いのちの代価

(マルコ福音書8章34-38)


イエスはこの箇所で、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」という意味深い二つの宣言をされています。
そして、この宣言に引き続いて「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」という問いかけをされています。

イエスがここで言われている「いのち」とは、何を意味しているのでしょうか。
わたしたちは、通常「いのち」ということについて、わたしたちの目に見える肉体のことを思い、肉体が滅びるとき、いのちを失うというように考えています。
「いのち」がわたしたちの肉体だけのことを意味しているのであれば、「いのちを失う者はそれを救うのです。」というイエスのことばは、意味をなさないものとなってしまいます。


わたしたちのいのちは、肉体ではなくわたしたちの目に見えない魂です。

羊飼いからイスラエル統一王国の王となったダビデは、詩篇のなかで「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」(詩篇42篇1)と詠い、わたしたちは、生ける神、わたしたちを創造された神を求め、魂が生ける神に出会うときに「魂」が満たされ、わたしたちのいのちの本質が魂であることを宣言しています。

多くの人は、肉体がわたしたちのいのちであるという誤解をしていますが、肉体はあくまでわたしたちの魂の思いをあらわすための幕屋、テントであり、一時的なものに過ぎません。

わたしたちを創造された神は、わたしたちの魂の思い、意志、感情などをあらわすことの出来るように肉体をとおして魂の思い、良心、意志、感情、を伝え表現するようにデザインされ、そのための精巧な機能を与えられています。
肉体が滅びるとき、わたしたちの魂は肉体から離れますが、魂がそれで滅びるわけではありません。
イエスは、十二人の弟子たちをイスラエルの村々に福音を伝えるために遣わされたときも、弟子たちに、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ福音書10章28) と言われ、警告と励ましを与えておられます。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9章27)ことが宣言されていますが、ここでも、すべての人が肉体の滅びの後で、魂が裁きを受けることが述べられており、肉体の滅びだけが人生の終わりでないことが示されています。

わたしたち人間の本質は魂であり、魂が意識を持った状態で存在することは、イエスの語られた、生前惨めな貧乏人であったラザロという名の男と毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちの男がわたしたちの目に見ることの出来ない黄泉においてどのような状態に置かれていたか、という話によっても証しされています。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても彼らは聞き入れはしない。』」(ルカの福音書16章19-31)

イエスの語られたこのラザロと金持ちの男が死んだ後にどのような状態になったのか、という話は、譬えではなく、わたしたちの目に見えない時空を超えた世界で、現実に起こっている出来事をイエスが語られたものであると理解されています。

この金持ちだった男が黄泉において生前の自分にたいして行われている裁きに苦しみ、生きている者達へ警告を与えたいと願っていることからも、肉体の死が存在の最後ではなく、魂が肉体から離れた後も意識があることがわかります。

使徒パウロは、「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」(第一コリント人への手紙15章50-53)

「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。 」(第二コリント人への手紙5章1-4)

と述べて幕屋である肉体の滅び、死が存在の停止を意味しないことを宣言しています。

自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエスに従い人生を歩むものはいのちを豊かに受け、いのちを救おうと思う者はそれを失い、イエスと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。 


イエスは、この宣言をされ、続いて、「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」という問いかけをされています。

多くの人が今も昔も自分のためにより多くを得ようと生涯の人生にエネルギーを注ぎ込んでいます。
ごく短期間のうちに古代世界を征服しギリシア帝国を築き、その文明の影響を世界に及ぼしたアレクサンダー大王は、世界制覇を現実のものとした時点で征服する対象がなくなったことを嘆き、雨露に濡れて陣営の外を彷徨い、肺炎を起こして急死してしまったとされています。
日本でも公家が権力を握り、公家を守るための御家人であった武家から身を起こし、公家の頂点である太政大臣にまで昇進し、天皇までも退即させ、自分自身の孫を天皇として即位させ、自分は天皇の外戚として権力を振るった平家の平清盛は、権力の頂点に立った後で熱病に罹り、突如死んでしまいました。
世界を制覇したり、国の権力の頂点に立つというような野望を達成することができなくとも、多くの人々が虚しいこの世の栄華や虚栄のために、イエスにある永遠のいのちを得ることなく、肉体の死とともに、創造者である神からの裁きと滅びに至る人生を歩みます。

この世の権力や栄華が無価値だということではありませんが、人間が絶対的な権力を握ったり、想像を超えるような富を持つと完全な腐敗がもたらされます。

この世の君であるサタンは、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ4:9)と、この世のすべての国々と栄華はサタンのものであると宣言しました。  

この宣言にたいしてイエスは異論を唱えられませんでした。この世がサタンの支配下にあり、国々とその栄華はサタンのものという宣言は残念ながら、有効なものだったからです。

わたしたちが人生のエネルギーを注ぐ権力や富が、この世の君サタンの支配下にあるというサタンの宣言は、有効なものであり、罪の贖いをされたイエスがこの世の所有宣言をされ、再び神の国を建てられるまでこの事実は変わりません。そして、この世の様々な悲惨な出来事、貧困、飢餓、病い、争い、などはサタンによってひきおこされ続けています。

人はたとえ全世界を差し出したとしても自分のいのちを買い戻し、永遠のいのちを得ることはできません。

権力や富を人生の目的、神とすることは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
多くの人々がサタンの惑わしと欺きのなかで、権力や富どころか欲のためにより無価値なものと引き換えに自分のいのちを滅びに至らせています。

「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
衣食があれば、それで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(第一テモテ書6章6-10)


いのちを与え創造された神は、わたしたちがサタンの欺きによって死と滅びに至るものとなってしまったにも拘わらず、わたしたちの魂を愛され、全世界を差し出すことよりも重い罪の代価を払っていのちを買い戻されました。

「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ福音書3章16-17)

わたしたちは、使徒ペテロが宣言しているように、わたしたちが贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。



 
マルコ福音書のメッセージ


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