金持ちの若い役人

(マルコ福音書10章17-18)


ピリポカイザリヤの地でペテロがイエスのことを生ける神の御子キリスト、メシアであることを告白した直後に、イエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められました。
その後、ガリラヤ地方最北の高い山の上で栄光の姿に変貌されたイエスは、山を降りると、ご自身がこの世に来られた目的を弟子たちに告げられました。
そして、再度カペナウムの村へ戻る途中で、再び弟子たちにご自身が(最初8:31-38、二度目9:31-32)エルサレムの都で人々の手に引き渡され、十字架に架けられ殺され、三日の後によみがえる、ことを予告されました。
弟子たちは、イエスが言われたことばの意味が理解できず、道々、だれが一番偉いかと論じ合いカペナウムからユダヤ地方をとおってエルサレムへ向かう旅をはじめられると、イエスがメシア、人々に油注がれた君臨される王として公にご自身をあらわされることを期待しました。 

このときも、群衆がつねにイエスたちのまわりに集まって来たので、イエスは、またいつものように彼らを教えられました。
人々は、イエスにさわっていただこうとして、子どもたちを、みもとに連れて来ましたが、弟子たちが彼らをしかっているのを見て、イエスは、憤って、「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」と、彼らに言われ、子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました。


イエスが道に出て行かれると、イエスたちのもとに集まってきた群衆のなかからひとりの人が走り寄って、御前にひざまずき、「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」と、尋ねました。

マタイ福音書には、この人が若く金持ちであった、と記され、マルコの福音書には、この人は多くの財産を持っていたと記されています。さらに、ルカの福音書には、彼が役人として支配的な地位の人であり、道徳的で立派な人であったことが記されています。

この青年はイエスに出会ったとき、イエスに対する尊敬の意をあらわし、御前にひざまずいて 
「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」と、イエスに尋ねました。

彼はイエスに、人生の量的ないのちについて尋ねたのではなく、質的ないのち、まだ自分では経験したことのない、わたしたちの努力や決心だけで到達することの出来ない、自分を超えたより質の高い永遠のいのちについて尋ねました。.
たとえ病を患いながら長生きをし、永遠に永らえてもその人の人生は惨めなものとなります。
たとえ富に恵まれても、それを楽しむことができず、より多くの財産を貯めることだけが目的となってしまうのなら、富も財宝も死とともに他人のものとなります。
どんなに高い地位についても、腐敗がもたらされ、人々の妬みと反感の的となることがしばしば起こります。
人生において量的なものだけが増し加わっても、質的に人生を満たすものでなければ、本来幸いをもたらすはずのものが呪いにさえ変わります。

イスラエルの王として栄華を極めたソロモンも、この世で得られる知恵、富、栄華、建造物、快楽のすべてを追求し、それを得た後で達した結論は、空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。と、述べています。

この青年は、イエスに、この青年が持っていた金や財産、地位、若さ、よい性質というものだけでは得ることのできない質の高い永遠のいのちを認めました。


イエスは、この青年が、走りよってイエスの御前にひざまずき、「尊い先生」と呼んだことにたいし、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。」と言われ、「尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません」と言われています。

イエスが言われた、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません」ということばの意味は、
イエスは「尊い先生」と呼ばれるには値しない。と言う意味か、 
青年が「尊い先生」と呼んだイエスこそが神である、わたしが神であるという意味の、二つのうちの一つの意味にしかなりません。

イエスは、ご自身を尊い先生と呼ばれるには値しないと言われたのでしょうか、それともご自身が神だと言われたのでしょうか。

イエスは、「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」(ヨハネ福音書8章29)と言われ、神とひとつの方であることを宣言されておられます。また、「 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。」(ヨハネ福音書6章46)と言われ、イエスを見たものは神を見たものだと宣言されています。
イエスが、ご自身を尊い先生と呼ばれるには値しないと言われたのではないことは明らかです。

青年がイエスにある永遠のいのちを認めることができたのは、イエスご自身が神だからです。 青年が求めても得られない永遠のいのちは神によって得ることが出来るものです。
イエスは青年に、永遠のいのちは、どんなに道徳的であり財産を貯め、地位を得ても生ける神との関係を持つことなしに獲得することができないことを知らされようとされたのです。

イエスの青年にたいする応答は、ある人々には疑問を抱かせる不思議な応答のように思えます。しかし、イエスは、この青年にご自身が神であることをよりはっきり意識させ、示すために、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」という応答をされました。

イエスは、この青年が質の高いいのち、永遠のいのちをイエスに認めたのは、イエスが神であるからだということを気づかせようとされたのです。


多くの人々が、もし、もっと多くの財産を持ち、金持ちであればと思います。
あるいは、もし、もっと若く人生を楽しむことができればと望み、自分が地位を持ち支配的な影響を人々に持つことが出来ればと願うかも知れません。あるいは、自分がもっと人に好かれる善い性質であればということを願う人もいるでしょう。

この青年は、若く、金持ちで、多くの財産を持ち、役人として支配的な地位にあり、道徳的で性質の善い、通常人々が人生で求める全てを持っているように見えました。
しかし、この人は自分の心のどこかで空虚さを覚えていました。

イエスは、「永遠のいのちを自分のものとして受けるために、何をしたらよいでしょう。」という質問に、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」と言われ、この青年に直接答えるかわりに、「戒めはあなたもよく知っているはずです。
イエスは、「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。」と、モーセが十戒として神から与えられ、二枚の板に刻まれた律法の、二枚目の人と人との関係について述べられている戒めを引用されました。そして、イエスはその人をいつくしんで見つめられたと述べられています。 

このイエスが言われた問いかけに、この人はすぐに「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」と答えました。

マタイの福音書には、この青年が「私はそのようなことをみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」(マタイ福音書19章20)と、答えたことが記録されています。
この青年は他の人と比べても道徳的な、善い性質を備えた人であったことが伺われます。
彼は、殺人、姦淫、盗み、偽証、欺き取ることをせず、、父母を敬い、消極的な意味で律法を守ることが戒めを守ることだと真摯に思っていたようですが、神の戒め、律法が神と人との愛の関係を持つことだという積極的な面には気付いていなかったようです。 

イエスは、青年にモーセの律法を引用されたとき、二枚の板に刻まれた律法の、一枚目の板に刻まれた、神と人との関係について述べられている戒めについては引用されませんでした。

一枚目の板に刻まれた神と人との関係についての戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」という戒めであり、この戒めは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という戒めとして要約されています。

多くの人々が犯す、殺人、姦淫、盗み、偽証、欺き、父母を粗末に扱う、といったことをせず、道徳的な生き方をしているとき、人は自分が宗教的、律法的に善い人であると思い込みます。

他人との関係を上手に保ち、道徳的で善い人々は世の中に存在します。
このような人は、道徳的で善い人であるが故に、逆に自分が創造者である完全な方、神との関係が必要であることに気づかない、あるいは必要としていないことがしばしばあります。
イエスは、この青年が求めた永遠のいのちが、わたしたちを創造された神との生きた関係を持つことなのだということを、知らせようとされました。


イエスは、青年に、「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言われました。

イエスは、「持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」と言われていますが、永遠のいのちを得るものとなるために、「持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」と、言われたのでしょうか。
そうではなく、イエスは、この青年にとって神との生きた関係を持ち、イエスに信頼して永遠のいのちを得ることより富と財産が自分の魂のよりどころとなっていることを見抜かれ、イエスに従い天に宝を積む人生を送るために、障害となっているものを捨てなさい。と、言われたのです。

イエスが青年に言われたことばは、実はピリポカイザリアで群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」と、言われたときのことばとまったく同じであることに気付かされます。

ただこの箇所では、イエスは、この青年にとって永遠のいのちを得、イエスに従う人生を歩むために障害となるものが何なのかをより具体的に示されました。 

この青年には、富と財産がイエスについてゆくことの障害でした。

すべての人にとって、富、財産がイエスについてゆく障害になると、聖書が教えている訳ではありません。
自分自身を完全に明け渡しイエスついてゆく人生を歩む上で、他のなにかがイエスを主とすることより重要であり、障害となるものなら、その障害を捨てることが、自分を捨て、自分の十字架を負うことだと言っているのです。

人はそれぞれ富や財産のほかにも、自分自身を完全に明け渡しイエスついてゆく人生を歩もうとする上で障害となるいろいろな何かを持っています。

天に宝を積むためには、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という戒めを守る人生を送る以外の方法はありません。

わたしたちも、今、自分の魂を支配するものが生ける神なのか、それとも他の神々なのかを吟味することをイエスから問われています。
そして、わたしたちが永遠のいのちを得るものとなるために、イエスについてゆく上で障害となっているものを捨てなさい。と、言われています。


イエスが、「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と言われるのを聞いたこの青年は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。この箇所には、「なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」と、述べられています。

イエスは、青年が顔を曇らせ、悲しみながら立ち去るときにも青年を引き止めて、彼がついて来るために「富や財産を売り払わないでもよい」という妥協や強制をされていません。

神の国は、人の努力や決意のみで得ることはできません。イエスは、神がわたしたちの望みをかなえるためにどんなことでもすることが出来ると言われているのではなく、わたしたちが、神に心からより信頼するとき、神はどんなことでも道を開かれ可能にしてくださる、と言われています。 

神は決してわたしたちに借りをつくられる方ではありません。わたしたちが、自分を捨て、自分の十字架を負ってイエスについてゆくとき、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。

王として栄華を極めたソロモンは、伝道の書のなかで、「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道の書3章11) と述べ、すべての人が永遠の思いを与えられていると、言っています。

イエスに走りよって、「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」と、尋ねたこの金持ちの若い役人のように、すべての人が永遠の質の高いいのちを求め、それをどのようにしたら得ることができるかを心の底では求めています。

わたしたちの魂は深いところでわたしたちを創られた神との意味ある経験をすることを求め、魂を満たす、より質の高いいのちを求めています。

この青年は、イエスに出会い、真実な質の高いいのちに近づきました。彼はイエスが彼の魂のもっとも深いところで求めているものを満たすことが出来る方であることを認めました。 

イエスは青年の問いに対して基本的には「わたしについて来なさい。」と、答えられています。 それ以外のすべては、人生に付随することであり、わたしたちの魂はイエスについて人生を送ること以外に魂の深いところまでを満たすことができません。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽みを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(ヘブル書11章6、24-26)

イエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われています。イエスに従って人生を歩むことこそが、わたしたちが永遠のいのちを得る秘訣です。



 
マルコ福音書のメッセージ


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