イエスという御名

(マタイ福音書1章20-21)

マタイの福音書は、人類の歴史に実際に現れたイエス・キリストが誰なのかを示すために、歴史に実在するアブラハム、ダビデからイエスに至るまでの系図からはじめられています。

人としてこの世に来られたイエスの系図は、アブラハムの子孫、ダビデの子孫、そして、ダビデの子孫として王位を継いだイスラエル王国、ユダ王国の王たちの子孫であるヨセフの系図が詳しく示されています。

神は、人類の言語が分かれた後、まもなくメソポタミアの古代都市カルデアのウルからアブラハムを引き出され「地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである。」(創世記22章18)という約束を与えられました。
さらに神は、アブラハム、イサク、イスラエルという名を神から与えられたヤコブ、その息子の一人ユダの子孫からダビデをイスラエルの民の君主として王座に引き上げられ、その後ダビデに、「おまえのためにひとつの家を建て、日が満ちて、おまえが先祖たちと共に眠る時、おまえの身から出る世継ぎの子を、あとに起こし、彼の王国を確立させる。彼は、わたしのために、ひとつの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(第二サムエル7書12、13)という約束を与えられました。

マタイは、この世に人として来られたイエスが「地のもろもろの国民が、祝福を得るであろう。」「ひとつの家を建て、彼の王国を確立させ、彼の王国の王座がとこしえまで堅く立てられる。」という神の確実な約束によって生まれ、人として来られた方だということを明言しています。
さらに、イエスが単に人としてこの世に来られただけではなく、処女であったマリアが聖霊によってみごもり、みどり子として産まれたことをこの箇所で詳しく述べています。

マタイは、このときの様子を、「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」(マタイ福音書1章8-25)と、記しています。

イスラエルの結婚の習慣は、親同士が男の子と女の子が幼い時に、お互いを結婚相手とし取り決め、その後長い許婚の期間を経て、それから当人同士の正式な婚約を経、そして、この三つの段階を経た後で男女二人は結婚に至りました。
この当人同士の正式な婚約期間に不都合があって別れる場合は、離婚とみなされ、不義密通が発覚した場合、本人はさらしものになり石打ちによる死罪になりました。 

当時の習慣から正式な婚約の期間に身重となったマリアが、さらしものとなり、人々の石打によって死罪となる状況であったことを悩んだ正しい人ヨセフは、考えられる最善の方法として彼女を内密に去らせようとしました。
そのヨセフに主の使いが夢に現われて「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と告げられたことが述べられています。

マタイは最初に、メシアが人としての側面と神としての側面の両方を同時に兼ね備えてこの世に来られ、預言されたイエスの誕生がご自分の民を罪から救われるメシア預言の成就であることを記しています。

キリストの誕生の約七百年前、メシアが来られるという預言をしたイザヤは、メシアの誕生について「あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ書7章10-14)と、預言しました。 南王国ユダのウジヤ王から、その子ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の時代に預言をしたイザヤは、油注がれ永久(とこしえ)に続く御座に座られる栄光に満ちたメシアは、民の神に対する背きの罪を贖われ、王国を揺るぎないものとされることを述べ伝えました。

イザヤは、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ書9書6-7)と、メシアが栄光の主、王として来られる方だと述べています。

イエスは、ヨセフがそのいいなずけの妻とともに、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘム、ダビデの町へ住民登録のために上っていったとき、処女マリヤから私たちと同じ人として産まれました。 これが、みどりごとして生まれたイエスの人としての側面です。

一方で、イエスは、神の御子として、聖霊によって処女に宿り、永遠の神の救いのご計画のなかで人類に与えられた賜物としてこの世に来られました。

これが神としての性質、神性を兼ね備えてこの世に来らたイエスの神としての側面です。

天と地とそのなかにあるすべてを創造された神が、創造された人としてこの世に来られるということに優る奇跡はあり得ません。

わたしたちのあいだに人として生まれた神の御子メシアは、力ある神であり、永遠の父と一つの方です。


人は人生の意味、自分の人生の目的を見出そうとする基本的な願望があり、何者かを拝みたいという欲求によって、自分の拝む対象を造り上げます。
古代エジプト人たちは、自然の圧倒的な力を見て、創られた自然を崇拝しました。
古代ギリシアでも、人々の様々な感情を代表する神々が拝む対象として造られ、愛の神、憎しみの神、戦いの神、力の神、寛容の神、等々、ギリシァ神話をみるまでもなく、実に様々な神々が登場しています。
イスラエルの民は、約束の地に定住するようになってからも、常に偶像を礼拝する危険にさらされました。この時代の偶像は、基本的にバアル、モレク、マモン、アシュタレトの神々でした。

これらの偶像は、人の手によって刻まれ、銀や金で細工されました。

バアルは、知識を象徴し、モレクは肉の快楽、マモンは富、権力や支配お金、アシュタレトはセックスを象徴する神々でした。

現代の人々は、偶像など拝まない、自分は無神論者だ、あるいは、不可知論者のように、神は、人の理性や感情の許容範囲のなかで理解することができない、神などわからない、という宣言をします。
しかし、偶像を目に見えるものに刻むということをしなくとも、それらの人々も偶像の神々によって代表されるもの、あるいは自分自身の欲望や感情の投影、知識、肉の快楽、権力や支配、セックスや富をしばしば、人生の目的、生き甲斐として生きています。
したがって、すべての人が、なんらかのかたちで自分の人生の目的、生き甲斐となるものを神として生きていることがわかります。
   
この意味で神は、人々にとって人生の目的となるもの、わたしたちの人生を支配するもののタイトルであり、多くの人々にとってはなんらかのかたちで、偶像の神々が彼らの神となっています。


それでは、聖書の神はどのような神なのでしょうか。
聖書の神は、創られた自然や、人の感情、人が造り出した神ではなく、はじめに無から有を生み出し、すべてを創られ、人を神のかたちに似せて完全な創造をされた方が神(יהוה ヤーゥエ) だと宣言しています。
                             
聖書の神のみが、すべての創造の源であり、初めから存在し、真のいのちを持たれ、すべての他の存在に依らないで存在する本質のかたです。神は、初めから、永遠に存在される方です。

アブラハム、イサク、ヤコブの子孫、イスラエルの民が、エジプトで奴隷として労役にうめき、助けを求めているのを神(יהוה ヤーゥエ)は見られ、その叫びを聞き、彼らの痛みを知られて、燃える柴の炎のなかからモーセに語られました。

このとき、モーセの「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」という問いに、神は、「わたしは、『わたしはある。הָיָה הָיָה』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」  

通常「ある」という単語は、存在を示す現在形の動詞です。「ある」という動詞は、形容や状態の存在を説明することばとして使われますが、それ自身で独立して使われる言葉ではありません。
神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」と、言われました。

神は、「わたしは、『わたしはある。ἐγώ ego (eg-o') εἰμί (eimi)』という者である。」という御名によって、歴史をとおして序々にご自身をあらわされ、昔も今もこれからも永遠に変わらない方、わたしたちにとって、本質的な必要のすべてとなられ、わたしたちと関係を持たれる方であることを示されました。


神(יהוה ヤーゥエ)は、備え、いやし、戦いのときの旗印、聖いものとして聖別をされ、平安を与え、わたしたちを導かれる牧者であり、共におられ、義となってくださる、お方です。 メシアであるイエスを見るとき、イエスという御名が、ヤーウェ・シュア、יְהוֹשׁוַּע יְהוֹשׁוַּעYhowshuwa` (yeh-ho-shoo'-ah) (or Yhowshua {yeh-ho-shoo'-ah}) 神が救う、神がわたしたちの救いとなってくださる方という名であり、このように、わたしたちの必要のすべてとなられる方、わたしたちの本質的な必要のすべてとなられ、わたしたちと関係を持たれ歴史をとおしてご自身をあらわされ、永遠に存在する神ご自身であることを、具体的に知ることができます。

わたしたちが助けを求めるとき、イエスは見られ、わたしたちの叫びを聞かれ、わたしたちの痛みを知られるだけでなく、わたしたちを解放し、贖いと救いの備えとなられ、わたしたちの霊、魂だけでなく肉体をもその打たれた傷によって癒し、戦いのときの旗印、聖いものとしてわたしたちを聖別をされ、平安を与え、わたしたちを導かれる牧者であり、共におられ、義となってくださる、お方です。 

「地のもろもろの国民が、祝福を得るであろう。」「ひとつの家を建て、彼の王国を確立させ、彼の王国の王座がとこしえまで堅く立てられる。」という神の確実な約束によって生まれ、人として来られた方、同時に神の御子として、聖霊によって乙女に宿り、永遠の神の救いのご計画のなかで人類に与えられた賜物としてこの世に来られ、わたしたちの必要のすべてとなられる方、わたしたちの本質的な必要のすべてとなられ、わたしたちと関係を持たれ歴史をとおしてご自身をあらわされる「神が救われる、ヤーウェ・シュア、イエス」という御名を持たれた方のみが、わたしたち一人一人の持つ本質的な問題を解決し、救うことのできる唯一の方です。

マタイは、イエスが神の御名をすべて、あらわされる方だということを知り、イエスに信頼するとき、わたしたちは、永遠の神がわたしたちを、祝福し、守り、御顔を向けられ、わたしたちを恵み、平安を賜る方であることを体験することができる素晴らしいお方だということを、この福音書の冒頭から宣言しています。



 
マタイ福音書のメッセージ


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