畑に隠された宝

(マタイ福音書13章44)


イスラエルの民に約束されたメシアとして来られたイエスは、最初ガリラヤ湖北西部のカペナウムの町を中心に神の国の奇跡を行われました。

群衆は自分が癒されることを願い、奇跡への好奇心によってイエスのもとに集まりました。         
しかし、数多くの多くの人々は、目しいの目が開かれ、おしがことばを話し、病が癒され、悪霊が追い出されるという神の国の奇跡を目の当たりにしたにも拘わらず、イエスが御国の王、メシアであることを認めませんでした。
それどころか、パリサイ派の人々はイエスが行われた神の国の奇跡が「悪霊のかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」 と言って聖霊に逆らい、神を冒涜し、イエスを拒否しました。

それから後イエスは、従ってきた群衆にむかって天の御国のことを、多くの譬えによって話されました。

譬えは、ある事柄について、多くの人々がより深い真理に気付き、理解できるために、目に見えて興味を持つ比喩によって語るときに用いられます。

イエスは譬えによって話され、人々のよく知っている地上の題材によって目にみえない天の御国 の真理を人々に語られました。


イスラエル統一王国の王となったダビデは、直属の将軍ヨアブをアンモン人との戦いの前線に送り、自分はエルサレムの都にとどまりました。
ある日、昼寝から目覚め、宮殿の屋上を散策し、何気なく街を眺めていたダビデの目に、ある家の屋上で美しい女が水浴びをしているのを目に留め、女を宮殿に迎え,そそのかし、誘惑しました。しばらくして、ダビデは彼女が妊娠したことを知らされました。自分の咎をうまく誤魔化し、覆い隠すために、女の夫ウリヤを戦場から呼び戻し、戦況報告をするよう将軍ヨアブに命じ、現場の兵士の士気や戦況を聞いた後で、ウリヤに家に戻り妻との一夜を過ごすことを命じましたが、この計画は失敗し、ダビデは前線にウリヤを送り返し、司令官ヨアブに手紙を送ってウリアを戦闘の最も激しい部隊に立たせ戦死させてしまいました。     
ダビデは戦闘で戦死したウリヤを弔い、その喪が明けると妊娠している未亡人となったバテシバを後宮に迎え、自分の妻としました。 罪を覆い隠し、他からはヒーローのように振舞い、罪を告白せずに覆い隠そうとしていたダビデに神の御手が重くのしかかりました。  
このダビデに友人の預言者ナタンがきて、ダビデに「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。
富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。
あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」(第二サムエル木12章2-4)という譬え話をしました。

このとき、ナタンはダビデが犯した姦淫と殺人の罪を直接責めるかわりに譬え話を用いて、ダビデに罪の意識を思い起こさせ、罪の結果が重大な悲劇を招くことを気付かせました。
イエスは、直接天の御国のことを群衆に語りかけ、御国の業を示されるかわりに身近な譬えによって神の真理を語られるようになりました。


イエスが譬えをもって語られるのは、人々が天の御國の奥義と、深い真理を汲み取ることができるため、そして、より天の御国についての興味と天の御国への思いが動機付けられるためであって、わたしたちを混乱させるためではありません。 

譬えによって、それを聞く人々の心の中が映し出され、神がわたしたちに意図されている天の御国がどのようなものであるか表し知らせるためです。
福音書には、御国について何度も幾つかの譬えによってイエスが語られたことが記録されています。メシアであるイエスによって天の御国がどのようにもたらされ、この世でどのように拡がり、天の御国が建てられてゆくときにどのような抵抗と欺きがあり、何が天の御国の目的なのか、そして、天の御国の終局的な素晴らしさが譬えによって示されています。

聖書を理解するうえで、ある言葉が比喩や譬えによって語られるとき、最初に使われた言葉の意味について説明されている場合、同じ言葉が他の場所で使われていてもその意味は一貫して変わらないという法則があります。

例えば、天の御国の譬えで種を蒔く人が畑に種を蒔くなかで、鳥が来て蒔かれた種をついばんでしまうことが記されています。ここで鳥は明らかに悪いもの、種が地に蒔かれても根をつけることも、成長することもできないうちに種をついばんでしまうものとして描かれています。 聖書のことばの意味の一貫性の法則から鳥ということば、鳥が比喩として使われているときには鳥は常に悪いもの、悪をもたらすものとして描かれ、他の箇所で鳥ということば、比喩が使われるときに善いものという意味に変わることはありません。


この箇所の「 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。」という、イエスの譬えは、畑がこの世、持ち物を全部売り払って宝を買い取る人がイエスキリスト、畑に隠された宝は、福音を信じ、イエスキリストによって贖われる人々をイエスがご自分の花嫁、宝と看做してくださる、という意味になります。
イエスは畑に隠された宝である花嫁のために、すべてを捨てて十字架の上で罪を贖い、この世を買い戻されされました。

旧約聖書のルツ記には、ナオミの夫エリメレクの遠い親戚ボアズが、ルツを自分の花嫁に迎えるためにエリメレクの失った畑を買い戻すという歴史物語が描かれています。ここで、ボアズはキリストのタイプとして描かれ、花嫁という宝を見つけ、教会のタイプとして描かれるルツのためにルツの姑の夫エリメレクが失った畑を、買い戻しました。

イエスは、キリストの花嫁、宝を見出し、畑であるこの世を買い戻し、天の御国を建てられるためにこられました。      
もともと、この世は神が造られ、神のものですが、神がこの世を人に委ねられたとき、人は神の言葉よりサタンの言葉を選び神との交わりを断って、サタンに隷属する者となってしまいました。人が神から委ねられたこの世の権利は、サタンに奪われ、この世はサタンのものとなってしまったのです。イエスは、罪を贖われこの世を買い戻すためにこの世にこられたのです。 

イエスは、幼子のような心を持って神の御業の素晴らしさに感動しイエスに従う人々をキリストの花嫁、宝と看做してくださるのです。


この譬えの意味は、天の御国から来られたイエスが、宝であるキリストの花嫁を見出すためにすべてを売り払って畑であるこの世を買い戻されたという意味になります。

イエスは、罪人を探し出し救うためにこの世に来られました。
罪人が救いを探し出して天の御国、宝を見つけるのではありません。

使徒パウロはエペソの教会に宛てた手紙の冒頭で、神が、世界の基の置かれる以前からわたしたちをキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ、また、イエスキリストによってご自分の子にしようと愛をもって定められ、キリストにあって真理のことば、救いの福音を聞き、それを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されていることを述べています。
そして、主イエス・キリストの父、栄光の神が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、わたしたちに与えてくださり、わたしたちの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかを知ることができるように祈っています。
「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」(エペソ人への手紙1章3-19参照)

神が、わたしたちを畑に隠された宝であると宣言されています。

天と地とそのなかにあるすべてを創られ、聖なる永遠で全能の神が、イエスキリストのうちに わたしたちを選ばれ、御子の受けるべき相続にあずかり、主の宝と宣言されているのです。
何と驚くべき素晴らしい栄光に富んだ譬えでしょうか。 



 
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