イエスを否む

(マルコ福音書14章66-72)


ゲッセマネの園で、イエスはいよいよご自分が十字架に架かられるときの来たことを知って、ヤコブ、ヨハネ、ペテロの三人の弟子を連れ、彼らに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさまして祈っていなさい。」と言われ、そこから少し進んで行って、地面にひれ伏し、「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままをなさってください。」と、祈られました。

それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見られて、ペテロに「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と言われ、再び離れて行き前と同じことばで祈られました。

イエスがまた戻って来ると、彼らはひどく眠けがさしていたので、また眠っていました。彼らはイエスにどう言ってよいか、わかりませんでした。
そして、また三度目に戻って来て、ご覧になったときも彼らは眠っていました。
このとき、イエスは、「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」と言われ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられた剣や棒を手にした群衆とともに現われました。


イエスは捕らえられ、彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな集まり、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めました。
イエスを訴える証拠が何も見つからなかったので、数人が立ち上がって、イエスに対する偽証をして、 「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました。」と言いましたが、この点でも証言は一致しなかったので大祭司が立ち上がり、真中に進み出てイエスに「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか。」と尋ねました。

イエスが黙っていて、何もお答えにならなかったので、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか。」と再び聞きただしました。
イエスは、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう。」と答えられたので、大祭司が自分の衣を引き裂いて「どうして、これ以上、証人の必要があろう。あなたがたはこのけがし言を聞いた。あなたがたの意見はどうか。」と、言うと長老、律法学者によって構成される議会の皆がイエスは死に当たるものと断定しました。

そして、ある者はイエスにつばきをかけ、目隠しをし、こぶしでたたいて、「言いあててみよ」と言いはじめました。また下役どもはイエスを引きとって、手のひらでたたいたりしました。


このとき、ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行き、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていました。

ペテロは、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と、力を込めて言い張ったにも拘らず、「あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」と言われたイエスのことばどおり、のろいの言葉さえ口にし、激しく誓ってイエスを否みました。

わたしたちも、イエスに従い、自分では決してイエスを否んだり、裏切ったりしないと思いながらもペテロと同じように気づかないうちにイエスから離れ、イエスを裏切るということがしばしばあります。

自分に限って誘惑に負け、抜き差しならない罪の状況から抜け出すことができずに苦い人生の失敗に陥ることなどあり得ないと思っていても、誘惑に惹かれ罪に陥ることがしばしばわたしたちの人生に起こります。 

ヤコブは、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」(ヤコブ書1章13-16)と述べ、誰でも自分の肉の思いに押し流され、欲に引かれて罪を生み、罪が熟して死に至る危険について警告をしています。

ペテロが、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と言い張ったにも拘わらず、イエスを否んだことを観察すると、彼の失敗は、いくつかの段階を経ていることに気づかされます。


ペテロがイエスを否むことになった最初の兆候は、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」というペテロのことばのなかに隠されています。
イエスは、何度もご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示されました。しかし、弟子たちはイエスのことばの意味が理解できず、イエスがメシアとしてご自身を公にあらわされるとき、イスラエルのみならず、ローマをも支配され治められる王となられることを期待し、そのときには誰がイエスに仕えるもののうちで一番偉いのかということが、最後まで彼らの関心の的でした。
ペテロが心から「たとい、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と言ったことは疑う余地がありません。
しかし、彼の宣言にはたとえ他の弟子たちがイエスを裏切るようなことがあっても、けっして自分に限ってイエスを裏切るようなことはない、自分こそがイエスに従う一番弟子であるという、自分自身を誇る肉の思いと自負がありました。

使徒パウロは、「 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない(ロマ書7章18)と述べています。さらに、「 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。」(第二コリント書3章5) とも述べ、誰も神の前で肉の自分を誇ることなどできないという正しい自分の評価について述べています。

ペテロは、肉の思いによって、自分こそは、と自分を誇りました。


イエスが弟子たちと、過ぎ越しの祭りの夜に、パンと杯をとられ最後の晩餐をされた後で、弟子たちに「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。(ゼカリア書13章7参照)』と書いてありますから。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」と言われているのに、ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」と、イエスのことばに真っ向から反対し、自分の意見を主張しました。 
たとい、動機がどのようなものであっても、もし、わたしたちが主なる神、あるいは神のことばに真っ向から反対するなら、過ちは必ずわたしたちの側にあります。
 
ペテロはイエスが言われていることに真っ向から反対し、自分の主張を言い張りました。


さらに、ゲッセマネの園でイエスがヤコブ、ヨハネ、ペテロの三人の弟子を連れ、彼らに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさまして祈っていなさい。」と「目をさまして祈っていなさい。」とイエスに言われたにも拘わらず、イエスが戻って来たとき、彼らは眠ってしまい、イエスがペテロに「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」 と言われた後も、イエスが再び三度目にまた戻って来て、ご覧になったときも、彼らは眠っていました。

わたしたちは、霊的な戦いのなかにおかれています。
悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固め、絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがないようにしていることが、戦いの鍵なのです。
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いだということを使徒パウロは述べています。
主の霊によって、祈ることが霊的な戦いの勝敗の鍵を握ります。
「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」(第二コリント人への手紙10章3,4)

霊の戦いのなかでは、肉の武器は役にたちません。しかし、ペテロは、イエスを捕らえようと大祭司、長老に差し向けられた群集がやって来たとき、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかりました。

ペテロは、最も祈りの必要なときにイエスに目を留めて祈るかわりに、眠ってしまい、霊の戦いのなかで肉の武器、剣を抜いて切りかかりました。 


イエスが大祭司のところへ連れていかれるとき、ペテロは遠くからイエスのあとについていき、大祭司の庭の中へはいっていきました。
わたしたちは、しばしば遠くからイエスのあとについていこうとします。
天地を創造された神、イエスがメシアであり主であることを告白し、他の人たちにイエスの贖いの素晴らしさ、福音を伝えることを臆することがあります。
イエスを信じていることが嘲りの対象になるのではないかと恐れるのです。
イエスは、「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ福音書10章32,33)と言われています。
もし、この世の思いとこの世に妥協しながら、イエスとともに人生を歩もうとするならば、その人の歩みは必ず中途半端でイエスを裏切る歩みとなります。
もし、この世に妥協し、一方でキリストにある永遠のいのちを求めようとしても、それは遠くからイエスのあとについてゆくということであり、このような歩みは必ずイエスを主と認めないこの世の流れに押し流されてしまうでしょう。

イエスのあとに従うには、遠くから従うのではなく、イエスにより近づくことが求められます。


ペテロは大祭司の庭の中で、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていました。 ペテロのこのときの行為は、敵の人たちと一緒になって暖をとるという行為でした。
敵と一緒になって暖をとっていれば、必ずキリストの暖かい愛から自分で遠ざかることになります。
もし、イエスを自分の救いであると信じながら神を否定し、イエスを否定する人々とともに暖をとるならば、ペテロが役人の女中から「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった。確かにあなたは彼らの仲間だ。」と言われたとき、激しく否定したように、わたしたちもそのような状況に自分の身をおくことになります。

ペテロは、イエスに敵対する人々と一緒になって、敵の火によって暖をとりました。
この世のイエスを主と認めない人々とともに、彼らの暖まろうとする場所に自分の身を置き、自分も暖をとろうとすることは、イエスを裏切る状況に陥る危険を常に含んでいます。

ペテロがイエスを否定することをイエスは知っておられましたが、ペテロ自身にとって、このときにイエスを否んだことは、自分の持っていた決意や自信が根底からくつがえされる苦い経験となりました。
ペテロと同じように、困難や苦境に立たされたとき、わたしたちも、ことばや行いによってイエスを裏切ることがあります。
しかし、わたしたちが失敗を認め、主に立ち返るとき、過ちを悔い泣いて自分の失敗を告白したとき主がペテロを許されたように、必ず主はわたしたちをも許してくださいます。


後に、ペテロは復活のイエスによってこのときの失敗から立ち直り、イエスを救いとして選ばれたものとなることを確かなものとするように、わたしたちが御ことばに留まり続け、預言のみことばに目を留めているように励ましを述べています。 

「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。
このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。
ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。
私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。
それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。
また、私の去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こせるよう、私は努めたいのです。
私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』
私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」(第二ペテロの手紙1章11-19)



 
マルコ福音書のメッセージ


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