誘惑に打ち勝つ

(マタイ福音書4章1)


人としてこの世にこられたイエスは、公けの生涯をはじめられるとき、バプテスマのヨハネによって水のバプテスマを受け、水から上がられると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になりました。
また、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と告げる声が聞こえました。

その直後、御霊に満たされて最初にイエスの行われたことが、この箇所に記されています。

「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」

この世に来られたメシア、神の子イエスが御霊のバプテスマを受けられ、聖霊に満たされて最初にされたことが荒野で悪魔の誘惑に会われることでした。

この世を救うメシアとしてイエスが来られるずっと以前に、神はご自身に似せて最初の人アダムとイヴを創られました。神は素晴らしい園に人を置かれ完全な環境のなかで完全な自由を与えられました。
神は「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」と言われ、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」という警告を与えられました。
この警告にも拘わらず、サタンの誘惑と欺きによって、神の言葉に背き、罪によって人が死ぬものとなったとき、神である主はサタンに「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」と宣言されました。
この預言は、女の子孫(זרע zeh'-rah seed)としてこの世に来られるメシアがサタンの頭を踏み砕くという預言です。
イエスは人の子としてサタンの頭を踏み砕くメシアとしてこの世にこられました。


イエスが悪魔の試みのなかで、神のご計画に完全に従われ、人の子として来られたイエスだけがわたしたちを救うことができ、誘惑から逃れ、わたしたちを創造された神との深い信頼関係を取り戻し、サタンの頭を砕くことのできるメシアであることを見ることができます。

神の子イエスは、偽ることができない方であり、罪は犯されませんでしたが、わたしたちと同じように試みに会われ、わたしたちの弱さに同情できない方ではありません。(ヘブル人への手紙4章14-15)

わたしたちが通常目にみることができなくとも、この箇所で述べられているように、悪魔は現実の存在であり、悪魔の誘惑によって人は罪に陥り、罪によって滅びがもたらされます。
しかし、わたしたちに向けられる誘惑を、悪魔の誘惑の欺きに任せるか、神の御ことばに従うのかは、わたしたち一人一人の選択です。

人は本来創造者である神が、一人一人に与えられた計画と目的を意識する霊的な存在として創造されました。
誰でもがなんらかのかたちで、存在の意味と生きてゆく目的について考えます。しかし、人は肉体をとって存在しています。
すべての人が、必ず誘惑にさらされます。
悪魔は、わたしたちが神のことばに従い、より大きな喜びと完全な神の計画を選び取ることよりも、直ぐ目の前の肉の欲望に訴え、わたしたちがその欲望の虜となり、罪に陥り支配され滅びを招くために、誘惑という最も巧妙な道具を駆使します。 

この世におけるすべての問題は、わたしたちが個人的にも社会全体としても誘惑に惑わされ、その虜となって自分を罪に明け渡し、神のご計画、目的からこの世の君であるサタンに支配されることに起因しています。
サタンは誘惑によって、神の意思や、神の最善の計画から肉の欲求、肉の思いによってわたしたちを罪の虜にし、滅びに至らせます。 

聖書は、すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、虚栄は、神から出たものではなく、世から出たものであり、世と世の欲とは過ぎ去るが神の御旨を行う者は、永遠にながらえることを宣言しています。


最初にイエスが会われた悪魔の試みも、わたしたちが生きてゆく上での肉の領域に関わる誘惑でした。

イエスは聖霊に導かれ、荒野に上って行かれ、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(4節-5節)

通常、断食をすると人は大体六日で食欲をなくしてしまうということです。そして、もう一度空腹感の戻ってきたときには餓死の危険にさらされている状態なのだと言われています。
身体に貯められていた栄養素が枯渇し細胞や脂肪分などが維持できなくなると、人は肉体を維持することができなくなり、餓死してしまいます。
イエスは、四十日四十夜断食した後で空腹を覚えられた。と記されています。  

わたしたちが肉体の渇きを覚え、空腹を覚えることは、生命を維持する上で必要な神の創造の素晴らしいデザインの一部であって、水分を必要とし渇きを覚え、空腹を覚え食欲が与えられていることは肉体を維持するための大切な肉の欲求です。
空腹を覚え、食欲を持っていること、肉体が生存に必要な欲求を覚えること自体は、善悪や罪の問題ではありません。

サタンは、イエスにたいして、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と、言っています。
イエスに「あなたが、神の子であって、命じるだけで肉体を維持するために石をパンに変えることはあなたにできることではないか。」と、イエスが神の思い、意思より自分の肉の欲求を優先することを勧めています。
わたしたちの魂は常に、霊的な思いと肉の思いのせめぎ合いの場となっており、サタンは肉の欲求を霊の思いに優先させ、与えられている意思や知性、感情、肉体をとおして与えられている神のデザインを、神の意思や言われていることば、神との信頼関係よりも自分自身の満足のため、霊の思いに優先して使うように仕向けるために誘惑という道具を駆使します。
イエスはサタンのこの誘惑にたいして「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(4節-5節)と、答えられました。

イエスはサタンにたいして、「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。」(申命記8章2-5)という、エジプトで奴隷から解放され、荒野を四十年間さまよった後、約束の地に入る直前イスラエルの民にモーセが述べたことばを直接引用されています。

人の人生は、神のことばによって方向づけられ、神の意思を知ることができ、神に信頼し、霊の深い喜びを得、魂が満たされることができます。
さらに、試練をとおして生ける神が共におられ、主なる神に信頼するときわたしたちの思いや知っている方法を超えて試練から逃れることができるのです。
人は単に肉体を維持し、肉の思いが満たされること以上に、神のことば、霊の思いによって魂が満たされることが必要です。


この誘惑に引き続いて悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」と言いました。

悪魔は、「あなたが神のことばがそれほど重要であり、信頼に値するのなら目を見張るようなことを人々に見せて、神のことばを証明したらよいではないか。神のことばに『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。(詩篇91篇11-12) 』と書いてあるではないか。神殿の頂から飛び降り、御使いたちがささえるのを見れば群衆は目を見張り感服するではないか。」と、イエスを誘惑しました。

サタンは、イエスが答えられた「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」という言葉を直接否定せずに、神のことばを引用して、イエスが神殿の頂から飛び降り天使がそれをささえるのを群衆がみれば、目を見張るメシアの到来をより広く人々に告げ知らせることができるではないか。という巧妙な欺きを仕掛けたのでした。
この誘惑にたいしてもイエスは、「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」と、答えられました。
わたしたちが無意味に神のことばを試し、自分自身を危険にさらすことを神は戒めておられます。


悪魔の次の誘惑は、イエスがこの世に来られた目的についての誘惑でした。 サタンは、わたしたちに対しても誘惑によって神がわたしたちに持っておられる計画や、存在の意味そのものを無意味なものにすることです。

サタンは、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と、言いました。

最初の人は悪魔の誘惑に負けて「取って食べてはならない。」といわれた木から実をとって食べ、神から委ねられたこの地のすべての権利をサタンの欺きと誘惑の前に放棄してしまいました。 
神に委ねられた権利は、サタンに奪われ、この世はサタンのものとなってしまったのです。
何故なら、人が神の言葉よりサタンの言葉を選んだことは、自らの選びによって、神に不従順であり、神との交わりを断ってサタンに隷属する者となったことを意味しているからです。
もともと、この世は神が造られ、神のものです。神は、この世を人に渡され、人はそれをサタンに放棄してしまい、サタンの手にこの世は渡ってしまったのです。

イエスは、罪を贖われこの世を買い戻すためにこの世にこられました。このイエスの使命を知っていたサタンは、イエスがサタンにひれ伏して拝めば己の支配下にあるこの世、国々とその栄華を全部イエスに渡そうと申し出ました。
サタンの誘惑は、神が目的とされていることを神の意思や計画とは無関係に成就することを提案しています。自分を否定し十字架への道を採らないでも国々とその栄華は差し上げよう。十字架の道より安易な方法があるではないか。というのがサタンの欺きでした。

このサタンの誘惑に対しても、イエスは「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」と言われました。
すると悪魔はイエスを離れて行き、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えました。

肉の思い、肉の欲望は、神が持っておられるご計画や神との関係よりも、常に自分自身の思い要求を優先します。
自分の思いや欲望の主張を否定することなど馬鹿げている。という誘惑は、常にこの世からの誘いでありサタンからの欺きです。
イエスがサタンに言われた答えは、神の計画されている道を歩み、十字架によって人の神に対する罪の責めを全人類に代わって背負い、罪の贖いを完成させ、人が神との完全な和解をすることの出来るように人々を救うことがご自分の使命であり、人の拝する神は唯一の生ける神だけだということでした。

イエスにたいしてサタンは、神のことばをゆがめて誘惑をしましたが、イエスはすべてのサタンの誘惑に神のことばを使って答えられました。
わたしたちも、サタンの誘惑に惑わされ罪の虜とならないために、わたしたちの思いのなかに御ことばをたくわえることが如何に重要であるかがわかります。

わたしたちが罪を告白し、イエスが救い主メシアであることに信頼するとき、神はわたしたちのうちにこの世に勝利された方、聖霊として住んでくださいます。わたしたちのうちに住んでくださる方は、この世のうちにいる悪魔の力よりはるかに優った力のある方です。



 
マタイ福音書のメッセージ


a:1071 t:1 y:0

powered by HAIK 7.0.5
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK