キリストは誰の子か

(マタイ福音書22章42)


過ぎ越しの祭りの行われる週の日曜日、棕櫚の葉を振りながらホサナ、ホサナと群衆の歓呼するなかを子ろばに乗ってオリブ山を下り、ご自分がメシアであることを民衆に公けにされたイエスはエルサレムの神殿に入られ、次の日そこで宮を清められました。

この次の日、再び宮に戻られたイエスが人々に教えておられると、祭司長、長老たちが、みもとに来て「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」と、イエスがなさるすべてのこと、イエスの権威に対する挑戦的な質問を投げかけました。
イエスは、祭司長、長老たちの質問には直接答えられず、ぶどう園の譬えを話され、神の御子としての権威によって神殿を清められ、盲人や足なえの人々を宮で癒し、祭司長、長老たちの不正な心、罪にたいして彼ら自身が罪に対する裁きの判決を下していることを示されました。

この直後に、イエスに対して殺意を抱いたイスラエルの指導者たちは、罠にかけるためのいろいろな悪意に満ちた質問をしてイエスを試みようとしました。

彼らはイエスをことばの罠にかけ、民衆の圧倒的な人気にたいして、人々の反感を買う言質をイエスからとろうとしました。
パリサイ派の長老たちはヘロデ党の者たちといっしょに「税金をローマ帝国の支配者であるカイザルに納めることがモーセの律法にかなうものなのでしょうか。」という質問をし、もしイエスが肯定的な答えをすれば、ローマ帝国から課税されることに強い反感を抱いていたイスラエルの民からの反発を受け、もし否定的な答えをすれば即座にイエスがローマ帝国の課税にたいする反逆の意図があることを訴え、どちらを答えるにしてもイエスを陥れようとする巧妙な罠でした。

復活はないと言っているサドカイ人たちは「七人兄弟の長男が結婚し、死んで、子がなかったので、その妻を弟に残しました。 次男も三男も、七人とも同じようになりました。そして、最後に、その女も死にました。 すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」という、復活ということ自体を滑稽で馬鹿げたものにしてしまう質問をしました。
現代でも多くの人々が復活について滑稽で馬鹿げた考えを抱いています。例えば、クリスチャン同士で肝臓の人体移植をした場合、復活のときにその肝臓は誰のものになるのだろうというようなことを質問することはこのサドカイ派の人々が質問したと同じような馬鹿げた疑問を抱いていることになります。
そして、律法の専門家もイエスを試みるために「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」という質問をしました。

イエスはパリサイ派のなかの律法の専門家がした最後の質問に「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と、答えられました。


イエスは、このイスラエルの指導者たちとの敵対的な問答の最後にパリサイ人たちが集まっているときに、彼らに尋ねて「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」と尋ねました。 

イエスが、イスラエルの指導者たちと問答を交わしていた当時のユダヤの人々やローマの人々にとって、最近の日本でもそうであったように、家族の形態は強い家父長制度の影響を受け、父親が生きている間は父親が家長、主人として家族を支配し、子供たちは成長して結婚し、たとえば息子が結婚して70歳を過ぎても、もし父親が生存していれば父親が家長であり、息子にとって父親が家族の主人であるという関係は変わりがありませんでした。この関係はどのようにお互いの境遇が変化しても、決して父親が息子を主人、主と呼ぶことはありませんでした。

イエスの質問に彼らは「ダビデの子です。」と、答えました。イスラエルの指導者たちはモーセの時代から旧約聖書についてよく知っており、神がイスラエルの民に約束されたイスラエルの救いメシアがイスラエル統一王国の繁栄を築いたダビデ王の末として、この世に来ることを知っていました。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ書9章6,7)

「見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。」(エレミア書23章5)

「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしのべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。」(エゼキエル書34章23,24)

彼らは、あきらかに、旧約聖書のこれらの箇所を読んで知っていたばかりでなく、イスラエルの民にとってダビデの末からメシアが現れるという期待が当時のユダヤ人にとって共通の期待だということを知っていました。


イエスの問いに対して彼らは正しい答えをしましたが、イエスは彼らの答えに対して、「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言う、ダビデの詠んだ詩篇(詩篇110篇1)の箇所を引用して、「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」と、再び彼らに問いかけました。

イエスがキリストとしてダビデの末として来られたばかりでなく、ダビデがメシアであるイエスを主と呼んでいるのであれば、キリストはダビデの子ではなく、ダビデの預言した主、神の御子であることを彼らも認めざるを得ないこととなります。

そのことに気づいたイスラエルの指導者たちは、心を頑なにして、そのことを口に出そうとしませんでした。
そのために、だれもイエスに一言も答えることができず、またその日以来、もはやだれもイエスにあえて質問をする者はありませんでした。

イエスが糾弾されたように、彼らは旧約聖書を知り、モーセの律法を聞いてはいましたが、みことばを聞くだけで自分たち自身と他の人々とを欺き、自分たちの偽善を隠し、みことばを実行せず、重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしませんでした。
このような、律法学者やパリサイ派の指導者たちを、イエスは激しく糾弾され、その内容はマタイの福音書23章に14節から39節までに詳しく記録されています。

このイエスが糾弾され、その前に弟子たちと宮にいた群衆たちにされた警告は、クリスチャンであるわたしたちも心して耳に留めなければならない警告です。


「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」という問いは、わたしたちも一人一人が真剣に答えるべき人生の問いかけです。

もし、イエスが約束されたダビデの末として来られた神の御子メシアでなければ、イエスは詐欺師、ペテン、欺きであり、イエスは善い人でも、人類に道徳を教える教師でもないことを意味することになります。
さらに、イエスが約束された救い、神の御子メシアであることを知った上で、イエスを自分自身の人生の救いとして受け入れない人々は、永遠の滅びを選ぶことを意味しています。
そして、イエスが約束された救い、神の御子メシアであり、彼の言われ、行われたことがすべて真実であり、真理であることを信じ選択するということは、わたしたちの人生に目的が与えられ、永遠のいのちが与えられることを意味しています。

イエスが誰であるかを知り、イエスが神の約束されている救い、神の御子メシアであることを認めて信じるのか、イエスが神の御子メシアであることを否定するかはわたしたちの人生を決定的なものとする選択です。

信頼できる証拠書類によって歴史を立証するとき、人類の歴史をとおしてイエスキリストほど歴史に影響を与えた方は他に存在しません。
わたしたちの暦もキリストの誕生を境として、紀元前と紀元後の年代に分かれ、紀元後をあらわすA.D.という記号自体が「主の時代」という意味のラテン語アノー、ドミニの略字となっています。
イエス・キリストほど人類の歴史のなかで誕生以前からその人物像について描かれている人物は他にありません。イエス・キリストの約二千年以前に預言者や賢者たちによってその到来を告げられている人物は他に類を見ることができません。

三百以上の誕生、生涯、死とその復活について詳細な預言が歴史上実現したという人物はイエス・キリストを除いて歴史上の他のどのような人物についても見ることができません。

未来についての預言がなされる時、「複合確率の法則」として知られる統括原則があります。
この原則は、預言においてより多くの要素・事柄が設定されればされるほど、それが成就しない確率が大きくなるという原則です。

例えば、アメリカ、カリフォルニア州ニューポートビーチは平均して二年に一回地震で揺り動かされるとしましょう。もし私が、今年ニューポートビーチで地震が起きると預言したとしたら、私の預言が正しく起こる確率は2分の1です。もし私が、地震は6月13日に起きると言ったとしたら、1年は365日ありますから、6月13日に地震が起きる確率は365分の1です。地震は今年の6月13日に起きると言ったとしたら、その可能性は365x2分の1、つまり730分の1になります。そして、もし地震は今年の6月13日の午後2時5分に起きると宣言したとしたら、1日は1440分ありますから、正確である確率は2x365x1440分の1、つまり1,051,200分の1になります。さて、もしもっと大胆に2時5分15秒に地震が起きると言えば、その確率を増大させる事になります。1日は86,400秒ですから、1,051,200倍増して、預言通りに地震が起こる確率は、90,823,680,000分の1となります。これは、ただ4つの要素を考慮しただけです。  

アメリカ、カリフォルニア州パサデナ大学の数学教授ピ-ター・ストナーは、複合確率の法則を適用させて旧約聖書における、キリストの誕生、生涯、死、復活において成就された、三百のメシヤに関する預言のうち八つの預言をとりあげてそれを計算し、八つの預言を一人の人が成就する可能性は、10の17乗分の1の確率であると見積もっています。
10の17乗枚のドル硬貨をアメリカ・テキサス州の表面に並べ置くとしましょう。それらはテキサス州を2フィート(約61cm)の厚みでカバーすることになります。そのうち一枚のドル硬貨に印を付け、テキサス州全体を万遍なくかき混ぜます。一人の人に目隠しをし、彼が願う通りに遠くまで旅することができると彼に言います。しかしそのために、彼は一枚のドル硬貨を取り上げて、これが正しいドル硬貨であると言わなくてはなりません。彼が正しいドル硬貨を取り上げる可能性が、メシアに関する預言のうちで八つの預言をとりあげ、それらすべてがたった一人の人によって成就されるのと同じ可能性だというのです。

イエスキリストが、人類を救う神の御子メシアであることを否定することは、故意に心を閉ざし、歴史の現実、真理に目を閉ざす選択をすることに他なりません。イエスキリストが神の御子メシアであることを信じることも否定することも一人一人の選択です。

しかし、もしあなたが明白な歴史的な証拠を検証したうえでイエスキリストが神の御子メシアであることを否定するのなら、そのような選択に至る最終的な唯一の理由は、結局あなたが善よりも悪を愛し、イエスキリストによって示された高い道徳の基準を否定しようとする思いに支配されているからであり、そのような人々は絶対的な基準、すべてを創造された唯一の神の存在を論理を超えて否定するという前提に立って人生を歩みます。

イエスの「あなたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。」という質問に、私たち自身が答え、その明白な証拠によって、わたしたちが人生の主となる方に出会い主の支配に人生を委ね、わたしたちの生き方が変えられることほど重要な選択は他にありません。

「 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ福音書3章36)



 
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