不足のない神のみわざ

(ミカ書2章6-7)


イスラエルの民は、約束の地で国としての歩みをはじめ、神からの祝福を受けました。しかし、彼らは祝福をもたらされ民を導かれる神から離れていきました。
イスラエルで王位に就いたアハブのように、権力をかさに着て弱いものの土地を奪ったり、悪巧みによって領土を拡げようと戦を仕掛けたり、自分たちの神より偶像に頼み、神の霊の導きによって指針を決めることが無駄なこと、たわごとのように思えるという状況になりました。

ミカは神との深いかかわりのなかで人生を送ったヤコブの子孫であるイスラエルの民が、神により頼み、神のことばを聞いて行うことが「たわごと」であると言っていることが「たわごと」だと糾弾しています。

神の契約の大切さを思い起こすことがたわごとに思い、自分たちの欲望を満たし、神からのご利益だけに目をむけ、生ける神との深い関係に心を向けなくなってしまったイスラエルの民、ヤコブの家が「たわごと」を言っており、彼らは恥じを避けられないと警告しています。

クリスチャンやクリスチャンの国と思われている国が、神のことばを文字どおり受け取り信頼することが「たわごと」であると思うようになってしまったり、彼らの生き方が人を欺き信頼できないものであれば、クリスチャン(キリストに似たもの)という名は「たわごと」のようなものとなり、恥じとなってしまいます。

もしクリスチャンの自由や愛が自分勝手、祝福への甘えにかわってしまい、キリストの流された血によって神の子とされ神の霊に導かれることが「たわごと」だというのならクリスチャンの信仰は「たわごと」のようなものとなり、恥は避けられません。

復活された栄光のイエスは、サルデスの教会にたいして「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」と、警告されています。


ミカは、自分たちの貪欲によって他人の家畑を欲しがり、かすめとり、他人の相続地を取り上げ、自分たちの意に神の霊を従わせようとしている(ミカ書2章2)イスラエルの民に向かって、神が示されることに従うことがたわごとのように思い、自分たちにとって都合のよいことだけを聞こうとすることに神ががまんされているだろうか、と問いかけています。 

神の霊に従うだけでは不十分のように思い、主が働かれることや神の警告を馬鹿げたことのように思うとき、社会の秩序は乱れ、道徳は腐敗し、自由は自分勝手なものとなってしまいます。
自分たちの欲望や利益だけを優先させ、神の霊に従うだけでは不足しているように思い、主を待たずに自分の思いによって行動し続けるなら、わたしたちは神のみわざを体験することはできません。 
 
人々は神からの祝福を喜びます。 
わたしたちは、誰でも神の裁き、罪、義ということについて自分たちが裁かれることや、自分の罪、神の義の前で自分が不完全であり不義であることについて指摘されたくはありません。
誰でも自分たちにとって耳障りのよい、自分自身が高く評価されることに心が傾きます。
しかし、祝福を受け、それが神からのものであることを忘れ、自分の祝福があたかも自分の努力や能力によって達成したことのように錯覚し、神の霊に従い、主のみわざを待つことのないとき、人々は自分の貪欲に捉われ、神からの警告や罪にたいする裁きについて聞くことがたわごとを聞くことのように思えてくるのです。

イスラエルの民は、一人一人に語りかけられる生きた神のことば、神の律法、神のさとしを文字どおり受け取り聞き従うことがたわごとを聞くようなものだという態度をとり、ミカやイザヤ、ホセアたちの述べる警告や預言よりも、耳障りのよいことだけを述べる偽預言者たちを歓迎し、バアルの神や異邦の偶像の神々を拝みました。 

ミカは2章11節でも耳障りのよいことだけを述べる偽預言者たちについて、「もし人が風のまにまに歩き回り、偽りを言って、『私はあなたがたに、ぶどう酒と強い酒について一言しよう。』と言うなら、その者こそ、この民のたわごとを言う者だ。」 と、人々に耳障りのよいことだけを述べるものこそが たわごとを言っている偽預言者であり、いつまでも神の霊はそのような状態をがまんされるだろうかと警告しています。


イスラエルの民は神の霊に導かれ神に似たものへと変えられることより、自分たちの思い、自分たちに似せて神を作り上げようとしました。
このような人々にたいして、ミカは神のことばに聞き従い神の霊に従おうとするとき主の霊は不足することなく神のみわざを見ることができる、と述べています。

「彼らの心は神に誠実でなく、神の契約にも忠実でなかった。
しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押え、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。
神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、返って来ない風であることを心に留めてくださった。
幾たび彼らは、荒野で神に逆らい、荒れ地で神を悲しませたことか。
彼らはくり返して、神を試み、イスラエルの聖なる方を痛めた。
彼らは神の力をも、神が敵から贖い出してくださった日をも、覚えてはいなかった。
神が、エジプトでしるしを、ツォアンの野で奇蹟を行なわれたことを。
神がそこの川を血に変えられたので、その流れを飲むことができなかった。
神は彼らに、あぶの群れを送って彼らを食わせ、かえるを送って彼らを滅ぼされた。
また、彼らの作物を、油虫に、彼らの勤労の実を、いなごに与えられた。
神は、雹で、彼らのぶどうの木を、いなずまで、彼らのいちじく桑の木を滅ぼされた。」(詩篇78篇37-47)

民の心が神に誠実ではなく、神の契約にも忠実でなかったためにイスラエルには神の背きにたいする悲惨な結果がもたらされました。
しかし神は、彼らが肉にすぎず、吹き去れば、返って来ない風であることを心に留めてくださっています。
神は悲惨な状況のなかでも、悔い改め罪の告白をし、主の霊に信頼し、神のみわざを待ち望むとき素晴らしいわざをなさいます。

ミカは、罪の悲惨な結果や神の裁きについて、安易な妥協をし、彼らに迎合することばに耳を傾けるイスラエルの民に、神はそのような状態を見過ごし、神の霊が不足しているかのような態度をとる民にがまんされるだろうかと言っています。

現代もキリストの肢体である教会が、イエスの十字架の贖いと復活の福音を受け入れ、神のことばを文字どおり受け取り聞き従うことより、この世の人の思いに迎合し、神の霊に頼るだけでは不足しているように人々が思う状態にしばしば陥っています。

このような状態に陥ることに、19世紀の偉大な説教者チャールス・スポルジョンは、「主に立ち返ろう、もう一度私たち自身の人生に聖霊のバプテスマを受け、聖霊の火を心に燃やし主のなさる業を体験しようではないか。」と、神の霊に頼り、神の霊に従うときに、人の思いを超えて神のされる素晴らしい御業を体験できることを訴えています。

神はミカがイスラエルに警告をした時代も現代も変わってはおられません。
神は過去も現在も未来も変わることのないお方です。
主なる神は人々を愛しておられ、失われたものが救われることを願っておられます。
「この世の知恵は、神の御前では愚かです。神は知者たちをその悪知恵によって捕えられます。」(第一コリント人への手紙3章19) 

わたしたちが心を尽くして主を求め、神のことばがすべて神の霊感によって書かれたものであることを信じ、神のことばに聞き従おうとするとき、主の霊は、不足することなくわたしたちを満たし神に似た者へと変えてくださいます。

使徒パウロは、テモテに「 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(第二テモテへの手紙4章2-4)と述べています。

社会の秩序や道徳が乱れ家族が崩壊してゆくのを目の当たりにし、この世の知恵や知識によって人々が生ける神のことばをたわごとのように考え、わたしたちの現実の生活、人生を歩む上で神の霊が不足しているかように、キリストの教会のなかでも多くの人々が思っているのを見て、無力感に襲われることがあるかもしれません。 

しかし、わたしたちも不足することのない神の霊に満たされるとき、使徒パウロが述べたように、「 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ書4章11-13)ということが出来るのです。


 
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