御子に聞け

(マタイ福音書17章1-5)


マタイ福音書17章には、イエスが弟子のペテロとヤコブ、その兄弟ヨハネを連れて高い山に登られ、彼らの目の前で変貌されたときのことが述べられています。
このときの様子をより詳しく理解するためには、その六日前にイエスが弟子たちをピリポカイザリアの地方に連れて行かれ、そこでイエスが弟子たちに言われたことからこの箇所が連続して起こっている出来事だということを念頭に置く必要があります。

イエスはピリポカイザリアの地でご自分が約束された生ける神の御子キリスト、メシアだということを弟子たちに確認され、弟子たちにイエスに従うものが支払わねばならない代償について話をされました。

イエスは、イエスのためにいのちを失う者は、それを見いだすと言われ、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」と宣言されました。

歴史的にはイエスが言われた天の御国が実現する前にイエスの弟子たちがすべて死んでしまったという事実のゆえに、ある人々は、イエスが言われた「ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」という言葉は実現しなかったという混乱した解釈をします。   

しかし、この箇所でイエスは、「人の子が御国とともに来るのを見るまで死を味わわない人々」と言われているのは、弟子のペテロとヤコブ、その兄弟ヨハネのことについて言及をされ、この三人の弟子たちは、イエスと共に高い山に登り、そこでイエスが御国の栄光に満ちた姿に変貌されるのを目の当たりにしました。

ピリポカイザリヤはイスラエルの最北端に位置するヘルモンの山の麓に位置する地域です。
従って、この高い山がヘルモン山であることは明らかです。


イエスは、ピリポカイザリヤの地で「ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」と、弟子たちに言われたとき、ここにいる弟子たちのなかで、イエスが御国の栄光の姿を見るものがいると言われ、そのことばのとおりペテロとヤコブ、その兄弟ヨハネを連れて高いヘルモンの山に登られ、そこで御国の栄光の姿に変貌されました。ペテロとヤコブ、ヨハネの三人はイエスキリストが神の国を建てられるときの栄光の姿を目撃しました。 

後に弟子のヨハネは黙示録のなかでイエスの御国の栄光の姿を詳細に記しています。
ペテロもこのときの体験を手紙のなかで「 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』
私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」(第二ペテロの手紙1章16-18)と、このとき、御国の栄光の姿に変貌されたイエスがペテロにとって生涯インパクトを与えたことが記されています。

ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネは、栄光のイエスの姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣が光のように白く輝くのを見ただけではなく、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているのを目の当たりにしました。

旧約の律法と預言を代表するモーセとエリヤが現れ、栄光の御姿のイエスと話しているのを見たペテロは、「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、よろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」と口出しをしました。

ペテロがまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がしました。

光り輝く雲は旧約聖書のなかで、生ける神の臨在を示す、栄光の雲、シャカイナグローリ-としてしばしば登場しています。

「 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである」(出エジプト記40章34-35)

「 祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。
祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。」(列王記上8章10-11)
 
そして、この雲の中からの声は、イエスが神の唯一の御子キリストであり、イエスが唯一の救いであることを宣言しました。
律法も預言もわたしたちを救うことはできず、御子の十字架の贖いによってのみわたしたちの救いが可能となるのです。
この声は、神の栄光が御子イエスによって完全に終局的に啓示され、イエスのみがわたしたちの聞かなければならない方だということを示しています。

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(ヘブル人への手紙1章1-3)

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。
神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」 (ロマ書8章27-31)

「 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ロマ書8章3-4)
 
ヘブル人への手紙のなかにキリストが律法と預言とを全うされた方であることが次のようにまとめられています。

「 律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。
もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。
ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。
雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
すなわち、初めには、『あなたは、いけにえとささげ物、全焼のいけにえと罪のためのいけにえ(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれらで満足されませんでした。』と言い、また、『さあ、わたしはあなたのみこころを行なうために来ました。』と言われたのです。後者が立てられるために、前者が廃止されるのです。
このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。
しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、
それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。
キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」 (ヘブル人への手紙10章1-14)
 
イエスキリストに聞き、イエスに信頼する信仰が、わたしたちに永遠の栄光の希望を実現に至らせ、霊の実を実らせることのできる唯一の道です。



 
マタイ福音書のメッセージに戻る


a:1186 t:1 y:0

powered by HAIK 7.0.5
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK