め、神があわれみによって裁きを思い直されるということは、我慢のならないことでした。

神がヨナに告げられたとき、神の御顔を避けてニネベとは全く別の場所、タルシシ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとしました。

タルシシが現在どの場所なのかについては議論がありますが、当時タルシシは、人々にとって地の果てと考えられていました。
そして、人々は地の果ての彼方には神がおられないというような、偏狭な神概念を持っており、地域ごとにそれぞれの神が存在したり、山や谷や海や川にそれぞれ異なった神々が存在するというような限定された神概念に捉われていました。

ヨナもこのような考えに影響され、遠い地の果てのタルシシに逃げることで神の御顔を避け、少なくとも神から告げられたことから逃れることが出来ると考えました。


神はわたしたちが何処に居ても、どのように神の御顔から逃れようとしても、すべてに偏在されておられます。詩篇の作者は、神が偏在される方であることについて、次のように詠んでいます。

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。
たとい私が『おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。』と言っても、
あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。」(詩篇139篇1-12)

神が「ニネベに行って、叫べ」と告げられたことを行うことから逃れ、神の御顔を避けようとしたヨナの頑固さは、タルシシへ向かう船のなかでも遺憾なく発揮されています。

主が大風を海に吹きつけ、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになり、水夫たちが恐れ、それぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てている時にも、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいました。

「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」と、水夫たちがくじを引いて、そのくじがヨナに当たり、ますます荒れる海で水夫たちが「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。」と詰め寄ったときもヨナは、「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」と言ってニネベへ行くことより海に投げ込まれることを選びました。

ヨナは、水夫たちにかかえられ投げ込まれ、激しい怒りをやめて静かになった海で、主が大きな魚を備えてヨナをのみこませ、三日三晩、魚の腹の中にいたあいだもニネベへ行くことを拒み続けました。

ニネベへ行くことを三日三晩、拒み続けた後、ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈りました。
ヨナの祈りは、「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。
私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と。
水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。
私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。
私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。
しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」(ヨナ書2章3-9)というものでした。
 
海の真中の深みに投げ込まれ、大波が越えて行き、水がのどを絞めつけ、深遠が取り囲み、海草が頭にからみつくという地獄のような状態のなかでも三日三晩、頑固にニネベに行くことを神に拒みつづけたヨナは、大きな魚の腹の中で文字通り黄泉に投げ込まれるような体験をしました。

そして、最後に「 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。
むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。
しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」と、神に告白をしています。


ヨナは、「むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。」という告白をしています。「むなしい偶像に心を留める者」と、述べられていることは、虚しい偽りに心を留めるということを意味しています。

人生に生ける神の存在を無視し、人を創られた神ではなく人が作り上げた神々を神とする者は虚しい偽りに心を留める人々です。
神の御顔を避けて地の果てに逃れることが出来ると思う者は、虚しい偽りに心を留める人々です。神が言われていることより自分の意志を優先させて人生を送る者は虚しい偽りに心を留める人々 です。
自分の意志や思いが神のご計画や思いに勝っていると考え、それに固執する者は、虚しい偽りに心を留める人々です。 

人生を虚しい偽りに心を留めて生きる人々は、神からの慈しみを捨て、自らを黄泉に投げ込むような人生を送ることになります。

むなしい偶像に心を留める者は神からの恵みを捨て、会わなくともよい災難や試練のなかに自分の身を置くことになります。

生ける神はわたしたち一人一人の人生に最も素晴らしい計画を持っておられ、神の恵みでわたしたちの人生を満たしたいと望まれています。

全知全能で創造者である神がわたしたち一人一人に持っておられる意図を見つけ出し、そのことを行うことほどわたしたちの人生を満たすことはありません。
神が意図された人生を歩むこと以上に素晴らしい人生はあり得ません。本当の満足、人生の喜びは、神のご計画のなかに人生を歩むことです。

神の御顔を避けて逃げるとき、わたしたちは会わなくともよい苦難や試練、そして遂に滅びを自分の身に招きます。

ヨナが大魚の腹のなかで体験したように、神の御顔を避けて逃げ、神の意図されているわたしたちの人生より自分の思惑、自分の意志を優先するとき、神はそれを修正され、それを頑固に拒めば、わたしたちが人生の海の嵐に出会い、荒れ狂う海に投げ出され、大魚の腹のなかで地獄のような目に会うことを許されます。


神は慈しみに満ち、わたしたちの人生を祝福で満たされたいと望んでおられます。もし、わたしたちが神の言われていることに聞き、神の戒めと警告を守り行うなら、わたしたちの人生はもっと祝福に満たされたものとなるでしょう。
しばしば、わたしたちは神の警告や戒めを守ることより自分の思いや欲求にしたがって人生を送るほうが自由な人生だと錯覚します。
神の警告を聞き、神の戒めを守るということを自分の意志で選び、より大きな祝福を受けるということは、わたしたちに与えられた最大の自由です。

神の御顔を避け、神からのがれようという性質、罪の性質をわたしたちは持っています。

ヨナのように神の御顔を避け、神の言われていることとは反対の方向へ向かおうとするわたしたちのために、イエスは神のご計画にしたがってヨナが出会った以上の困難と苦しみを体験し、十字架に架かり、三日三晩、本当の黄泉に下られ、わたしたちの罪を贖われました。 

神の御顔を避けて逃れることができると考えることは愚かなことです。
神のご計画は最善のご計画です。わたしたちにとって理解を超えるように思えるときも、わたしたちが神のご計画に従って行うとき、神はわたしたちの人生を恵みと慈しみで満たしてくださいます。

神は、イスラエルの民、南ユダ王国がバビロニア帝国によって滅び、人々が打ちひしがれているときにも預言者エレミアをとおして、「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミア書29章11)と、宣言されています。


 
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