主の宝

(マラキ書3章16-17)


使徒パウロはエペソの教会に宛てた手紙の冒頭で、神が、世界の基の置かれる以前からわたしたちをキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ、また、イエスキリストによってご自分の子にしようと愛をもって定められ、キリストにあって真理のことば、救いの福音を聞き、それを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されていることを述べています。
そして、主イエス・キリストの父、栄光の神が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、わたしたちに与えてくださり、わたしたちの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかを知ることができるように祈っています。

「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、
時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」(エペソ人への手紙1章3-19参照)

イエスは、みもとに集まってきた群集に多くのことを、たとえで話され、「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。 」(マタイ福音書13章44)と言われ、畑 が神の作られたこの世、持ち物を全部売り払って宝を買い取る人がイエスキリスト、畑に隠された宝は、福音を信じ、イエスキリストによって贖われる人々であると言われています。

神が、わたしたちを畑に隠された宝であると宣言されています。

天と地とそのなかにあるすべてを創られ、聖なる永遠で全能の神が、イエスキリストのうちにわたしたちを選ばれ、御子の受けるべき相続にあずかり、主の宝と宣言されているのは何と驚くべき素晴らしいことでしょうか。


栄光に富んだ神の恵み、天と地とそのなかにあるすべてを創られ、聖なる永遠で全能の神の栄光と偉大さ、その愛の深さを知り心を震わせるような体験をする人々は、主を恐れ、神にたいする畏敬の念を抱きます。

澄んだ夜空を仰ぎ見、煌めく無数の星が何億光年の彼方に存在していることを思い、それら宇宙のすべてを創造された方を想い胸を打たれることや、夕日が沈むとき雲の色が微妙に様々な色に変化してゆく素晴らしい景色に誰でもが感動します。

壮大で荘厳な自然を見るとき、それを創造された方、全能で唯一の神の存在を理屈を超えて認めることのできる人々は、神に対する畏敬、恐れを持つことの出来る人々です。

生きた唯一の創造の神の栄光とキリストの十字架によってわたしたちを贖われた神の愛と恵みの深さに心を震わせ畏敬の念に打たれる人々は罪を憎みますが、罪のなかに生きる人は、創造の神の栄光も神の愛にも心を傾けることがありません。

神の恵み、愛を認め感動することがない人々の神にたいする恐れは、神の御手、神の裁きにたいする恐ろしさであって、神の栄光にたいする畏敬の恐れではありません。

主は「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」、また、「主がその民をさばかれる。」と言われています。
不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りは天から啓示されます。

「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。」(箴言8章13)

「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1章7)

「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。
いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか。
あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。
悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。」(詩篇34篇11-14)


マラキ書はイスラエルの民が一方的な神の愛、恵みに民が気づき、主への恐れと感動を再び民が思い起こすために記されています。
彼らは、バビロニアでの七十年間の捕囚からエルサレムに帰還し、国を再興する希望と期待に燃えて神殿と城壁を再建しましたが、暫く経った後に、最初の期待や興奮からさめて、神の愛、喜びによって行う奉仕、神の戒めに従順であることに無感動となってしまいました。

この箇所で、「主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。」と、述べられていますが、主を恐れる者たちが互いに主の栄光、主の愛、主の恵みを語り合うとき、主は耳を傾けて、これを聞かれています。
わたしたちが、目の前に見ることのできる状況にとらわれて神の栄光や恵みの素晴らしさよりも、神の公正さにたいして疑問をぶつけ、この世の不条理を神の責任であるかのように不平をつぶやくのは悲しむべきことです。

しかし、わたしたちを創られた神は、神の栄光と愛、恵みに心を打たれ、神を畏れる人々が互いに主の御名を尊び、生ける神の素晴らしさ、創造、贖い、恵みを賛美をもって語り合うことに耳を傾けられます。 

「主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。
主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。
主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。
主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。 主が行なわれた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。」(詩篇105篇1-5) 

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い、
彼らを国々から、東から、西から、北から、南から、集められた。
彼らは荒野や荒れ地をさまよい、住むべき町へ行く道を見つけなかった。
飢えと渇きに彼らのたましいは衰え果てた。
この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。
また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。
彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。
やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、
彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。
それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。
主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。
彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。」(詩篇107篇1-16)


わたしたちは、自分の愛する子供や孫の可愛らしい成長記録や、成長の段階で達成したことや表現した言動を保存し、子供たちの欠点や問題を忘れて大切に記憶にとどめます。  

神はわたしたちを愛され、主を恐れ、主に信頼し御名を尊ぶ者たちを記録し記憶されています。
 
主は主の愛と恵みに信頼せずに、状況に捉われて主との関係から離れ、不平と不満をつぶやくものを喜ばれません。人目には善に見えるときにも、もし主との関係から離れて自分自身の満足のためだけに行ったことを神は覚えられません。

イエスが言われているように「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ福音書7章21-23)と、言われているように、主の愛、恵みを喜び受け取らず、主を恐れない行いを続けるものは、裁きのときに「主よ、主よ。」と言っても、主の記憶の書に記されていないことがあります。

しかし、主を恐れ、主の栄光、愛、恵みを受け取り主の御名を尊ぶ人々を主は喜ばれ、そのような人々を主は宝とされ、主の前で記憶され、書に記されています。


 
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