イエスの権威

(マルコ福音書1章40-42)


マルコの福音書は、神の御子イエスが僕として仕えるために人としてこの世に来られ、神の人類に対するご計画に従順であられたイエスの素晴らしい知らせ、福音が動画を見ているような速いテンポで躍動的に描かれています。

イエスは、最初にガリラヤ湖北部カペナウムの地にあるユダヤ人の会堂で教えられ、汚れた霊に憑かれた人から悪霊を戒めて追い出され、人々は、イエスの権威ある教えに驚きました。
イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まり、さまざまの病気にかかっている多くの病人や悪霊につかれた者が、ガリラヤ全地からイエスのもとに集まって来ました。


この箇所では、ひとりのらい病に侵された人がイエスのみもとに来て願い、癒されたという驚くべき奇跡が記されています。

当時らい病は、原因が不明で、効果のある薬や治療法がみつからず、伝染性の不治の病とされていました。らい病に罹った人は、顔面や手足にひどい潰瘍ができて醜い形相となり、悪臭を放つことから、人々から忌み嫌われ、近辺の人々はもちろん、親兄弟までが偏見と差別のまなざしでこの病に罹った人を見るという恐ろしい病でした。

らい病については、モーセの律法(レビ気13章、14章参照)のなかにも述べられ、イスラエルの民のなかにらい病の疑いのある人についての詳しい規定が述べられています。          

この病は、はじめは皮膚のかすかな異常としてあらわれ、そのうち、皮膚が変色したり、腫れ物のようなものが出始め、進行すると顔や手足などの末梢神経が冒され、手足の機能の変調が見られ、顔の容貌が明らかに変わり、その後、耳や鼻が萎縮し、見た目にもはっきり醜い形相となり、また指や手足の硬直が始まると、歩き方や動作がぎこちなくなり、知覚障害も起き始め、転倒することが増え、それに伴って傷などが増え、免疫力が低下しているため治りも遅く、ほおっておくと化膿し、膿を持ち、同時に強烈な悪臭を放ち、たえず神経痛に襲われ、そのうちに歩くことも動くことも困難になり、そして全身がらい菌に冒され、死に至るという病です。
近年では、1873(明治6)年、ノルウェーのアルマウェル・ハンセン(1841-1912)が、結核菌に似た、抗酸菌の一種「らい菌」を発見し、この「らい菌」によって慢性の感染症が起こることが分かり、後年その差別的な歴史を考慮して「らい病」は「ハンセン病」とよばれるようになりました。

イエスがこの世に来られた約2千年前のイスラエルでは、らい病に罹った人はそばに人が近寄りそうなときには誰にたいしてでも「穢れている。穢れている。」と大声で叫んで警告を与えねばなりませんでした。らい病に罹った人は、社会から追放され、人々の忌み嫌う対象として人々や家族から隔絶され、孤独な生涯を送らねばなりませんでした。
らい病がどのようにして感染するのかは全く知られておらず、原因不明の謎に満ちた不治の病として人々に恐れられました。

このひとりの人は、らい病に侵され、イエスのみもとに来て跪き、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と願いました。

らい病が癒されるということは、人々にとって考えられないことでしたが、この人はイエスが不治の病を癒す権威を持っておられることを知り、「御心であれば、不治の病を癒し、きよめていただける。」ことを信じ、その信仰をイエスに表明しました。

この人にとっては、らい病が癒され、清められるのは、イエスの御心にかかっていました。


このらい病に罹った人の願いに対してイエスがどのように応えられたのかがこの箇所に記されています。

イエスはこの人を最初に、深く憐れまれたと記されています。
イエスは、この人の絶望的な状態をよくご存知でした。
らい病に罹っていたこの人にとって、心の絶望に対し深く憐れみを持って接する人の存在は、彼が最も必要としていたことだったでしょう。 

イエスは、人々が恐れ、忌み嫌い、近づくことのなかったこのらい病の人の孤独、病の苦しみ、絶望を深く憐れまれました。

らい病がどのくらい進行していたのか、この箇所に記されてはいませんが、らい病に罹った人が身体を腐らせ、多くの場合、五体のいづれかが腐り、手足が不自由になることから、この人も人目に醜く、手足のどこかが不自由となり、化膿し、膿をもった身体からは悪臭を放っていたかもしれません。
しかし、イエスは人々が触れることを恐れるらい病のこの人に向かって、深く憐れまれたばかりでなく手を伸ばされました。
この人は、らい病に罹ってから他の人から触れられることなどありませんでした。
モーセの律法では、らい病人に触れることは禁じられていました。そして、らい病人に触れる人は、触れた人も汚れたものと看做されました。

「患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。
その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」(レビ記13章45,46)

それにも拘わらず、イエスは手を伸ばされこのらい病の人に触れて、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。
イエスの権威ある言葉によって、イエスがことばを発せられた瞬間にこのらい病の人は癒されました。


イエスの発したことばは、はじめに神が「光よ。あれ。」と仰せられ、光ができたときの権威がありました。
イエスは、「初めから神とともにおられ、すべてのものは、この方によって造られ、造られたもので、この方によらずにできたものは一つもありませんでした。」(ヨハネ福音書1章2、3)
イエスこそ、はじめに無から有を生み出され、地は形がなく、何もなく、やみが大いなる水の上にあったとき、水の上を動かれていた神の霊とひとつの方でした。

イエスのことばには最終的な権威があり、この方のことばに従うとき、すべての人生の問題に対する答えが与えられ、この方によって裏切られることのない希望を持つことが出来ます。

イエスが、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われ、手を伸ばされこのらい病の人に触れられると同時に、彼のらい病に冒され皮膚が白く化膿し膿をもった肉で醜く変形した身体が、正常な血色のよいピンク色の皮膚となって身体が正常な状態に戻りました。     

イエスは、このらい病の人を癒されると、「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」と言われ、モーセの律法に定められたように、癒された皮膚を祭司に見せた上で、彼がきよいということを宣言してもらい、この人が通常の社会生活に戻ることのできるように命じられました。

らい病が不治の病にも拘わらず、レビ記のモーセの律法にはらい病が癒され、社会に復帰するときの規定が明記されています。

「らい病人がきよめられるときのおしえは次のとおりでなければならない。その者を祭司のところに連れて来る。
祭司は宿営の外に出て行き、調べて、もしらい病人のらい病の患部がいやされているなら、
祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。
祭司は、土の器に入れた湧き水の上で、その小鳥のうちの一羽をほふるよう命じる。
生きている小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプといっしょに取り、湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、その生きている小鳥といっしょにそれらを浸す。それを、らい病からきよめられる者の上に七たび振りかけて、その者をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。
きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びる。その者はきよい。そうして後、彼は宿営にはいることができる。」(レビ記14章2-8)

何故、不治の病、らい病が癒され、癒された人が社会に復帰するときの規定などが決められたのでしょうか。
清いものとなるための律法をとおして、絶望的ならい病の癒しと、癒されるものへの律法が定められているのは、汚れによって治ることのない絶望的ならい病という人生における病のなかでも、神の憐れみと恵みが及ぶことが示されるためだと思われます。
恐ろしい不治の病に罹っても、生ける創造者である神は、神の恵みによって不可能に思える滅びと死に至る病を清めの日に癒される権威をお持ちになっていることが示されています。

らい病は、原因が不明で効果のある治療法がみつからず、伝染性の不治の病ということが、罪と同様の問題をもっていることから、聖書のなかではしばしば罪を示す型、比喩として描かれています。 

らい病も罪も最初はそれほど重大には見えなくとも、そのままの状態では病の進行とともに正常な皮膚が変色したり、腫れ物のようなものが出始め、神経が冒され、機能が変調し、萎縮と硬直が起こり、醜く膿がたまり、死に至ります。

誘惑に陥り罪の虜となってゆくとき、はじめは罪がそれほど重大であることに気付きません。
しかし、罪の虜となってゆくとき、感覚は麻痺してゆき、罪の意識すら薄れてゆきます。明らかに正常なときの機能が失われ、罪を指摘されても自分ではそれを否定し、心の奥底では萎縮していても表面的にはより頑固に心が硬直し、自分が醜く変貌してゆくことに直面することができません。
らい病の人も、罪に陥って人生を台無しにしてしまう人も、その周囲の人々には忌み嫌われ、多くの場合、社会から触れ合うということができない隔離された孤独な状態に陥ります。

このような絶望的な状態に陥っても、罪によって破滅的となった自分の状態に気付き、イエスのみもとに来て、「主よ。みこころでしたら、きよめていただけるのですが。」と、心から願うのなら、イエスはこのらい病の人に応えられたように、たとえ人生において、どんなに取り返しのつかない罪に陥った惨めな状態に陥っていても、深い憐れみをもって手を差し伸べられます。

わたしたちは、罪によって破滅的な人生を歩む人をみるとき、ちょうどらい病の人をみるように、彼らの悲惨な状態は自業自得によるもので自分とはかかわりのない、自分の人生には触れないで欲しいという思いに駆られ、そのような人が自分からは遠ざかっていてもらいたいと思います。 

しかし、イエスは人生において悲惨な状態にある人々に目を留めておられ、人生の悲惨な状態にあえぐ人々が、自分の惨めな状態に気づき心から「主よ。みこころでしたら、きよめていただけるのですが。」と跪いて、願うとき、深い憐れみをもってその人の悲惨な状態を救うために癒しの手を差し伸べ、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われます。


人は神に似せて創造され、神の祝福のなかでこの世を治めるように言われたにも拘わらず、神の言葉に従うよりも、神に背くもののことばを選び、神に背き、へびの誘惑とへびのことばに従うことによって、この世の君サタンの支配を受けるものとなってしまいました。
すべての人が神のことば、神の意志より自分の意志、自分の肉の思いを優先しようとする性質を持っています。
すべての人がそのままでは罪の性質を持っており、この状態を自らの力で変えることはできません。
わたしたちの罪の性質は、そのままではらい病の人とおなじように、罪の虜となっていることに気付かず、罪を否定し、罪にたいする感覚を麻痺させ、やがては滅びに至ります。

わたしたち自身の努力や決心によって、罪の性質を取り去り、清いものとされるということは不可能です。

わたしたちが自分の罪の汚れに気付き、心から悔い改めイエスに「主よ。みこころでしたら、きよめていただけるのですが。」と跪いて、願うとき、イエスは深い憐れみをもって、目を留め、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われ、手を差し伸べ、わたしたちをきよめてくださいます。

聖書は、わたしたちを罪の縄目から解放するのはキリストが十字架の上で流された血以外にはあり得ないという事実を宣言しています。

イエスがわたしたちの人生に触れられるとき、わたしたちの人生は新しく希望に溢れたものへと変えられます。



 
マルコ福音書のメッセージ


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