心を尽くして主に立ち返れ

(ヨエル書2章12-14)


ヨエルは、民が神に背き離れるときに起こる自然災害、土地の農作物や収穫をいなごが何度も食い尽くし、干ばつの災害が起こることについて述べています。
そして、いなごが土地の収穫を食いつぶし、干ばつによって災害がより深刻なものとなるだけでなく、このいなごの大群が国を滅ぼす敵になぞらえられ、北方から攻め寄せ国を滅ぼそうと来襲することの預言ともなっています。

イスラエルの民は約束の土地を与えられて定住する前に、もし、人々が生ける神の御声に聞き従わず、与えられた律法に従わず、守り行わないで生ける神から離れ、背くときに土地の農作物や収穫をいなごが何度も食い尽くすことについての警告をモーセから受けていました。(申命記28章38参照)

いなごの大群が収穫を食い尽くし、土地が荒廃してゆくことは、神からの裁きを意味しています。そして、このいなごの大群は、終わりの日にイスラエルを突如襲い、国を絶滅するために来襲する敵の大群、人類全体を絶滅の危機に追い込む戦いの預言となっています。

この箇所では、神の裁き、敵の来襲の警告が述べられたあとで、心を尽くして主に立ち返るなら、主が思い直され、憐れみの後に祝福を残してくださる可能性について述べられています。

わたしたちは、絶対絶命の危機に陥ると自分を超えたものに救いを求めます。
ヨエルは、イスラエルの民が心を尽くして自分たちを導かれ、恵みを与えられる神に立ち返れ、と述べています。


心を尽くして、ということは決して中途半端ではなく一心にということです。
神は、わたしたちが心を尽くして神を求めることを望んでおられます。

イスラエルの民は、神を礼拝しながら、一方で日々の生活の関心は、この世の富、権力や自分の快楽、知識を増すことが中心でした。

イエスが救い主であることを認め、神のことば聖書に真理があることを認める人々も、しばしば、日々の生活、この世の目の前の事柄だけに関心を奪われ、常に心を尽くして神を求めてはいません。

神は絶対ではなく、わたしたちの人生の選択の一つ、人生は自分で切り開くものであって、神がわたしたちの助けとなればよいと考えるのであれば、人生の主は自分自身であって、神が主ということになりません。
多くの人々にとって、自分の限界を超える神の存在を認めても、神が人生の主とはなりません。

神は、わたしたちが単に神の存在を認めることだけを求めておられるのではなく、わたしたちを日々導き、心の最優先の方として、わたしたちの人生を共に歩まれる主であることを望まれています。中途半端な悔い改めでは、生ける神がわたしたちの主となることはありません。

わたしたちが中途半端な心の状態ではなく信仰による一心な心で悔い改め、心を尽くして神を求めることを、神は望まれています。

イエスは、種を蒔く人が種蒔きに出かけ、その種がいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。という譬えを話され、それは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことだと説明されました。

中途半端な心の状態は、みことばを聞いても、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぎ実を結ぶことができません。


ヨエルは、心を尽くすだけでなく、断食と、涙と、嘆きとをもって、神に立ち返るよう警告しています。

わたしたちの自然な思いのなかには、肉の思いと霊の思いの二つの側面があります。
断食の本当の意味は、自分の肉の思いを弱め、霊の思いを強くすることにあります。

わたしたちは、自然な肉の欲求には繰り返して肉に必要な食べ物を供給し続けます。一日に三度肉体を維持するための食事をし、食事の間に間食もします。健康を維持し、肉体の活力を保つためにはバランスのとれた栄養を補給することが必須です。

しかし、肉体を維持するのに必要な食事を繰り返し摂る人々も、ほとんど多くの場合、わたしたちに自然に与えられた霊的な飢えや渇きを満たし、霊に必要な栄養を自分の心に与え、魂を満たすことのできる神のことば、聖書のことばを一貫して繰り返し自分の心に供給し続けません。

肉の思い、肉の欲求に必要な栄養を補給し、霊の思い、魂を満たす神のことばを自分の心の栄養として摂り入れなければ、肉の思い、肉の欲求だけが強いものとなり、霊の思い、霊が欲するものは満たされることがなく、霊的な飢えと乾きにさらされます。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」(詩篇1篇1-6)

神のことば聖書に聞き、御ことばを心に供給し続け、生ける神に祈り、魂に必要な栄養を自分の心に与え続けるとき、霊的な充足を得られます。
そのような人は、霊の思いが強められ、肉の思い、肉の欲求は弱められます。わたしたちは、この肉の身体に生きる限り、一貫して霊の思いと肉の思いの戦いにさらされ続けます。自分の肉の思い、肉の欲求を死んだものと見做し、霊の思い、主の御ことばを喜びとし、御ことばを昼も夜も口ずさむ人は、時が来ると霊の実を結ぶものへと変えられます。
「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ書6章8)

イスラエルの状態は、目に見えるものは富んでいるように見えましたが霊的には貧困な状態、霊的な退廃と偶像礼拝に満ちていました。


わたしたちの肉の思いは常に快楽なもてなしをされたいという欲求を持っています。
より美味しい食事をしたい、より楽しい思いをしたい、という自然の思いはすべての人が駆られる肉の欲求です。

多くの人々にとって神に願い求め、神に祈ることが最後の手段である場合がありますが、どんな状況であっても、神はわたしたちが、心を尽くして神に立ち返ることを求めておられます。 

絶対絶命の状況に追い込まれる前に常に神のことばに聞き、心を尽くして神を求めることができれば、それはより賢い人生の選択です。

すべてを創造され、御子を罪の贖いとして十字架に掛けてまでわたしたちを愛しておられる神は、御子に信頼する人々をどんな状況からでも救うことのできる力を持っておられます。

わたしたちは、すべてのことを生ける神に祈り、委ねるとき不必要な痛みや重荷を自分自身で背負う必要がありません。
しかし、神は、しばしば愚かなわたしたちが神から離れ、問題に直面し絶対絶命の状況のなかで最後に神に叫び求め、心を尽くして神に立ち返るときのくるまで、わたしたちを待っておられます。  

ヨエルは「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。」と述べています。

着物を引き裂くという行為は、その人の心の深い悲しみ、憤りを示す行為でしたが、神はわたしたちが外側から人の目に見える着物を引き裂くことよりも、内側の自分の心の底に潜む自我を引き裂いて神に叫び、心を砕いて神に救いを求めるようにと言われています。

神はわたしたちの心の底に関心を持っておられます。
わたしたちも自分の愛する家族、子供や孫が心から必要と叫び求めることに出来得る限り答え、その必要を満たしたいと願います。
まして、わたしたちを愛され、恵みと慈しみに満ちた父なる神は、御子のとりなしによって、わたしたしが心を尽くし、自分の罪と、罪のもたらす悲惨にたいし涙をもって嘆き、心を砕いて主に立ち返るとき、失われたすべてを回復することがお出来になります。

神は忍耐強く、寛容であって、わたしたちが悔い改め、神に立ち返ることを待っておられます。
しかし、わたしたちが神の忍耐と寛容を誤解し、神にたいして背き、神から離れて偶像に向かうことを決して見過ごされることはありません。
神は、神に背き、神に反抗するものを容認されているのではありません。

ヨエルは、「わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
わたしは天と地に、不思議なしるしを現わす。血と火と煙の柱である。
主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。
しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。」(ヨエル書2章28-32)と、救いについての預言をしています。

使徒ペテロは、五旬節の日にエルサレムに集まっていたユダヤ人たちに聖霊が注がれたとき、この箇所を引用して、(使徒書2章16-21参照)罪の赦しと悔い改めを、勧めました。

わたしたちも、イエスの十字架が自分の罪の贖いのためであったことを認め、罪の赦しと悔い改めによって神に立ち返るとき、神はわたしたちの魂を聖霊で満たし、御霊から永遠のいのちを得させてくださいます。


御子イエスがこの世に来られたのは、御子を信じるものがひとりも滅びることなく、永遠のいのちを得ることができるためでした。
わたしたちは、悪人の死をときに喜ぶかもしれません。しかし、神は悪人の死を決して喜ばれません。

「わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル書33章11)

わたしたちの基準からは到底救われることができないと思われる悪人や、神に背き、偶像を礼拝し絶滅の滅びに立ち至ったイスラエルのような状況でも、もし、心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、心を引き裂き、神に救いを求め、神に立ち返るなら、
「主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。」というのです。

イスラエルは、神に背き、神から離れ、偶像を礼拝し、いなごの大群によって収穫物は食い尽くされ、敵の侵略によって滅亡がもたらされる状況を招きました。

神の裁きを受けても当然の彼らに、ヨエルは心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、心を引き裂き、神に救いを求め、神に立ち返るなら、主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残してくださらないとだれが知ろうと、神の恵みと憐れみの深さを思い起こすことを勧めています。

わたしたちも、イエスを主として心を尽くし、創造の神、生ける神に立ち返るなら、想像を超えた神の恵みと祝福にあずかり、絶望の淵に立たされるような状況のなかからも希望をみいだすことができます。



 
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