風を蒔いて、つむじ風を刈り取る

(ホセア書8章7)


人は誰でも自分の蒔いたものを刈り取ることになります。
ホセアは、この箇所で北王国イスラエルが自分たちの蒔いた種によってその結果を刈り取ることについて述べています。

イスラエルの統一王国がソロモンの背信によって分裂した後、北王国イスラエルは、エルサレムの神殿を礼拝の場所とするかわりに金の子牛を二つ造りベテルとダンを礼拝の場所としました。

金の子牛は、シナイ山に登ったモーセを山の麓で待っていた民が、なかなか降りて来ないモーセを待ちきれず「わたしたちのために先立ってゆく神を造ってください」とアロンに詰め寄って、自分たちで金の鋳物の子牛を造り拝んだという因縁のあるものでした。
山から降りてきたモーセは、これを見て激しく怒り、最初に授かった契約の石の板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまいました。

イスラエルは神が与えられた契約を破り、自分たちの造り上げた偶像を礼拝し、歴代の王たちも生ける神との関係よりも自分たちの策略や他国との同盟関係によって国家を維持することに心を傾けました。そして、偶像礼拝と背信によって人々の道徳は乱れ、真実さや誠実さが重んじられず、人々は生ける神を忘れ、欺きと殺人、姦通がはびこるという状態のなかで他国からの侵略を度々受け、滅びへの道を辿りました。

聖書は、わたしたちが身近に見ることのできる自然や、いろいろな格言によって、人は自分の蒔いたものを刈り取るという真理を示しています。

使徒パウロは、この真理について「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ書6章8)と述べています。

イエスも「茨からぶどうを、あざみからいちじくを集めることができないように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。」(マタイ福音書6章18,19口語約参照)と言われています。

多くの人々がこの当たり前の真理について、あざみを蒔いてもあざみを刈り取ることがないという誤解、悪い種を蒔いても悪い実を刈り取ることがないという誤解をしています。
わたしたちは、例えば若いときに暴飲暴食をしても、決して健康を損ねたり、病気になったりしないという錯覚をして自分の食べたいものだけを偏って食べたり飲んだりするうちに、歳を重ねるにつれ、その結果を自分の身体に招きます。

自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。人生を肉の欲だけに従って歩めばいつか必ずその刈り取りをすることになります。

悪い種を蒔けば、悪い実を刈り取らなければなりません。誰もこのような因果から逃れることはできません。生ける神を否定し、神を侮り、神を嘲っても何の問題もないと錯覚し、不注意に人生の種を蒔くなら、その結果を人生の終わりには必ず刈り取ることになります。 


ホセアは、イスラエルが長いあいだ空しいものを蒔き、何の実りもないものを刈り取ることについて「風に蒔いて来たために、つむじ風を刈り取ることになる」と述べ警告をしています。

主なる神はイスラエルを慈しみ導き、相続地を与えられ、国を建てられたにも拘わらず、イスラエルは神に背き、生ける神から離れ、神を忘れました。
イスラエルは、善いものから離れ、神を神として畏れない王が王国の指導者となりました。
彼らは生ける神に寄り頼むより、自分たちで勝手に指導者、王を選び、偶像に寄り頼みました。

これらは人の知恵や知識、権力をあらわしていたり、快楽と性をあらわし、彼ら自身の貪欲や不品行を容認し、富や権力、知識、および性的な快楽を人生の目的とするバアルやアシュタレト、マモンなどの偶像の神々でした。

「イスラエルは善を拒んだ。敵は、彼らに追い迫っている。彼らは王を立てた。だが、わたしによってではない。彼らは首長を立てた。だが、わたしは知らなかった。彼らは銀と金で自分たちのために偶像を造った。彼らが断たれるために。」(ホセア書8章3-4)

イスラエルは風の中に種を蒔くように自分たちの生ける唯一の神から離れ、神を忘れ、神を嘲り、その結果ついに生ける神からの庇護から離れ、敵からの来襲のときに神から見捨てられ、王国の北方からつむじ風のように侵略してきたアッシリア帝国によって滅ぼされ、民は世界中に散らされました。 

「 迷わされて、むなしいことに信頼するな。その報いはむなしい。」(ヨブ記15章31)と言われているように、生ける神から離れて、人生の空しさを他の目的や自分の欲求によって穴埋めしようとしても、結局はむなしいことに信頼し、むなしい報いを受けることになります。

偶像の神々に信頼し、偶像に蒔くとき、そこから何も実質のあるものを刈り取ることはできません。「種を蒔いても麦には穂が出ない」(ホセア書8章7)のです。そして、たとえ穂があったとしても中には実がなくそこから「麦粉も作れない」(ホセア書8章7)のです。 


わたしたちは様々な空しい種、風を蒔いてつむじ風を刈り取るような人生の欺きに取り巻かれています。
わたしたちが、いのちのない神を拝むとき、わたしたちもいのちのないものに帰してゆきます。

わたしたちも、真実で生ける神にたいして盲目になるとき、神の素晴らしい栄光とその創造に対しても盲目になってしまいます。

わたしたちが、すべてを創造された方の素晴らしさから、創造されたものに目を移し、創造された方を拝むかわりに創造されたものを拝むとき、もはや生ける神の言われていることを聞くことができなくなります。

生ける神を偶像に取り替えて拝むとき、イエスが「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは、良い羊飼いです。」(ヨハネ福音書10章3、11参照)と言われている生ける神がわたしたちの心に語りかけておられることばも聞き分けることができなくなります。

生ける神から離れた偶像や欺きの宗教は、人々の心を捉え、人々の精神を虜にしようとします。偶像や欺きの宗教は、彼らのグループから離れることは救われないことであり、自分の身に破滅をもたらすと脅しその組織やグループから離れることに対する恐れを抱かせます。
しかし、神はそのような恐れによってわたしたちが、神との関係を持つことを望んではおられません。
神は、イエスの十字架の上で示されたわたしたちへの愛によって、わたしたちが自発的に神との意味ある関係を持つことを望んでおられます。
聖書の御ことばに聞き、素直に御ことばが語ることに従い歩みを踏み出すとき、わたしたちは真理と永遠のいのちへと導かれます。


わたしたちは、新しい真理や新しい思想、新しい啓示を求めるのではなく、すでに示されているはじめから変わらない真理によって新しい経験、新しい発見を自分の人生に見出すことが求められています。

わたしたちは、しばしばいのちのない神々に心を傾け、一方で生ける神からの祝福を願います。しかし、このように自分のために肉に蒔き、一方で御霊から永遠のいのちを刈り取ろうとしても、そこから刈り取ることのできるのは穂のなかに実がなく麦粉のできない刈り取りをするようなことになります。

わたしたちは取り返しのつかない悪い種を自分の人生に蒔いてしまうことがあります。
悪い種からは悪い実しか実りません。

しかし、このような取り返しのつかない因果、悪い種を蒔けば、悪い実しか実を実らせない状態にあって、神はイエスキリストの流された血によって、わたしたちの蒔いた悪い種、悪い実を新しい良い種、良い実を実らせるものに変えられました。

イエスキリストを人生の救い主とし、聖霊の導きのなかで日々新しく変えられる新しい歩みをするとき、神はわたしたちの人生から悪い実を実らせるものを取り除き、良い実を実らせるものへと変えてくださいます。
イスラエルもわたしたちも、イエスキリストにあって新しい御霊のために蒔き、御霊から永遠のいのちを刈り取ることができるのです。 

イスラエルは、常に風に蒔き、つむじ風を刈り取り、種を蒔いても麦には穂が出なく、たとえ実が実ったように思えるときも役にたたない実を実らせ、しかも他国人がその実を食い尽くすという状態でした。
そのためにイスラエルはアッシリアに滅ぼされ終わりの日に至るまで世界に流浪の民となりました。

しかし、神は終わりの日にイスラエルが神に立ち返るとき、背信を癒し、喜んでイスラエルを愛し、神はイスラエルのために実を得させてくださると言われています。(ホセア書11章-14章参照)

神は、悔い改めて主である神に立ち返る者に、限りない愛と恵みで実を得させてくださいます。



 
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