キリストといわれるイエスをどうしたらよいか

(マタイ福音書27章21-23)


神は、神に似せて人を創造されました。
人は神と同じように、自分自身の選択によって方向を定めるることのできる自由を与えられました。
人の選択が主体的な意味のある選択であるためには、たとえ選択が誤ったものであってもその選択が尊重されなければなりません。

神は人が神のことばと警告を選び、愛と信頼の関係を持つことを願われています。
しかし、神は人の選択を尊重され、人が誘惑によって、「食べるな」と命じられた木から実をとって食べ、神に背くという選択をすることをも許されました。
何故なら、主体的で自由な選択が尊重されなければ、意味のある選びとりにはならず強制となり、本当の愛と信頼の関係は築けないからです。

しばしば、人は誤った選択によって悲惨で取り返しのつかない結果を招きます。
わたしたちは、いのちに至るのか死と滅びに至るのかという岐路に立たされ、どのような選択をするかによって方向が決定されます。

聖書は一貫して選択の岐路に立たされるとき、いのちに至る選びとりをすることの大切さについて述べています。

神は、素晴らしい園に、はじめの人を置かれ、人に「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16、17)という警告を与えられました。
人は、誘惑によって、神が「食べるな」と命じられた木から実をとって食べたために、 土地はのろわれ、一生、苦しんで食を得、 土地は、いばらとあざみを生えさせ、人は、顔に汗を流して糧を得、ついに、土に帰るものとなりました。

神は、園の中央に善悪を知る木だけでなく、命の木をも生えさせたと記されています。
人は愚かにも命の木から実をとって食べるかわりに、禁じられた善悪を知る木から実をとって食べる選択をしたというのは、皮肉なことです。
神は、人が善悪を知る木の実をとって食べた後に、悲惨な状態で人が永遠に生きるものとならないために、いのちの木への道を守るために、園から人を追放し、エデンの園の東にケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれました。

この結果、人はそのままではどのようにしてもいのちの木への道にゆくことができず、ついに土に帰り、滅びに至るほかない呪われた状態に陥ってしまいました。

はじめの人の誤った選択によって、人は死ぬものとなり、ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされ、人には死が及ぶようになりました。

神はイスラエルの民に、「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。
しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、
あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」(申命記30章15-20)と、祝福と呪いの選択を与えられました。

イスラエルの民が約束の地に入ったときも、ヨシアは、神が言われていることを民に伝え「『
わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。』 
今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。
もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシア記24章13-15)と、彼らを導かれた生ける神を選ぶか、エジプトの神々に仕えるのかを決めるよう民に選択を迫りました。

これらの警告にも拘わらず、イスラエルの民は、偶像礼拝に陥り、ほかの神々を拝み仕え、異邦の国からの侵略を受け、国が滅びるという選択をしました。

わたしたちは、生ける神を選びいのちに至るのか、誘惑に負けてサタンのことばに従い、死に至るのかという選択の岐路に立たされます。

理解し難いことですが、あまりにも多くの人々がいのちを選び取るよりも死を選び取ります。

わたしたちは、究極的にわたしたちを創造された神に従うのか、サタンに従うのか、いずれかに従わねばなりません。
サタンは、目に見ることのできない次元の被造物として神の御座近くに仕え、美の極みとして創造者である神を賛美していたにも拘わらず自らの美と権威を誇り、神に背くものとなり、創世記の記事にはへびとして最初の人を誘惑し、陥れました。


この箇所では、祭司長、民の長老たち全員が、イエスを死刑にするためにローマの総督ポンテオピラトに引き渡し、総督の前にイエスが立たれたことが述べられています。   

彼らが、ねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたピラトは、イエスを死刑にするかわりに、祭りには群衆のために、囚人をひとりだけ赦免するという慣例に従って、バラバという囚人とイエスを群衆の前に立たせ、「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」と、問いかけ総督としての選択と決断を、祭司長、民の長老、群衆の選択に任せました。

祭司長、長老たちに扇動された群衆は、「バラバだ。」 と叫び、ピラトが彼らに、「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」と、問いかけても彼らはいっせいに「十字架につけろ。」言い、ピラトが再度「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」と言っても、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けました。

ピラトは、祭司長、長老たちが妬みによって無罪のイエスを死刑にするために引き渡したことに気付いていました。
そして、妻からも「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」という忠告を受け、イエスが正しい人であることを知っていたにも拘わらず、自分でイエスの無罪についての選択をせずに、扇動された群衆の声を恐れ、殺人と暴動の罪に問われていたバラバとイエスを群衆の前に立たせ、彼らの愚かな選択にイエスにたいする判決をまかせましたがピラトの思惑と期待は完全に裏切られました。

群衆は無罪で正しいイエスを放免するかわりに、凶悪な殺人と暴動の首謀者バラバの放免を叫ぶのに対して、ピラトが「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」と、問いかけるのにも群衆は、「十字架につけろ。」と叫び続け、ピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」と言いました。これにも、民衆はみな「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」 と答えました。


「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」という問いかけは、ピラトが群衆にたいして問いかけたばかりでなく、ピラト自身にたいする問いかけでもあり、意識を持つすべての人類の一人一人が人生において答えなければならない問いかけです。

ピラト自身を含め、誰一人として「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」という問いかけから手を洗い、「この人の血について、私には責任がない。」と言うことはできません。

この問いかけに中立の答えというのはあり得ません。 
もし、この「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」という問いかけに答えないということは、イエスを正しい人と認めながらイエスを否定し十字架につけることを決定した総督ピラトと同じように、イエスが「いのちを救われる主、神の御子メシア」だということを否定していることになります。 

キリストといわれるイエスが、「いのちを救われる主、神の御子メシア」なのか、「誇大妄想のペテン師、稀代の大嘘つき」なのか、わたしたち一人一人がどちらかの答えを選択しなければなりません。

イエス自身が「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」(マタイ福音書12章30)と言われているように、この選択には二者択一の選択肢しかないことを明言されています。

この問いかけは、いのちと死、永遠の命と永遠の滅び、の選択であり問いかけです。
「 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ福音書3章18)

信仰は基本的にいのちと死、光と闇のどちらか一方を選択することです。

イエスが救い主であり神の御子メシアであることを信じるか、否定するか、どのような理屈付けをしても、信仰が究極的に一人一人の選択であることに変わりません。 


この聖書箇所で、わたしたちがもうひとつ注目しなければならないのは、ピラトは、ピラト自身の選択によってイエスの運命を決定付けたのではなく、自分の選択によって自分の運命を決定づけたという歴史的事実です。

ローマ総督としてピラトは「キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」という問いかけに対して最終的に決定を下す責任を持っていました。

一方で、イエスが十字架に架かられたのは、ピラトが決めたことではなく、神の定めた計画と神の予知とによることでした。神の御子が罪びとの代わりにその責めを負って血を流し、すべての人の罪を贖われることは、この世のはじめから神が決められたことでした。

神にたいする背きの罪を赦しこの世に来られることは、イエスご自身が決められたことであり、
イエス自身この世に来られてから何度も十字架に架かられるために、この世に来られたのだということを予告されました。
わたしたちが、どのようにイエスを肯定しようと否定しようと、イエスが変わりないお方であり、神の御子としてのイエスのご計画も、世のはじめから最後に至るまで変わりないものでした。

イエスこそ王の王、主の主としてやがて来られ、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」(ピリピ書2章10、11、イザヤ書45章23、ロマ書14章11参照)ことを告白することになります。

わたしたちがイエスにたいするどのような選択をしてもイエスのこれからの運命が変わることはありませんが、わたしたちのイエスに対する選択は、わたしたちの未来と存在そのものを決定付けるのです。

創世記の記述を見るとき、はじめの人がいのちの木の実を選ぶかわりに、「食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と神が警告された善悪を知る木の実から取って食べるという愚かな選択を何故したのだろうという思いに駆られます。

しかし、多くの人々が、イエスを自分の救い主として永遠のいのちに至るか、イエスを否定し、永遠の滅びに至るか、という選択の岐路に立つとき、同様な愚かな選択をします。 

ピラトの「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」という問いかけにも群衆は、「十字架につけろ。」と叫び続け、ピラトが再度「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」と言っても、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫び続けました。
わたしたちも、理屈に合わない選択を主張するとき、自分の選択が何故そうなるのかという検証をしなおすかわりに、主張をとおすために激しく叫ぶことだけをし続けるようになります。

神の御子を否定し永遠の滅びを選ぶという選択が、根拠のない愚かな選択であるにも拘わらず、 
多くの人々が、神が御子をとおしてわたしたちに与えられようとしている永遠のいのちを選び取らず、御ことばを自分で検証しようともせず他の人々の叫びに反対することを恐れ、彼らに同調して御ことばを否定し、イエスを否定します。

ピラトは自分で選択をするという責任から逃れようと、「この人の血について、私には責任がない。」と言って手を洗おうとし、群衆は「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」 と答えました。

この歴史的事件から四十年足らずのうちに、ローマ軍団によってエルサレムは殲滅させられ、ほとんどの民衆が滅亡し、捕らえられるという悲惨な運命を辿りました。
ピラトも総督の地位からローマ皇帝の不興を買って左遷され、最後には島流しになったとされています。

「キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」という問いかけに、わたしたちが誤った選択をすることの結果は、肉体の滅びよりも恐ろしい永遠の滅びという結果を招きます。

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。』、また、『主がその民をさばかれる。』」と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」(ヘブル書10章26-31)

イエスを救い主、人生の主とするか、御ことばを検証もせずにイエスを否定するのかは、わたしたちの選択ですが、この選択は、わたしたちの人生のみならず永遠のいのちを左右する選択です。



 
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