魂のやすらぎ

(マタイ福音書11章28-30)


イスラエルの王国は、バビロニア帝国によって紀元前6世紀に滅ぼされましたが、預言されたとおり七十年の捕囚の期間を経て、エルサレムに帰還し、神殿の再建と城壁の再建を果たしました。

神殿が再建され、エルサレムの城壁が修復された頃の最初の期待や興奮からさめて、イスラエルを導かれた神の愛、喜びによって行う奉仕、神の戒めに従順であることに民は無感動となっていきました。
神のことばをとおして警告と励ましがマラキ書に記されてから、約四百年の間イスラエルの民にも人類にも神のことばは語られませんでした。 

紀元前7世紀の後半に預言者イザヤがメシアが来られることについて、 
「 地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ書8章22-9章2)と、預言したとおり、
イエスは、ゼブルンとナフタリの地、異邦の国々と境を接するガリラヤの北西部カペナウムの地域を中心に奇跡的な病の癒し、悪霊に憑かれた者の癒し、死人の復活、数々の力あるわざを町々で行なわれました。
この地はイスラエルの人々にとって歴史的に外敵に悩まされ、異邦の神々の影響を受け、霊的な闇が迫り、敵国の侵略によって辱めを受け、苦しみと闇の迫る地とされていました。

多くの民は、神の国の奇跡を目の当たりにしたにも拘わらず、イエスを生けるイスラエルの神、メシアと信じませんでした。
イエスは、人々の不信仰、コラジン、ベツサイダ、カペナウムの町々の人々を厳しく責められました。
「ああコラジン。ああベツサイダおまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」(マタイ福音書11章21-24)

イエスの力ある業、癒し、奇跡をとおしてイエスを信じて従った人々の大半は、ガリラヤ湖畔で漁をする漁師たちや、人々に嫌われる収税人などでした。
彼らは律法学者たちのようにイスラエルの律法を知る人々ではなく、パリサイ派の人々のようにイスラエルの伝統、律法の戒めを行い自らの義を誇る人々でもなくエルサレムから来た、イスラエルの民の指導的な役割を担う祭司やレビ人のように会堂で奉仕し、まつりごとについて詳しくない人々でした。

神のことばが語られなかった約四百年間の間に、人類の歴史は異邦の国々の時代を迎え、預言されたようにバビロニア帝国の世界支配からペルシア帝国、ギリシア帝国、ローマ帝国による世界支配の時代へと移りました。

イスラエルの民は、国が滅び、捕囚となる苦い体験をとおして、神殿と城壁がエルサレムに再建された後、捕囚となる以前に民が偶像礼拝に妥協し、律法に背き、神の安息をおろそかにしていたことの反省からエズラなどの改革者が起こりました。
その改革をきっかけに、イスラエルの民に与えられた律法を知ることが大切だとする律法学者、律法の戒めを行うことの大切さに立ち返り厳格に律法を行うパリサイ派、神殿において礼拝し神の尊厳を守ることが大事だとし、エルサレムの神殿でまつりごとを行うサドカイ派などの人々が起こされ、彼らが民の指導的役割を果たしてきました。

しかし、彼らは神の律法を、神が求めておられる心の動機の基準とするより、外見の行動を基準として律法を理解しました。もともと誰でもが理解できる神の律法も複雑なものとし細分化してしまいました。そして、律法の戒めに、伝統と言い伝えによって人々が勝手に取り決めた表面的な口伝えによる規則を付け加え、神の律法をより不自由なものへと変えてしまいました。
さらに、神殿において神と民の仲立ちとなる祭司の役割を、サドカイ派の祭司たちや会堂を司るレビ人たちは、宗教的な権威によって礼拝を彼らの利益を得るための道具としてしまいました。

彼らはイスラエルの民を生ける神に導くより、自分たちこそが正しいとする自己義認と偽善によって、人々により重荷を課し、人々の苦悩を増し加えました。


イエスは、奇跡を目の当たりにしても悔い改めず、イエスをメシアとして受け入れることを拒否する人々を責められ、そのすぐ後でイエスを信じて従ってきた人々を見られ、

「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」と言われました。

イエスは、神の国の奇跡を見て、単純に神の御業の素晴らしさに感動する幼子のような心を持った人が、神の御心であることを言い表わされました。

イエスはさらに、「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」と、言われています。
多くの人々が神を知っていると思っています。しかし、神がどのような方なのかについては、多くの人々が誤った思いを抱いています。イエスが言われているように、「子が父を知らせようと定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。」
多くの人々が神がどのような方なのか、夫々自分の思い描いた神概念を持っています。自分が神であればどのような生き方をし、ある状況のなかで自分が神であればこのように応答するかというように、自分の思いや望みに当てはまる神をつくりあげます。
歴史をとおして人々は、自分たちの思い描く神をつくりあげ、自分たちの思いに当てはまる神を拝んできました。
しかし、本当にすべてを創造された神を知る方はイエスお一人であり、本当にイエスを知っておられる方は唯一の神しかおられません。そして、イエスがあらわされた人々のみが神を知ることができるのです。イエスは、力ある神であり、永遠の父と一つの方です。
イエスは、「 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」(ヨハネ福音書6章38)と言われています。
イエスをとおして神のわたしたちに対する御心を知ることができ、イエスによって生けるすべての創造者である神があらわされていることを知ります。
「 だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。」(第一ヨハネ第一の手紙2章23)


そしてイエスは、この箇所で述べられている、人々に最も魂のやすらぎを与える招きをされています。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

この世でわたしたちが生きる限り、すべての人が人生の重荷、疲れを覚えます。この世で美しいと思うものや、人生の成功を追い求め、自分たちの努力で宗教的な悟りに達しようとしても、それらに虚しさを覚え、むしろ自分の目標や追い求めていること自体が重荷となり、挫折を覚えます。
たとえ、富や名声や人生の快楽を手に入れたとしても、生ける神との関係から離れ、自分の人生の歩みが神と敵対関係にあるとき、本当の魂の平安を得ることができない惨めさについて詩篇の作者は次のように詠んでいます。 

「主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。
私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。
私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。
私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。
私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。
主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。」(詩篇38篇1-9)

「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。『悪者どもには平安がない。』と私の神は仰せられる。」(イザヤ書57章20-21)

すべての人が重荷を負いながら、この世の人生を歩んでいると言っても過言ではありません。
自分の努力だけにたよって人生を歩むとき、わたしたちは神と敵対した状態にあり、そのような魂には本当の平安はありません。
この世におけるすべての問題は、わたしたちが個人的にも社会全体としても、生ける神のご計画、目的に背き、自分の目的や欲求を優先し、自分の知識や知恵、人々の目に賞賛されることを追い求める人生を歩み、生ける神との関わりから離れ、滅びへの道を辿ることに起因しています。

多くの人々が生きた完全な神との関係から離れ、神との敵対関係にある人生の歩みを歩んでいます。それは自分で負った重荷に疲れる人生であり、詩篇の作者もそのような歩みについて、「 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。」(詩篇32篇3)と詠んでいます。  

イエスは、わたしたちが、一人一人を愛され、助けたいと願っておられる生ける父なる神を見いだすことを願っておられます。

イエスは、わたしたちがイエスの招きに応じ、イエスを救い主として受け入れ、生きた父なる神との関係を回復するときにのみ、心からの魂の平安を得ることが出来ると約束されています。

この箇所で、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という、イエスの招きと、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」という勧めは、ひとつのまとまった招きとして述べられています。

イエスの招きに応じて、イエスのくびきを負って、イエスに学ぶ人生を歩むということは、イエスに信頼し、イエスと共に歩み、イエスが父である神のご計画に従って歩まれたように、わたしたちの人生の歩み方がイエスによって変えられることを意味しています。

くびきは、牛や馬を使って畑を耕すときに牛や馬に着けられる木の引き具ですが、イエスのくびきを負うということは自分で人生の重荷を負うかわりにイエスに自分の人生の支配を委ね、イエスに信頼し歩むことを意味しています。

自分だけの喜び、快楽、成功だけを目的とする人生は結局は空しさに終わります。
しかし、わたしたちを愛され、永遠の喜びと命を与えられる神の喜ばれる歩み、イエスに自分の人生の支配を委ね、わたしたちがイエスに信頼し、イエスと共に歩む人生には必ず本当の喜びがもたらされます。

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」(詩篇37章4)


イエスは、わたしから学びなさい、という招きをされています。
イエスから学ぶということは、他人からキリスト教について聞くことでも、キリスト教を学ぶことでもありません。
もし、あなたがイエスに敵対し、イエスとの関係を持たない人々からイエスを学ぼうとしても、彼らのイエスについての情報は誤りがあり、イエスの本当の姿を学ぶことはできません。  
わたしたちがイエスから学ぶことができるのは、御ことば、とくにマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書をとおしてイエスを直接学ぶことしかありません。
何故なら、福音書はイエスに直接接し、イエスに人生の全てを明け渡し、イエスに信頼して人生をこの世に来られたイエスと共に歩んだ人々によって記されているからです。
そして、イエスご自身の霊、神の霊感によって記された旧約聖書から新約聖書全体をとおして、イエスが、わたしたちとどのような関わりを持たれ、実際のわたしたちの日々の生活のなかで、生きて働かれていることを、自分自身の体験をとおして知ることでイエスから学ぶということができるのです。

わたしたちは、他人から学んだりキリスト教という宗教によって、生ける神を知ることはできません。
わたしたち自身が、自分で生きたすべての創造者である神をあらわされたイエスを学び、直接神の御ことばをとおしてイエスを知り、体験することがなければ、神の愛、神がわたしの人生に持っておられる目的、計画、永遠の希望を持つことはできません。

イエスに人生の支配を委ね、イエスと共に人生を歩むとき、主はわたしたちを、わたしたちの耐えられないような試練に会わせることはなさいません。試練と共に常に逃れの道も備えて下さいます。


イエスのくびきは軽いのです。

わたしたちがイエスの招きに答え、イエスに自分の人生の支配を委ね、イエスに学び、イエスと共に人生を歩むことを決めるとき、わたしたちはもはや生ける神に敵対する人生を歩んではいません。
イエスが約束されているようにイエスの招きに応じ、イエスに自分の人生の支配を委ね、イエスに学び、イエスと共に人生を歩む決心をした人々が最初に体験するのは魂の深い平安です。

わたしたちを創造された神は、わたしたちがイエスの招きに応じ、神が差し伸べられている和解の御手を受け取ることを望まれています。

イエスの招きに答え、神との和解によって魂の深いやすらぎを得るか、イエスの招きを拒否し、神との敵対関係のまま滅びの道を選び取るかは、一人一人の選択にかかっています。



 
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