主に触れる信仰

(マルコ福音書5章36)


マルコの福音書5章21節からの箇所には、イエスに触れていただくことを願ってイエスのもとに来た人と、イエスに触れようとやって来た人の対照的な、しかし非常に類似する二人の人のことが記されています。

イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。(マルコ福音書5章21-43).


イエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、会堂で人々を教えられ、安息日に片手のなえた人を癒されました。
安息日に癒しの業をすることが、安息日の伝統的な規定に違反しているとして、イエスに激しく反対するパリサイ派の人々はヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスを葬り去ろうとし始めました。(マルコ福音書3章参照)

そのため、イエスは弟子たちとともにガリラヤ湖のほとりで群衆を教えられ、多くの人を癒し、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来ました。

イエスの評判がガリラヤ全地、デカポリス全土に広まり、至る所から人々がイエスのもとに集まり、さまざまの病気にかかっている多くの病人や悪霊につかれた者がやって来ました。

イエスがどこに場所を移しても、群衆はイエスのもとに群れ集まり、イエスの周りは人々の群れで埋め尽くされました。

イエスにのもとに群れ集まり、イエスに触れ、触れられることで癒されることを期待してやって来た一人は、カペナウムの村の会堂長ヤイロという人でした。
もう一人は、群衆のなかからなんとかしてイエスに触れ、イエスに触れることで癒されることを願った女でした。

ヤイロには可愛いがっていた小さな娘がおり、この娘が死にかかっていたために最後の望みとして、イエスに触れていただくことで娘の癒されることを願いやって来ました。

会堂長だったヤイロは、イエスが安息日にカペナウムの村の会堂で、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われ、会堂に居合わせた人々の心のかたくななのを嘆きながら、「手を伸ばしなさい。」と言われて、安息日に手のなえた人を癒され、パリサイ派の人々がヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスを葬り去ろうとしたことを知っていた筈でした。
このときの出来事がイエスにもヤイロにもそれほど昔ではない過去の出来事であり、同じカペナウムの村の会堂で起こった出来事であることから、明らかにヤイロも会堂長としてイエスに反対する勢力の一人であったことは間違いありません。

しかし、会堂長ヤイロにとって、この箇所では状況がまったく異なっていました。このときは、ヤイロにとってかけがえのない幼い娘が死にかけていました。そして、ヤイロはイエスが人々を癒されるのを目撃し、イエスの奇跡的な癒しの力を知っていました。


人は絶望的な状況に陥ると、普段は考えられない行動を起こします。
絶望的な状況のなかでは、偏見を超えて希望を見出すことのできるものにすがろうとします。
ヤイロはイエスを見て、その足もとにひれ伏し、「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」と、懇願しました。
この時点ではヤイロは、自分の会堂長としての立場やパリサイ派の人々や他の会堂長たちが自分のことをどう思うかということは眼中にありませんでした。
ヤイロはイエスにたいする信仰の表明をし、「娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」と一生懸命願いました。

イエスは、会堂を司る人々、パリサイ派やヘロデ党の人々がイエスを葬り去ろうとしていることには一切言及されず、彼といっしょに出かけられた、と記されています。

イエスは、信仰によってイエスに来ようとする人に、過去の過ちを咎めることを一切言われていません。

人々は、しばしば過去の過ちを恐れるあまり、イエスのもとに来ることを避けようとします。
自分の犯した過ちが非難に値することを知り、そのことを意識するほどイエスから叱責されることを恐れます。
しかし、聖書の中には心からイエスに助けを求める人が、イエスから叱責を受けるという記録はどこにも見当たりません。
イエスは常に人々に助けの御手を伸ばされたいと願っておられます。

ヤイロは、イエスのもとへ来ることで失うものを多く持っていました。パリサイ派の人々はヘロデ党の人々とともに、会堂でイエスがメシアであることを認める人々をイエスとともに葬り去ることを決めていたため、イエスのもとに来ることによってイスラエルのシナゴーグといわれる会堂の長としての地位は危ういものとなったに違いありません。
なぜなら、イスラエルのシナゴ-グといわれる会堂は、イスラエルがバビロニアに捕囚になったときも、その後帰還して国内に会堂ができるようになってからも、パリサイ派と呼ばれる律法を伝統的に守ろうとする人々によって運営されてきたからです。
しかし、ヤイロにとってイエスのもとに来ることで、会堂に集う人々、友人を失うことや会堂長としての地位を失うことより、娘のいのちが救われることのほうが大切でした。

絶望的な状況のなかでヤイロにとっては、イエスのもとに来ることだけが望みだったのです。
人々はイエスに来ることで友人や仕事仲間を失うことがありますが、絶望的な状況に陥ったときの唯一の希望はイエスにしかありません。


絶望的な状況に陥っていたもう一人の人は、長血をわずらい、社会から疎外されていた女でした。
レビ記に記されている律法には、「もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。彼女がその漏出の間中に寝る床はすべて、月のさわりのときの床のようになる。その女のすわるすべての物は、その月のさわりの間の汚れのように汚れる。」(レビ記15章25,26)という規定があり、この女は汚れたものとされて、社会から疎外された存在でした。この箇所に、彼女がすべての貯えを医者に費やしてしまったにも拘わらず、長血は一向に良好な状態にならなかったと述べられています。

ヤイロの家族に娘が授けられ、明るい希望が訪れるちょうど同じ頃、この女は長血を患い、暗い失望の日々を向えることになりなりました。
十二年という歳月は、希望と喜びに満ちたものであれば、短い歳月に感じられたことでしょう。しかし、暗い失望の日々であれば、同じ年月がいつまでも続く悲惨な人生であったに違いありません。

この女も、イエスが病を癒すことの出来るお方だということを信じました。
彼女は、イエスを取り囲んでいる群衆のあいだをかき分けてでも、もしイエスに触れることさえできれば、病は癒されるという思いを抱きました。

神がわたしたちを癒され、イエスが希望をもたらされることを信じても、そのままでは積極的な信仰にはなりません。
この女のように、今、自分がイエスに触れることさえできれば癒されるという、触れるための行動を起こすことによって積極的な信仰が引き出され、強められます。

大ぜいの群衆は、イエスのもとに群れ集まり、イエスの周りは人々の群れで埋め尽くされ、多分歩くことさえ容易ではないほど人が押し合い、ヤイロが弟子たちとともに群衆をかき分け必死でイエスの通られる道を開けようとしているなかで、イエスは突然立ち止まられ、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われました。

このイエスのことばに、弟子たちは驚いたことでしょう。
大勢の群衆が押し合い、イエスにに触れようとしているなかで、弟子たちが「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」と、問い直したのは尤もと言わざるを得ません。
この女にとって、十二年間もの間、癒されることのなかった長血が癒される唯一の希望は、数々の病人を癒し、悪霊を追い出されたイエスに触れることでした。

彼女は、イエスの着物のすそにでも触れることができれば、きっと癒されることを信じました。
彼女は群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物に必死で触れました。そして、イエスに触れると同時に血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じました。

イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われたのでした。

女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けました。
そこで、イエスは彼女に「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と、慈しみをもってことばをかけられました。


会堂長ヤイロとこの女の二人は、立場も状況も異なっていましたが、絶望的な状況に陥れられ、イエスだけが残された癒しの唯一の希望であるということで共通点がありました。 

イエスが大勢の群衆がひしめき合うなかで、死にかかっている娘を癒すという緊急事態に立ち止まられたのは、十二年間という期間長血を患っていた女がイエスに触れて癒されることを目撃することで、ヤイロの信仰を強められようとしたからでしょう。

イエスが、まだ話しておられるときに、ヤイロの家から人がやって来て「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」 と、娘の死を告げました。

イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂長ヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。」と、言われました。

ヤイロにとって、この時点で娘の死の報告を聞くことほど心に恐れを抱かせる状況はなかったでしょう。
わたしたちも、状況に捉われるとき不安や心に恐れを抱きます。
しかし、イエスが、彼に「恐れないで、ただ信じていなさい。」と、言われているように、イエスの癒しと、イエスのやり方に全面的な信頼をするとき、わたしたちは恐れから解放され、望みを抱くことが出来ます。
恐れとイエスにたいする信頼は、互いに相容れることがありません。


イエスは、群衆のあいだをわけて進まれ、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しになりませんでした。

彼らが会堂長の家に着くと、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になりました。
当時は人が死ぬ死人を悼み、泣く人を雇って悲しみをあらわしましたが、雇われた人々は競って大声で泣いたり、わめいたりするのが慣わしでした。
イエスは、中に入られると、彼らに「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」と言われました。
人々はイエスをあざ笑いましたが、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれました。
そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と、アラム語で言われると十二歳になっていた少女はすぐさま起き上がり、歩き始めました。
人々はたちまち非常な驚きに包まれましたが、イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われました。

イエスの御手は愛の御手であり、わたしたちにも御手を伸ばされ触れたいと願われています。

イエスが触れられるとき、わたしたちは癒され、いのちを与えられます。
イエスは、わたしたち一人一人に触れ、永遠のいのちを与えようとされています。
イエスが触れるとき、わたしたちはわたしたちを滅ぼそうとする闇の力から解放され、力をあたえられます。

多くの群衆がイエスのもとに群れ集まり、イエスに触れたことは間違いありません。
しかし、この箇所には、イエスへの強い信頼と信仰をもって行動を起こした女と、自分の立場を捨てて娘の死という絶望的な報告を聞いてもイエスに信頼した二人の人が、イエスの癒しを体験したことだけが描かれています。

信仰をもって主に触れ、主の御手に触れられるるとき、わたしたちは癒され、いのちを与えられます。
主に触れる信仰は、すべての恐れをわたしたちから取り除きます。



 
マルコ福音書のメッセージ


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