地の塩

(マタイ福音書5章13)


約束された神の国の油注がれた王、メシアとしてイエスはこの世に来られました。

マタイ福音書五章からは、イエスを信じる御国の人々が持っている性質、あるいは持つべき態度について、1節から12節に「山上の垂訓」と、日本語で呼ばれているイエスの代表的な説教が宣言され、この箇所で、御国の人々の持つべきこの世での役割が比喩によって述べられています。  

イエスは、「あなたがたは、地の塩です。」と、弟子たちに向かって言われています。

イエスを信じる人々が地の塩であるとは、どのような意味なのでしょうか。そしてまたイエスがこの世に来られた約2千年前の当時、塩はどのような役目をもっていたのでしょうか。

古今を問わず塩は、わたしたちが生きていく上で重要です。
当時のイスラエル地域は岩塩から塩を精製し、銀の重さと精製された塩の重さが等価で交換された程、貴重であり、ローマ兵の給与は塩で払われたという記録もあります。
イエスが群衆に説教されたガリラヤ湖北西湖岸のカペナウム地区は、そのような塩などの行商路、アフリカ大陸から小アジアと呼ばれた現在のトルコへ、そして、ローマ帝国の首都ローマを結ぶ行商や軍事の要衝の拠点となっていたことは興味深いことです。そして塩けの無くなった塩はその行商、軍事上重要とされたヴィアマリスと呼ばれた路にまかれ、その上を人々は歩きました。

この貴重な塩は、主に食料を保存し、味を引き立たせることがその役目でした。
わたしたちも、様々なかたちで塩漬けにした保存食を口にしますが、新鮮な食物を冷蔵や冷凍する技術などなかった当時、塩の殺菌作用を利用して食料を塩漬けにすることは唯一の食料保存方法でした。

わたしたちは今でも塩が食物の味を引き立たせ、わたしたちがより食物を美味しく食べる上で欠かせないことを知っています。さらに、塩のきいた食べ物を摂ることによって渇きを覚えることを知っています。

イエスが、「あなたがたは地の塩である。」と言われるとき、明らかにイエスを信じる人々の生き方が、この世が腐敗してゆくことを防ぐ役割と、人生に風味を加え、そして人々に人生の意味についての渇きを覚えさせるものであることを意味しています。


神が天と地とそのうちにあるすべてを創造され、地のすべてを人に委ねられたとき、すべては完全で非常によいものでした。
しかし人がサタンの誘惑と欺きによって、神の言葉に背き、罪によって人が死ぬものとなったときから、この世は腐敗し滅びに至る道を歩みはじめました。

神はこの世の腐敗と滅びにたいして、人類の歴史全体をとおして介入されておられます。

人類の歴史がはじまって間もなく、この世は地上に人の悪が増大し、その心に計ることがすべて悪に傾き、この世は暴虐に満ち腐りきったものとなってしまいました。
そこで神はノアに、「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそう」と言われ、ノアとその家族八人を残してこの世には洪水によって滅びがもたらされました。

ノアの子孫たちは洪水の後で増えましたが、その後もこの世は腐敗と暴虐が絶えませんでした。神は人類の言語が分かれた後、まもなくメソポタミアの古代都市カルデアのウルから、アブラハムを引き出され、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章2-3」 という約束をされました。

神がアブラハムに約束されたとおり、アブラハムの子イサク、イサクの子ヤコブの家族はエジプトの地に移り、民族として増え、モーセの時代にエジプトの地から引き出され、律法を与えられ、神の律法に従う民が祭司の王国、聖なる国民となる約束が与えられました。

イスラエルの民が約束の地に入る前に、神は祝福とのろいについてモーセをとおして述べられ、民族を導かれた神との生きた関係のなかで、民が主の命令とおしえを守り、心を尽くし精神を尽くして、主である神に立ち返るならば祝福を受ける約束を与えられました。

神の約束どおり、イスラエルの民は土地を与えられ、人々が増え、祭司の王国、聖なる国民としての歩みを始めましたが、国が繁栄すると神より、自分が中心になり、そして腐敗がはじまり、腐敗のなかから神に助けを求めるという繰り返しをしました。

イスラエルが王国となったとき、神は統一王国の王として当時の中東地域を制覇したダビデに、「おまえのためにひとつの家を建て、日が満ちて、おまえが先祖たちと共に眠る時、おまえの身から出る世継ぎの子を、あとに起こし、彼の王国を確立させる。彼は、わたしのために、ひとつの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」という約束をされました。

ダビデの跡を継いだソロモンのとき、王国は北と南に分裂し、イスラエルの民には律法が与えられ祝福が与えられたにも拘わらず、腐敗と偶像礼拝によって国は滅び、民は異邦の王国バビロニア、ペルシァ、ギリシァ、ローマに従属を余儀なくされるという状態でした。

イスラエルの王国が北と南に分裂し、国が異邦の国々の侵略を受け、腐敗と偶像礼拝によって衰退してゆくなかにあっても、神は預言者たちを送られ、イスラエルの民の腐敗と偶像礼拝に警告を与えられ、北王国イスラエルがすでに滅び、、南ユダ王国も滅亡の際にあったとき、神は預言者エレミアをとおして「 見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と、モーセをとおして石の板に律法が書かれ、民に与えられたようにではなく、民の心に神の契約の律法が記され一人一人の心を変えるという約束をされました。

メシアであるイエスがこの世に来られ、福音が述べ伝えられた紀元後の世界でも、世界の歴史は、福音を受け入れた人々によって支えられ、異なった世界の国家の歴史のなかでも福音を受け入れる国々によって文明が牽引されてきました。
世界の歴史はこの世の腐敗と暴虐、偶像礼拝と、福音を信じこの世の腐敗を防ごうとする人々とのせめぎ合いの歴史を繰り返してきました。
十八世紀の終わり頃から神の創造を否定する進化論がより広く唱えられるようになり、すべての事象を客観的に観察し、法則性を見出すという科学の世界に、すべての事象が偶然から進化するという前提によって物事を理解しようとする進化論が、人類の考え方に大きな影響を及ぼすようになりました。
さらに、この頃からすべての中心は人であるとする人文主義の考え方が、文明社会に於いても人々の考え方に影響を与えました。

人は、創造者である神を否定し、救い主イエスを信じ生ける神との関わりを持つことよりも、自分たちが世界の中心だと考えることによってますます世の中は腐敗し、開発し発展させてきた科学技術を、大量殺戮の道具として使う状態にまで自分たちを追い込み、そのままでは互いに滅亡を招き入れるような腐りきった世に突入しています。

この世の腐敗と滅びの歴史は、生ける神を信じる人々の腐敗防止作用と浄化作用、生ける神への祈りなくしては、神の介入と癒しを期待することはできなかったことを証ししています。


イエスは、「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」 と言われています。

イエスは、イエスをメシアと信じる人々が、腐敗してゆくこの世にあって、防腐剤として殺菌作用、浄化作用を持つものとしてこの世で生きることを求められています。

この世が腐敗してゆくことを防ぎ、浄化されるためには、わたしたち一人一人の心が、イエスがこの世の罪による滅びから、わたしたちを救われるメシアであることを信じ変えられ、地の塩としてこの世の腐敗を防ぎ、この世の腐敗にたいして浄化される影響を与えることが一人一人に求められています。

心の悔い改めによって創造者である神の御心を知り、わたしたちを滅びに至らせる罪を贖い、神との和解を完成されたイエスに信頼するとき、神は、わたしたちの罪を赦し、わたしたちがへりくだって祈る祈りを聞かれ、罪を赦し地をいやされます。

地の塩として、イエスを信じる人々に求められていることは、神の霊感によって書かれた御ことばをとおして、聖書のことばに文字通り信頼を置き、生きた創造者である神との関係を日々深めることです。
御ことばを心にたくわえ、生きた神との深い関わりによって変えられなければ、この世の腐敗を防ぎ、人々の心を浄化することもない、塩気をなくした塩と同様となってしまいます。
もし、イエスをメシアと信じる人々が、神が望まれている基準よりも、この世に迎合しこの世の基準に合わせて自分の人生を歩むのなら、この世の腐敗や浄化の役目を果たすことはできません。

キリストを信じるという人々が聖書の御ことばを文字通り受け取らず、キリストの処女降誕、十字架の上でキリストが流された血の贖い、復活と再臨、三位一体、イスラエルの民への神の契約を否定し、聖書のメッセージに疑いを持つのであれば、地の塩として役に立つことはできません。

イエスを信じる人々が地の塩として塩気を保ち、この世にあって人々の心を浄化するような影響を与えるために求められているのは、この世から喝采を浴びることではなく、イエスキリストにある永遠の希望の素晴らしさを、その人の生き方をとおして伝えることです。

塩が食物に味を加え、塩を摂るときに乾きを覚えるように、イエスを信じる人々の生き方が、どのような状況にあってもキリストにある素晴らしい希望と深い心の喜びに裏打ちされ、この世の人々がそのような希望と喜びについて説明を求めるときに、だれにでも優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明できる用意をしている生き方が求められています。

イエスを信じる人々の生き方がこの世の腐敗を防ぎ、人々の心の汚れを浄化する影響を与えることなく、キリストにある希望と永遠についての渇きと深い喜びを、人々に与えることがないならば、塩気の失くした塩のように何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけのものとなってしまいます。

しかし、慈しみ深い神は、神の霊感によって書かれた聖書、神の御ことばに文字通り信頼し、イエスを主として歩むとき、神はわたしたちの心を変えられ、わたしたちをこの世に役立つ地の塩としてくださいます。



 
マタイ福音書のメッセージ


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