イエスの弟子

(マタイ福音書16章24-25)


イエスは、ガリラヤ湖畔での宣教から場所を移し弟子たちを連れ、イスラエルの最北部ガリラヤ湖の上流、現在バニヤンと呼ばれている地域、ヘルモン山の麓ヨルダン河の源流となるピリポカイザリヤ地方へ行かれました。
そこでイエスは弟子たちに尋ねて言われ、「人々は人の子をだれだと言っていますか。」と、問われました。
彼らはこのイエスの問いかけに「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」と答えました。 
イエスはまた彼らに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と、人の意見ではなく彼ら自身がイエスを誰だと思っているのかを、問いかけられました。
このイエスの問いかけにシモン・ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました。
するとイエスは、彼に答えて「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」と、言われました。


カトリック教会は、イエスの言われたこのことばのゆえにペテロが教会の基礎を築いた弟子であり、最初の法王であるという伝統を守っています。
しかし、この伝統はあきらかに、イエスのことばを誤解しています。

何故なら、イエスは、「あなたはペテロ(Πέτρος  pet'-rosギリシア語の原語で小石の意)です。わたしはこの岩(πέτρα et'-raギリシア語の原語では大岩の意)の上にわたしの教会を建てます。」と言われ、小石であるペテロの上にキリストの教会を建てるのではなく、ペテロの告白した、「イエスが、生ける神の御子キリストです。」という信仰告白、イエスがキリスト、生ける神であるという大岩を土台としてキリストの教会を建てると言われているからです。

キリストの教会の土台はペテロではなく、ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と、告白した信仰、イエスキリストを土台として建てられています。 
人はイエスキリスト以外のものをキリストの教会の土台としようとします。 

イエスの弟子のペテロを、キリストの教会の土台としようとする思いは、キリスト以外のものをキリストの教会の土台とすることになります。

使徒パウロが「だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」(第一コリント人への手紙3章 11)と述べているように、キリストの教会はイエスキリストの土台以外の土台を据えて建てられることはあり得ません。 


ペテロの「あなたは、生ける神の御子キリストです。」という告白は衝動的なものであったと思われます。しかし、イエスは、「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と言われ、ペテロの告白は、ペテロ自身の肉の思いではなく神の霊による啓示だと宣言されています。

神が語られていることをわたしたちは通常気づきません。
神が御ことばを霊によってわたしたちの心に語られるときは、自然な方法で語られ、ごく自然なかたちで神が導かれようとする道へわたしたちを導かれます。
神が語られても鳥肌の立つようなインスピレーションを受けたり、髪の毛が逆立つような体験をするわけではありません。
わたしたちが神が語られ、導かれていることを悟ることができないのは、神の霊にたいしてあまりにも鈍くなっているからです。わたしたちは、神が語りかけられ、導かれておられることにすら気を留めることはありません。それは、わたしたちの霊的な鈍さと霊的なものにたいしてあまりにも無関心、無理解なことが原因です。

さらに、最も困難なのは、神が示されているのか、自分の思いが自分自身に語りかけているのか、わたしたちには容易に判別できないということです。
聖書の御ことばをとおしても、神が御ことばをとおしてわたしに語られているのか、御ことばを自分の思いで勝手に自分の都合のよいように解釈しているのかを見極めることは容易ではありません。

神は父と子と聖霊の一体にして唯一の方であり、わたしたちは、霊と魂と身体が一体となった存在です。
神の霊がわたしの霊に触れるときイエスが生ける神の御子キリストであることに気づかされ、わたしの霊が魂に証しして自分の思いの内からイエスが生ける神の御子であることに気づかされます。


イエスがペテロに、「あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」と、言われたのは、イエスが生ける神の御子キリスト、メシアであることを告白するとき、その信仰の土台によって、霊的な領域で神がイエスに与えられている権威をわたしたちにも与えられるということを意味しています。
イエスが生ける神の御子キリストであるという信仰によって地上でつながれることは天においてもつながれ、地上で解かれること、地上での聖霊のはたらきは天においても解かれています。
ペテロがイエスのことを生ける神の御子キリスト、メシアであることを告白した直後にイエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められました。
それは、時が満ちる前にイエスが民にご自分が約束されたメシアであることを、あらわされることは神のご計画でなかったからです。 

イエスが自身をメシアであることをあらわされる時、その日は神のご計画のなかで狂いなく定められています。ダニエルもゼカリアも旧約の預言は、この日のことを正確に預言しています。
イエスはペテロの告白、イエスが神の御子キリスト、メシアであることを肯定された直後に、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められました。

するとペテロは、イエスを引き寄せて、「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と、いさめ始めました。

しかし、イエスは振り向いて、ペテロに「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われました。


メシアが来られるとき、民が異邦の国の支配から解放され、平和がこの地上にもたらされるという神の約束は間違いなく実現する約束ですが、メシアが最初にこの世にこられたのは、人の罪の代価を支払って贖われ、メシアを信じるすべての人が罪の縄目、サタンの束縛から解放され、救われるためでした。

イスラエルの民は国がバビロニア帝国によって滅ぼされ、ペルシア帝国、ギリシア帝国、ローマ帝国へと異邦の国々による世界支配の時代、常にメシアを待望し、メシアが来られるとき異邦の国の支配から解放され地上に平和がもたらされる神の約束に希望をつないできました。    

イエスに従ってきたペテロをはじめ弟子たちにとって、ピリポカイザリアの地でイエスが待望のメシアであることをあらわされ、自分たちの信じたことが間違っていなかったことを知り、彼らの期待が膨らんだのは無理ないことでした。
したがって、イエスがメシアであることを弟子たちにはっきりあらわされた直後にエルサレムに行き、多くの苦しみを受け、殺されるということを聞いたペテロが「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と、いさめたのは充分理解できる心情です。 

ペテロの問題は、ある瞬間には神の霊によって知らされ同時に、サタンに支配されている自分自身の思いとの見極めが自分にもできないことでした。

サタンは常にわたしたちの肉の思いに働きかけ、神のご計画よりも自分の肉の思いを優先させる思いを抱かせます。
サタンは、神が目的とされていることを、神の意思や計画とは無関係に成就するように誘惑します。イエスにたいしても、サタンは自分を否定し十字架への道を採らないでも国々とその栄華は差し上げよう。十字架の道より安易な方法があるではないか、という誘惑をしました。

サタンは、わたしたちが神のご計画よりも自分の思いを優先させ、自分に困難や苦難をもたらすものを避けるように、わたしたちの心に働きかけます。この意味で、ペテロが「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と、イエスをいさめたのは、サタンに支配されたペテロの肉の思いでした。               

それから、イエスは弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われています。

この箇所でイエスは、弟子となるものが支払わねばならない代償について自分を捨て、自分の十字架を負い、イエスについて来なさいと、述べられています。

生きた神が、わたしたちの人生に目的や計画を持たれていることより、自分を優先させ自分のための快楽を追い求める道を歩み、飲み、食い、楽しんで人生を過ごすことに目を向けさせることは常にサタンの欺きの常套手段です。
しかし、わたしたちがイエスをメシアと信じ従うことは、イエスが十字架の上でわたしたちを贖われ、イエスの十字架と共にわたしのうちにある罪が十字架に掛けられ、古い肉の自分を死んだものと看做すことを意味しています。

自分自身の野心や肉の喜びのために歩む人生を捨て、わたしたちを愛され、永遠の喜びと命を与えられる神の喜ばれる歩み、自分を明け渡してイエスに人生の支配を委ね、イエスに信頼し、直接神の御ことばをとおしてイエスを知り、体験する人生を歩むものが、自分を捨てて、自分の十字架を負い、イエスに従う弟子としての歩みです。


ペテロがそうであったように、わたしたちもある瞬間に神の霊が働き、次の瞬間には肉の思い、サタンの欺きに自分の思いを委ねていることに気付かないことがしばしばあります。

わたしたちは、神が善い方であり、神の言われることを行うことが善いことだということを認めています。
しかし、わたしたちには神の言われる善い行いをしようとしても、それを行う力がわたしたちの肉のうちにはありません。
神の求めておられる善を行おうという願いがあるのに、かえってしたくない悪を行ってしまうのであれば、それを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちにある罪です。

善を行いたいと思う自分のなかに悪が宿っているのです。わたしたちの内なる人としては、神の喜ばれる人生の歩みを歩もうとしても、わたしたちのからだの中には、神の喜ばれる歩みを歩みたいという思いとは異なった思いがあって、その思いに自分が虜となっているのです。

わたしたちが自分の置かれた惨めな状態を思い知らされ、神がそのような惨めなわたしたちの状態を救われるために生ける神の御子キリストを送られ、十字架の上でわたしたちの罪の責めを負ってくださったことを知るとき、神の霊に頼る以外にわたしたちは、自分の努力や自分の力によって神の喜ばれる人生を歩むことは不可能なことを知らされます。

わたしたちの霊は、神の喜ばれることを行おうとしますが、わたしたちの肉は弱いのです。わたしたちは、神の喜ばれる人生の歩みを歩もうとしてそれを行うことができず、自分自身が罪に定められているという思いに捉われますが、聖書は「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と、宣言しています。

神がエレミアに「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」と、約束されたように、わたしたちがイエスキリストの贖いが自分のためのものであったことに気づき、イエスを救い主としてイエスに人生の支配を委ねるとき、いのちの御霊の法則が働くのです。
いのちの御霊の法則にしたがって人生を歩むとき、わたしたちの思いを神は受け入れてくださいます。わたしたちの神への愛、神に喜ばれる歩みを歩もうとする思いを神はわたしたちの心に刻んでくださるのです。そして、その心の板に刻まれ、導かれて人生を歩むときわたしたちは、キリストの霊に導かれながら人生を歩むことができるのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント人への手紙5章17)
わたしたちがキリストのうちにあって人生を歩むとき、わたしたちの望みまでもが変えられます。

使徒パウロは、新しく造られた者の歩みを、「 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ人への手紙2章20)とも、述べています。
 
わたしたちが、自分を明け渡してイエスに人生の支配を委ね、イエスに信頼し、直接神の御ことばをとおしてイエスを知り、体験する人生を歩むためには、神の霊、いのちの御霊の法則によって人生を歩み続けるとき、わたしたちの人生の歩みは必ず実を結ぶものへと変えられます。

自分のためにいのちを救おうと思う者はそれを失い、イエスのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。



 
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